百合の匂い

青埜澄

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1話

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 昨夜まで降っていた雨の気配が、朝の空気にまだ湿り気を残していた。
 バスを降りた瞬間、むっとする熱気が肌にまとわりつき、アスファルトから立ちのぼるぬるい空気が、冷房の余韻をあっという間に奪っていった。
 朝の占いコーナーで乙女座は最下位だった。
「慎重に過ごしましょう」という忠告は、上村佑うえむらたすくの頭からすっかり抜け落ちていた。
 頭の中は、バスに揺られている間からずっと空にかかった虹のことばかりで、どこかで切れた薄い七色を辿るように空を見上げたまま歩いていたら、気づけば大きな水溜まりに足を突っ込んでいた。
 ぬるい泥水が靴底から靴下へ、そして指の間へとじわり染みてくる。
 佑はそのことを気にも留めなかった。というより、むしろ泥水を踏む感触がおもしろくて、もう一歩、また一歩と足を沈めた。
 こういうところは、昔から変わっていない。
 佑には少し子どもっぽいところがあった。長い廊下があると走りたくなるし、雲ひとつない空を見ると「かげおくり」をしたくなる。
 かげおくり──小学校の国語教科書に載っていた「ちいちゃんのかげおくり」で知った遊びだ。よく晴れた日に瞬きをこらえて十秒自分の影を見つめ、ふっと空を仰ぐと、影が空に浮かぶように見える。
 そういう遊びを今もひっそりと続けている。

 果物工場の休憩室に入ると、佑はタイムカードを通してすぐ更衣室へ向かい、グチョグチョの靴と靴下を脱いで裸足になった。
「上村くん、今日は裸足でどうしたん?」
 声をかけてきたのは笠松聡かさまつさとしだった。自分の娘と同じくらいの年齢だからか、佑のことを何かと気にかけてくれる。
「虹見てたら、水溜まりに気づかなくて……」
 そう答えた瞬間、別の声がかぶさってきた。
「虹見てたらって…流石だな。ヌケすぎ」
 松田修まつだおさむが呆れたように笑っていた。
 この工場で佑と同年代なのは修だけだ。バイト初日から妙に人懐っこく距離を詰めてくる修のペースに押され、気づけば一緒にいる時間が増えていた。
 まだ知り合って一か月ほどで、お互いのことを深く知っているわけでもない。それでも「友だち」と聞かれて真っ先に思い浮かぶのは修の顔だ。自分でも驚くほど、修はいつの間にか佑の近くにいた。
「パニックボーイ、はよしろ」
 修に急かされた佑はいそいそと防護服の袖に腕を通しながら声を上げた。
「それやめてや。忘れてほしい」
「無理やろ。パック詰めのスピードにビビって、両手にブドウ握ったまま固まってた新人なんて初めて見たし」
 あの日のことを思い返すと、胸の奥が軽くざわつく。ベルトコンベアーを流れてくる大量のパックは佑がブドウを入れるのを待つこともなく次々と流れていった。俺のせいで作業が止まる──そう思った瞬間、頭が真っ白になり、視界が揺れたと思った時にはその場に倒れ込んでいたのだ。立ち上がれなかった佑を起こしてくれたのは修だが、以来ずっと軽くいじられている。
 佑は靴下を諦め、裸足のまま靴を履いて防護服に身を包むと修の後を追った。

 エアシャワーを浴び、ローラーをかけ合い、消毒液をくぐる。
 一見徹底した衛生管理だが、果汁が染み込んだ防護服を家で洗う者はほとんどいない。
 白いはずの布に黒カビが浮いていても、誰も気に留めなかった。
 世の中に完璧なんてない。どこか必ず欠陥を抱えたまま回っている──佑は最近、そのことに気づき、少し落胆し、そして「まあ、そんなものか」と思うようになっていた。

 作業場はいつも冷蔵庫のような寒さだ。温度は五度前後に保たれているが湿度は高い。マスクの内側にはすぐに結露ができる。なめると、うっすら果物の甘さを感じる。
「上村くんはブドウ、松田くんはリンゴね」
 社員の指示が飛ぶと、修が手を上げた。
「すんませーん。こいつ、ブドウ入るとパニックになるんで俺入っていいっすか?」
 修が手を上げて言うと、
「どっちでもいいから早く入って」
 すげなく返され、修は佑の肩を叩いた。
「俺、リンゴ嫌いやねん。よろしく」
 佑は作業台につき、柱の時計をちらりと見た。
 アップルカッターで八等分に切るだけの作業だが、集中が途切れると途端に時間が止まったように感じる。
 まだあと二時間もある──佑は時計を確認するとマスクの中で息を吐いた。甘い結露が垂れて顔を伝う。
 裸足のせいで思った以上に足元が冷えた。時折、指をぐーぱーと動かしてみたが、じわじわと感覚が薄れ、骨の奥へ冷たさが染みてくる。
 佑はこの時になってやっと、乙女座が最下位だったことを思い出し、自分の不注意を悔いた。

 昼交代の頃には、足先の感覚はほとんど失われていた。
 歩くたびに血が戻り、ジンジンとした痛みが広がる。
 席につくと、笠松がにこやかに言った。
「二人は学生やろ? 土日ずっと入ってるけど、友達とか彼女と遊ばなくていいの?」
「俺らさみしいもん同士なんで二人で慰めあってんすよ」
 修が軽く返し、笠松は大げさにため息をつく。
「もったいない。せっかくの大学生活なのに」
「じゃあ笠松さんの娘さん紹介してくださいよ」
「上村くんならいいけど松田くんはねぇ~」
「なんでっすか、俺の方がいいでしょ」
 部屋には十人以上いるのに、周囲は驚くほど静かだった。
 笠松によれば、みんな一人でいるのが好きらしい。
「こうして賑やかに食べる方が楽しいのになぁ」
 白い長テーブルのあちこちにぽつりぽつりと距離を置いて座る従業員を見渡し、笠松はまるで気に食わないという風に顔をしかめた。
 修がいなければ、俺もあっち側だ——佑はそう思った。
 普段、大学の図書館前の静かなスペースで一人で食べる自分の姿が佑の頭をよぎった。
 修も珍しく黙っている。
 佑はどう反応すればいいかわからず、慌てて「そうですね」と笑ってみせた。

 午後の作業を終え、更衣室に戻る頃には、佑の足先は赤く腫れ上がっていた。
「おい、どうしたそれ」
 修が驚いた声を上げる。
「靴下濡れたから裸足で作業してて……気づいたらこうなった。今めっちゃ痛い」
「そりゃ霜焼けやろ。帰ったら温めなさいよ」
 笠松が優しく言い、修はしゃがんで佑の足に触れた。
「冷たっ。歩けるん?」
 修は隣にどさっと座り込み、少し睨むように言う。
「言えよ、こうなる前に。あほやな」
「ありがとう。歩けるよ」
「送ったるわ。車やし」
 本来なら断るべき誘いだと思った。家が近いか遠いかも知らない相手なのだから。
 それでも佑は、不思議と断る気になれなかった。
「……じゃあ、お願いする。すぐ帰り支度するから待ってて」

 車に乗り、住所を伝えると修が目を丸くした。
「え、近っ。七分もかからんやん」
 修は笑いながらナビをセットし、指先でハンドルを軽く叩いた。
 エンジン音が静かに車内へ満ちていく。
 運転席の修は落ち着いていて、どこか大人びて見える。
 佑は免許すら持っていない。自分にはできないことを、修は当たり前みたいにこなす──年齢が二十以上離れている人とも対等に話し、意見し、車を運転する。
 信号が赤に変わった時、修がふと言った。
「そういや、佑って教師目指してるんやったな。なんでなん?」
 佑は少し考え、言葉を選んだ。
「……子どもが好きっていうのもあるけど。
 俺はさ、学校が嫌だった時期も、楽しくて仕方なかった時期もあって。
 それに、人を心底嫌いになったことがないから……誰にでも寄り添える先生になれるんじゃないかって、思って。…なんか面接みたいだな」
「すげぇな、お前」
 修のまっすぐな言葉に思わず「でも……」と口をついたが修は続けた。
「俺が小学生とか中学ぐらいの時、佑みたいな素直で純粋な大人、近くにいてほしかったわ」
 その言葉に、佑は一瞬、修の横顔を見た。
 自分は修のことをまだ何も知らないし、修も佑のことをほとんど知らない。

 家の前で車を降り、走り去る車に小さく手を振る。
「……嘘つき」
 そう呟いた声は、湿った風にさらわれて消えた。
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