百合の匂い

青埜澄

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9話

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 花火大会当日は、朝から空が重かった。分厚い雲が低く垂れこめ、たまに雲間から差す光が、かえって期待を煽る。
 ――晴れるかもしれない。
 そう思ってしまう自分を、佑は少し持て余しながら家を出た。

 夏休み中、佑は土日しかバイトを入れていなかった。
 修は別のバイトと掛け持ちを始め、以前より顔を合わせる機会が減っている。
 家にいると、考えなくていいことまで考えてしまう。
 だから今日は、図書館前に設けられた自習スペースで勉強することにした。

 図書館の前に着いた瞬間、雨粒がひとつ、鼻先に落ちた。慌てて中へ入ると、すぐに雨脚が強まる。
 ガラス越しに外を見ながら、佑はぼんやりと思う。この雨で、本当に花火は上がるのだろうか。
 修とは、待ち合わせの時間も場所も決めていない。当日まで連絡もなかった。
 それでも不思議と不安にはならず、ただ連絡を待てばいいと思っていた。

 白い壁に、白い机。
 ペンの走る音と、紙をめくる音が重なり合う。
 急かされるような気配に、佑はスマートフォンを伏せ、ノートを開いた。
 ふと視線を感じて顔を上げると、隣の席に見覚えのある顔があった。
「林さん?」
 声を潜めると、彼女は少し驚いたように笑った。
「やっぱり上村くんや」
 高校一年のとき、同じクラスだった。特別仲が良かったわけでも悪かったわけでもない。ただ、友人が少しの間、彼女と付き合っていた。
 その頃はかけていなかった眼鏡をかけた彼女が、佑のノートを覗き込む。
「何の勉強してるん?」
「……教員試験」
 口にしながら、佑はそれを言う意味を考えた。
 なりたいかどうかは、今でも分からない。
 ただ、みんなが進む方向から外れないように歩いているだけだ。
「凄いね。私は看護の勉強。看護師になりたくて」
 迷いのない声だった。
 軽い咳払いが聞こえ、二人は顔を見合わせて黙る。
「これ、あげる」
 林は小さなチョコレートを差し出した。
 リボンの結び目が、やけに整って見えた。
 それからは言葉を交わさず、佑はノートに向かった。林の横顔を意識しながら、姿勢を正してペンを走らせる。自分も、ちゃんとまっすぐに進んでいる人間に見せたかった。
 休憩のため席を立ったとき、隣はもう空いていた。
 スマートフォンが震え、修からメッセージが届く。
『十六時に家まで迎えに行く』
「了解」とスタンプを返し、時計を見る。
 まだ十三時だった。
 少し眠くなって、そのまま帰ることにした。
 雨は降ったり止んだりを繰り返し、空は相変わらず重い。

「着いた」
 連絡を受け、佑は傘を持って外に出た。車に乗り込むと、修はフロントガラス越しに空を見上げる。
「花火日和やな」
「そうやな」
 適当に返すと、修は笑って佑の髪を乱した。
「適当な返事すんな」
 その仕草に、佑はほっとする。修から感じる少しの違和感が、薄れていく気がした。
 車が走り出すと、また雨が落ちてきた。
「佑、傘持ってきた?」
「持ってきた。修は?」
「持ってへん。夏やし、ちょっとくらい濡れても大丈夫やろ」
 そう言っていたが、山の駐車場に着く頃には雨は本降りになっていた。
「傘入れよ」
「ええって。それより、花火あんのこれ?」
 人が次々と駐車場へ戻っていく中、二人は展望台へ向かう。
 修の頭に巻かれたタオルはすぐに水を吸い、重たそうだった。
 靴の中に水が入り、傘を差していてもほとんど意味はない。
 しばらく待って、スマートフォンが震えた。
「……中止やって」
 雨の音に負けないよう声を張ると、修は笑う。
「中止?」
「中止!」
 なぜか、佑も笑っていた。
 最初から、そうなる気がしていた。
 修が濡れたまま体当たりしてきて、佑はよろめく。
 傘を閉じて追いかけ、坂の上で息を整え、顔を見合わせた。
「俺ら、あほやな」
「佑とおったら、あほになるわ」
「こっちのセリフや」
 佑は一息置いて言った。
「でもさ……俺ら二人でおったら、十分ってかんじする。彼女もいらん。誰もいらん。修とおるのが一番楽しい」
 修は少しだけ目をそらす。
「あほか。俺は彼女欲しいわ」
 そう言って、車へ戻る。
 佑はその背中を追いながら、足がずんと重くなるのを感じていた。
 車に戻ると、修は服を脱ぎ、タオルで体を拭いた。
「これ使え」
 言われるまま佑も服を脱ぎ、タオルを受け取る。
シートに座ると、修が一瞬だけ目を見開いた。
「なんで脱いだ?」
「修がタオルくれたから、お前も脱げってことかと」
「……頭空っぽか?少しは考えろよ。フツーにこれで髪とか拭いたらってこと」
 笑い混じりの声だったが、佑の胸には深く刺さった。
 今まで誰にも指摘されたことがなかった、自分の中の空洞を見抜かれた気がした。
 黙り込んだ佑の体に、修が覆いかぶさる。
 車体を打つ雨の音が、少しだけ遠のいた。
「かわいいやつ」
 修の唇が被さるようにして、静かに触れた。
 そのとき、頭の中で、積み木が崩れるような音がした。もう、修が何を考え、何を求めているのか分からなくなってしまった。
「……めちゃくちゃだ」
 佑が助手席の窓の方へ身体ごと目をそらすと、修は何事もなかったように車を出した。

 ファストフード店で食事をして、いつも通りに過ごした。 
 せめて修にはいつも通りだと感じていてほしかった。
 帰り道、修は言った。
「今日のこと、たぶん忘れへんと思う」
 どこか遠くへ行ってしまうような口ぶりに、佑の胸がざわつく。
 喉に引っかかっていた言葉を、ようやく口にした。
「……なあ、修。タバコ吸ってる?」
「へぇ、なんで分かったん?嫌がると思って、お前といる間は吸ってなかったのに。ああ、で?」
 おどけた口調が、余計に悲しかった。最初からあった違和感だ。ずっと、気づかないふりをしていた。
「ほどほどにしろよ」
 それだけ言って、佑は車を降りた。
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