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しおりを挟む神導は、以前と同じようにVIPルームへと万里を誘った。
「大変だったね」
他人事のような軽い口調で、肩を竦める。
だが、今の万里には神導の表情に労りが含まれていることがわかるため、以前のように突っかかったりはしない。
「久世…さんが助けに来てくれて、父ともども怪我とかもなく帰れて、よかったです」
「うん。話は昴から大体聞いたと思うけど、あまり事情を明かさず危険な目に会わせてしまったことは本当にごめん。会社のことはすべて昴経由でやってるから、後々僕達との繋がりをどうこう言われることはないと思う」
ここまで世話になっているのだから、後日誰かに何かをいわれたところで、文句を言うような筋合いではない。むしろ……、
「あの、色々と……ありがとうございます。父が迷惑をかけてすみませんでした」
神導が久世に話をせずに、上司の指示通り父からただ借金を取り立てていたら今のこの状況はなかったのだ。
自分も手間をかけたとは思うが、父は現在進行形でかなりの迷惑をかけていると思われる。
足を向けて眠れないとはこのことだ。
体をくの字に折って礼を言うと、神導は苦笑した。
「『ありがとう』と『ごめんなさい』がきちんと言えるのはいいことだけど、万里は真面目だなあ。僕達が手を貸しても必ずいい結果になるとは限らなかったから、そこはやっぱり鈴鹿親子が今まで頑張ってきたことと、大変な状況になっても諦めなかったことが事態を好転させたんじゃないかな。万里は店で頑張ってたし、お父さんも…実務は苦手だったかもしれないけど、彼なりに顧客や取引先を大事にしてたから再建っていう道があったんだよ」
そう……なのか。
父は仕事に関わることは何一つしていなかったと思っていた。
そして、神導が万里に対して『店で頑張っていた』などと思っていてくれたとは。
真に受けて『俺スゲー』などと思うわけではないが、少し感動してしまった。
「休学届を出してた大学の方は、週明けくらいから復帰できるように手続きをしておくから。それまでに引っ越しや元の生活に戻る準備をするといいんじゃないかな」
単位までは流石にフォローしてあげられないから、頑張って。
続く神導の言葉がどこか遠くに聞こえた。
そうだ、この生活は、もう終わってしまうのだ。
ずっと早く実家に戻りたいとは思っていた。
今も、捨ててしまいたいと思うわけではない。
でも……もうこの場所とも『SILENT BLUE』のスタッフとも何の関係もなくなってしまうのかと思うと、
……寂しい、というのが万里の偽りない気持ちだ。
「家に…元の生活に戻れるんだよ」
万里は返事をできず俯いた。
「嬉しくないの?」
「いえ、…いいえ。………嬉しいです」
万里の冴えない表情を見なくても、その心情などお見通しなのだろう。
ぽんぽん、と優しく頭を撫でられる。
「辞めること、惜しんでくれるんだね」
長くて細い、綺麗な指だ。
こんなにキラキラした人も、場所も、万里は今まで見たことはなかった。
「初めて会ったときに、家が大切な場所だって言った万里に、わかるって返したよね。『SILENT BLUE』は僕の失いたくない大事な場所の一つなんだ。僕にとって、夢の第一歩になった、とても大切な場所」
今なら、それを信じられる。
この場所は、とても気持ちのいい場所だ。
「それを気に入ってくれたことは僕もとても嬉しい。だけど、君には君の世界とやるべきことがある。大切な場所を、守りに戻らないと」
万里が元の場所で今やるべきことに注力することが、神導にとって一番嬉しいことなのだと、そう言われた気がした。
神導の言うことは、正しい。
万里は顔を上げるとしっかり頷いた。
それを見て神導は微笑み「頑張って」と肩を叩く。
そして一歩を踏み出し、万里の耳元に不思議な一言を吹き込んだ。
「昴をよろしくね」
「(え…っ?)」
どういう意味だろう。託される理由もない。
聞きたかったが、神導は既にドアを開けて出ていくところで、万里はその姿勢のいい後姿を見送ることしかできなかった。
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