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しおりを挟む万里の手を引いてバックヤードまで戻ると、桜峰はソファに座るよう促した。
差し出されたハンカチを頭を下げて受け取り、目元を拭う。
「大丈夫?」
「す……みません、接客中に、こんな……」
「まだお客様も少ないし、お店のことは心配しなくても平気だと思うよ。落ち着くまで、少し休んで」
柔らかく微笑まれると安心してしまいそうになるが、同じ状況でも他のスタッフならばこんなこともなかっただろうと思うと、自分の未熟さが身に染みて「すみません」と項垂れた。
けれど、自分でもまさかあの一言に泣き出すほどショックを受けるなんて思わなかったのだ。
冗談だろうといつも言い聞かせていたのに、どこかで自分は久世の特別なのではないかと期待してしまっていたのか。
自分の気持ちすら把握できていない本当の『バンビちゃん』に、神導の代わりなど務まるはずもないのに。
そこで扉が開き、万里が反射的に視線を向けると、副店長の望月が不機嫌そうな顔で足早にこちらに歩いてくる。
影が差したと思うと、肩に手を置かれた。
「(…怒られる…)」
覚悟して、身を固くしたが。
「安心しろ、万里。奴は唯純が丁重に追い出したからな」
叱責を受ける覚悟を決めていたところへの意外な一言に、目を瞠る。
「で、でも、く…お客様は、悪くなくて」
どうしよう。大変なことをしてしまったかもしれない。
慌ててフォローを試みたが、怒り冷めやらぬ様子の望月はにべもなかった。
「うちの大事なスタッフを泣かせた方が悪い。以上」
真剣な望月の大きな瞳はきっと吊り上がり、目力が強すぎて怖いぐらいだ。
だが、そんな風に、大切にしてもらえているとは思っていなかった。
それでいいのだろうか。それがまかり通ってしまうのがこの店なのか。
万里は、久世に申し訳ないと思う一方、胸に熱いものがじわりとこみ上げるのを感じた。
それは万里を静かに満たしていく。
隣でやり取りを聞いていた桜峰が、何かを思いついたように口を開いた。
「じゃあ、副店長の必殺技でお客様の方が泣いてる場合は?」
「それは感涙だからむしろサービスの一環だろ。サービス業はエンタメ、即ちプロレス」
たぶんちがう。
万里は心の中でツッコミを入れたが、桜峰が同じ感想を抱くわけもない。
「うーん…俺も何か技を持ってた方がいいですかね…?」
「なんか……湊はそのままでいいんじゃないか。無自覚のアウトなサービスが提供されそうで副店長としては不安だ」
「アウトなサービス?って何ですか?」
「……そのままのお前が好きだぞ、湊」
桜峰は首を傾げているが、みなまで言われずとも万里には『アウトなサービス』が何か分かった。エッチなやつだ。
アイドルのように綺麗な顔の二人が繰り広げる素の漫才が可笑しくて、泣いていたことを忘れて笑ってしまった。
大丈夫だ。この人たちがいてくれるから、笑える。
久世とのことは、叶わないことがわかって初めて本気だったのかもしれないと気付くなんて、自分も大概鈍いが、もっと早く自覚したところでどうしようもなかった。
きっとしばらくは悲しいだろう。
でもこの人達と仕事をできるのは今日が最後だ。
自分を哀れむのは後にして、彼らの記憶の中では頑張っている自分でいたい。
「あの、副店長。この後、復帰してもいいですか」
まだ少し鼻声で、それでも真剣な表情で聞くと、望月は万里の様子を子細に観察する。
「いけるか?」
「鈴鹿、無理しないで」
きちんと仕事ができるのかと確認する望月と心配そうな桜峰に、大丈夫と頷き返す。
「今日でラストだから、最後までみんなとフロアにいたいです」
無理にでも笑って見せると、二人とも了承してくれてほっとした。
顔洗ってこい、と言われて、そうしますと立ち上がる。
桜峰は、いつでもフォローに入るから、何かあったら呼んでね、と優しい言葉をくれた。
あたたかい人達に支えられて、その日万里は閉店までこれまでと同じように働き、そして退職した。
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