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しおりを挟む最低限の荷物しか持ち込んでいなかったため、家に戻る準備はすぐに済んだ。
空けていたといっても二か月なので、家の方もそれほど荒れたりはしていない。
戻る前日に適当に掃除機をかけ、祖父と母の位牌のある仏壇だけ念入りに掃除をして、花を供えた。
手を合わせると、改めて全て無事に終わってよかったという実感がわいてきた。
これからは父が遊びすぎないよう目を光らせつつ、自分ももっと日々を真剣に生きていきたいと思う。
父からも『もうすぐ帰るから、そしたら親子二人で美味しいものでも食べに行こう☆』という連絡が入った。
その『もうすぐ』が何日後なのかとか、美味しいものよりもまず会社のことだろとか、色々と言いたいことはあったが、一応期待している旨の返信を送っておいた。
……日常が、戻りつつある。
そして最後の勤務の日。
最後の賄いを食べるべく、万里はいつものように早めに出勤した。
「おはようございます」
「おはよう、鈴鹿。今日が最後だな。何にする?」
鹿島に問われ、万里は少し考えた。
「なんか……パスタで」
「米じゃないのは珍しいな。シーフードでもいいか?今日は美味い伊勢海老があるから」
いい予感しかしない提案に、お願いしますと頷いた。
『SILENT BLUE』を辞めることで一番辛いのはこの賄いを食べられなくなることではないだろうか。
鹿島は調理する手を動かしながら、しんみりと言う。
「鈴鹿がいなくなると、寂しくなるな。腕の振るい甲斐が半減だ」
「残り半分は副店長ですか」
「そ。俺はドカ盛り系結構好きなんだけど、みんな『量は少なめで』とか少食だからなあ。昼食の時間帯だけ、学生とか労働者の多いところで『安い・多い・美味い』みたいな定食屋とかやりたいな」
「そんなん絶対毎日行きますよ。あ、もちろん高級な店でも、鹿島さんのメシ食うためにバイトして通いますけど」
「ありがとな。やるときはよろしく」
伊勢海老をふんだんに使ったシーフードパスタは絶品だった。
やがてスタッフが集まり始め、ミーティングが始まる。
「バンビは今日が最後の勤務になる。各人別れを惜しんだり惜しまなかったりするように」
店長の桃悟は相変わらず男前な顔でにこりともせずにそんなことを言いながら、一言を万里に促した。
万里は苦笑しながら一歩前に出て、スタッフを見回して深く頭を下げた。
「短い間でしたが、お世話になりました。ご迷惑をかけることばかりでしたが、すごく勉強になった二か月間でした。ありがとうございました」
「お疲れ」「ありがとう」等のあたたかい声がかかり、近付いてくる影がある。
「お疲れさまでした。僕は個人的なことも含めてだけど、今日までありがとう、万里」
「チーフ……」
優しく細められた切れ長の瞳ににっこりと微笑みかけられて、つい目頭が熱くなった。
この人たちのことを、忘れることはないだろう。
ミーティングが終わると、伊達が再び声をかけてきた。
「万里、今日は間もなくバンビをご指名してくださったお客様がいらっしゃるから、受付の方にいてくれる?」
「え、俺をですか?わかりました」
誰だと思ったが、予約ということは、何となく予想がつくようなつかないような。
「よう、バンビちゃん」
開店後すぐに現れたのは、何となくの予想通り久世だった。
「あ…………い、いらっしゃいませ?」
「『あんたかよ』って二人きりの時みたいに言ってくれていいんだぞ?」
何で言いかけた言葉がわかったのか。エスパーかこの男は。
あとその思わせぶりな言い方やめ!
「コートお預かりします!」
何でこの男は最後の日までこうなのかと、チェスターコートを奪い取りながら万里は頬を染めた。
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