百合の匂い

青埜澄

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2話

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「上村くんは百合みたいですね」
 小学生の頃、担任だった田渕正則がそう言った。教室には佑と田渕の二人きりだった。
「百合?」
「はい。白くて、いい匂いのする花です。今度持ってきてあげます。先生は百合が好きなんですよ。白くて、凛としていて、純粋な美しさがある。そういうものはね──僻みの対象になりやすいんです。傷つけたくなる人もいる」
 佑は左手の親指の付け根を押さえた。爪が食い込んで出来た傷は、まだ完全には塞がっていない。その傷は二度目だった。
 一度目は、爪を長く伸ばした女の子に指相撲を挑まれたとき。佑が「痛い」と言うのを、彼女は逃げるための嘘だと思ったのだろう、力を緩める気配はなかった。
 女の子を傷つけてはいけない──そう言われて育ったけれど、当時は彼女たちの方が力強く、口も達者で、到底傷つけられる存在とは思えなかった。
 そして傷つけられた親指の付け根を見て、より一層女の子を恐れた。
 その話を、当時一番仲の良かった友人にした。どういうふうに伝えたかは忘れたけれど、その話をした後、今度は彼が爪を立ててきた。「痛い」と言っても彼は笑ったまま手を離さなかった。血がにじんだ瞬間、満足そうに笑い、ふと我に返ったのか「大丈夫か」と自分のハンカチを差し出してきた。それから毎日のように申し訳なさそうに佑の傷の具合を確認するのだ。
 佑は時々、人の中に住む悪魔の姿を見た。
「でもね、先生が守ってあげるから。ちゃんと見てますから」
 田渕の提案で、佑は彼と交換日記を始めた。校庭にいると、ふと視線を感じて校舎の窓を探してしまう。見つけると、田渕は必ず微笑んでいた。クラスのみんなの前で褒められることも増えた。
 先生が見てくれている──そう思うだけで佑は以前よりも少し自信を持っていられた。
 内気だった佑は、前より声を出せるようになっていた。
 いつの間にか、佑は「先生みたいな大人」になることを思い描くようになっていた。

 卒業して一年ほど経った頃、田渕が出勤停止になったと聞いた。子どもに“手を出した”という噂が広まったのだ。
 佑はそのことに多少驚きはしたが、嫌悪はなかった。ただ少しさみしい気持ちになった。
 先生との交換日記はランドセルと一緒に捨てた。

 玄関のドアを開けた瞬間、甘く澄んだ香りが鼻に付いた。靴箱の上に白い百合が三輪、静かに生けられている。
 その中の一輪に顔を近づけると、香りが鼻の奥を刺激して大きなくしゃみが出た。
「ただいま。これ、どうしたん?」
 台所の母が振り向き、「おかえり」と笑った。
「職場の人が、佑が百合好きやって話したのを覚えてくれてて、たまたま見かけたからって花屋さんで買うてきてくれはってん」
「職場の人って、男の人?」
「警備員さん。おじちゃんやで」
 母はまったく気にしていない様子だったが、その“おじちゃん”が母に好意を寄せているのは明らかだと佑は思った。
 母はいくつになっても若々しく、美しい。母がモテること自体は、どこか誇らしくもあった。
けれど、父以外の男が、母への好意を“佑という入口”から示してくるのが、どうにも癇に障った。
 もしかして、母がそうなるように誘導しているのではないか——そんな考えが浮かんで、佑はすぐに首を振った。
「ていうかさ、俺、百合が好きなんて言ってないやろ?」
「言うてたよ。『俺って百合に似てる?』って聞いてきて、『似てるかもな』って答えたら、『俺、百合好きや』って言うとった。小学生んときやったなぁ。覚えてないん?」
 母が細かく覚えているのを聞いて、佑は「ああ……確かにそんなこと言った気もする」と思った。
 結局、すぐに降参して話題を切り上げた。
 
 季節外れの霜焼けが落ち着いた頃、修からLINEが来た。
「次の週のシフト、午後休みになってるけどなんか予定入ってる?」
「何もない。どうした?」
「ちょっと買い物付き合わん?」
 業務のこと以外の連絡も、遊びに誘われるのも初めてだった。
「いいよ」
 そう打ったものの、数秒考えて消した。
「行きたい」
 佑はその四文字に打ち直し、ようやくしっくりきた気がして送信した。
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