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透明人間8
しおりを挟む夜8時ころに尚人さんの携帯電話が鳴った。
尚人さんがそれを取って、そして彼の表情が変わるのを、私は見た。
「…じゃあ、悪いけど、留守番頼むな…絋海も」
尚人さんはそう言い残して、翌朝どこかへ行ってしまった。何か用事があるらしい。
残されたのは、私と紘海くんだった。
「…尚人さん、何の用事なの」私は尋ねた。「なんだか…」
「ん?仕事だよ。大人にはいろいろあるんだ」
紘海くんは変わらない調子で言ったけれど、私にはなんだか、尚人さんの様子がいつもと違って見えた。
その日は平日だったから、私は学校へ行かなければならなかった。だけど一日中尚人さんのことが気になって、授業に集中できなかった。
家に帰ると紘海くんはいなかった。どうやら仕事らしい。夕ご飯と書き置きがあった。
それから私は宿題をしようとノートを開いたけれど、全然集中できなかった。
何度も頭の中で再生されるのは、今朝の尚人さんの表情。寂しそうな、戸惑っているような、無理に笑おうとしているような…今まで見たことのない表情だった。
どんなことがあって、何の用事で、尚人さんはどこへ行ったのだろう。
そして、寂しそうな彼をひとりにしていいのだろうか。
翌朝、朝帰りした紘海くんに、私は聞いた。
「尚人さんはどこに行ったの。そして、尚人さんに何があったの」
「…言っただろ、仕事だって」
「嘘。だって、昨日の尚人さん、様子がおかしかった。教えて。何があったのか」
「……」
紘海くんはしばらく頭をかいて、困ったように何かを考えていた。そしてひとつ、長いため息をつくと、メモ用紙に何かを書き始めた。
「これ」紘海くんはメモを書き終えると、私に渡した。「尚人の居場所…俺も心配してたんだ。幼いエリカにこんなこと頼むのもあれだけど…でも、俺が行くよりはあいつの力になるかもな」
私はメモを受け取って、もう一度同じ質問をした。「…尚人さんに、何があったの」
「母親が、亡くなったって」
私はすぐ支度を整えて、駅へ向かった。お金は紘海くんから借りた。学校は休んだ。
駅に着いて切符を買った。尚人さんと一緒に何度か電車に乗ったけれど、ひとりで乗るのは初めてだったから、心臓がどきどきして、落ち着かなかった。
尚人さんの居場所は、電車で2時間くらいの、郊外の静かな町だった。その駅に着いて、私は走った。
尚人さんの元へ。早く辿り着けるように。
彼が寂しそうな顔をしているのが嫌だった。つらい思いをしているのなら、行ってそばにいたかった。
私に何かができるとは思っていない。ただ、そばにいたかった。
尚人さんがずっと私のそばにいてくれたように。
つらいときに、迎えにきてくれたように。
尚人さんの居場所へ向かっている途中、小さな公園の前を通りかかった。
ベンチに誰かが座っているのが見えた。スーツ姿の男の人だ。
私はもしや、と思って足を止めた。ゆっくりと近づく。そっと、その人の前に立つ。尚人さんだ。ようやく会えた。
「…エリカ」
彼が驚いて私の名を呼ぶ。その声が、聞きたかった。
**********
尚人side
夜8時過ぎに携帯電話が鳴った。
出てみるとそれは、幼いころ会ったきりの親戚からの電話で。
「お前の母さん…亡くなったぞ」彼はそう言った。
翌日俺は、エリカを紘海に頼んで、実家近くのセレモニーホールへ向かった。
長い、電車に乗っている時間の中で、俺はずっと、母親のことを思い出していた。
あんなに憎んで、もうずっと記憶を奥に押し込んでいた、あいつのことを。
俺の母親は、とにかくだらしない女だった。もう朧げな記憶しかないけれど、離婚して旦那がいないのをいいことに、夜も出歩いて遊んでいた。幼かった俺をひとり残して。
運よく父親から養育費だけは出してもらっていたので、それを使って俺は高校を卒業し、家を出た。
それ以来、母親には会っていない。
実家の最寄りの駅に着いた。俺は小さな荷物を持ち、ホームへ降り立つ。
セレモニーホールへの道のりは、ひどく足取りが重かった。
セレモニーホールへ着くと、母親が眠ったように横たわっていた。
それからのことはよく覚えていない。お通夜、葬儀を終わらせて、俺ひとりになった。俺も帰らなければならない。
なのに、どうしてだろう。今座っている、実家の近所にある公園のベンチから立ち上がることができない。
何を考えている訳でもない。ただぼんやりと、やっぱり泣けなかったし泣けないな、と思っていた。
ただ、憎む気持ちももうなかった。
すべてが空っぽで、空虚で。
そして本当に、ひとりになったんだ、と思った。
そうやってぼんやりとして、どのくらい経ったのだろう。ふと、目の前に誰かが立つ気配がして、俺は顔を上げた。
「…エリカ」俺は言った。
彼女は、走ってきたのだろうか。息を弾ませて、俺を見つめていた。微笑んで。
俺も黙ったまま、エリカの手を取り、引き寄せて抱きしめた。そのぬくもりを感じて、俺はまたぼんやりと、ひとりじゃない、と思った。
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