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透明人間7
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尚人side
「絋海くんは尚人さんの友達なの?」エリカが聞いた。
今は午後7時過ぎ。またしても紘海は俺の部屋に上がり込んでいる。
「…友達ではないな」俺は答えた。
「ひでー、俺たち親友だろ?」紘海が言った。
「…お前な、初めて会話した時なんて言ったのか覚えてないのか。エリカ、こいつは俺にバカ、って言ったんだ。ひどいだろ」
「ーーバカじゃないのか」
頭上から声が聞こえて、高校生の俺は顔を上げた。
立っていたのは、同じクラスの合原紘海だった。
俺は、何だコイツ、と思って睨んだ。いつも、誰からも文句がつけられないように成績は上位を維持していたし、同じような理由で周りの人には親切にし、非の打ちどころがない優等生を演じてきた。そんな俺に「バカ」なんて言う奴なんていなかった。
合原は出入り口を指差し言った。「お前のこと、呼んでる」そこには、最近付き合い始めた彼女がいた。
「…ああ」
俺が返事をすると合原は自分の席に着いて窓の外を眺めた。合原は窓側後方の席で、いつもひとりでいる変わった奴だった。
なぜ合原が俺に「バカ」なんて言ったのか不思議だったけれど、俺はそんなことはすぐ忘れて彼女の元へ行った。
**********
放課後は大抵、彼女と話して過ごした。
彼女はよく喋る子だった。俺は今度は「いい彼氏」を演じて、彼女の話に相槌を打った。
そしていつも18時くらいになると帰っていく。家族が遅くなるとうるさいのだそうだ。
俺は、誰も待っていないマンションへ帰る。テーブルの上には今日の夕食代が置いてある。母親は今日も男のところに泊まるのだろう。
父親は、顔も覚えていないほど会っていない。でも、俺がこうして高校へ行って生活できるのは彼の養育費のおかげだったから、感謝だけはしているけれど。
制服から私服に着替えて、冷蔵庫を開けた。中にはほとんど何も入っていない。
小学生の頃から、毎日コンビニの弁当が嫌で自炊をしていたのだが、最近はもう作っていなかった。それは。
俺は外へ出て、隣りの部屋の呼鈴を押した。すぐにドアが開いて、中から女の人が顔を出した。
「おかえりなさい、尚人くん」成美さんが言った。
「…ただいま」
「ご飯できてるよ、食べる?」
成美さんは結婚していたのだけれど、旦那さんは仕事を理由に、ほとんど帰りが深夜なのだそうだ。この当時の俺たちは寂しくて、こうして毎晩会っていたのだろう。今ならそう理解できる。
食後はふたり身体をくっつけて、話をする。ほとんど俺が話し、彼女は話を聞いて笑っている。
話が尽きると、俺は彼女にキスをする。そのままソファに彼女を押し倒し、彼女の身体に溺れる。毎晩これの繰り返し。
本当は彼女はこんなこと望んでいないだろう。彼女の望みは誰かに「おかえり」と言って一緒に食事をし、話を聞くところまでなのだろう。
けれど俺はどうしても、こうせずにはいられなかった。言葉だけじゃ足りない。触れ合って誰かの体温を感じていないと、寂しさを埋めることなんてできなかった。
彼女が両腕で、俺の頭を抱きしめた。それはきっと、彼女の優しさだろう。
**********
学校が休みの日も、俺は成美さんと会っていた。土日でも、彼女の旦那は家にいないらしい。
休みの日は、ふたりで外に出かけた。成美さんは旦那さんに見つかることを恐れていなかったしーーむしろ、それを望んでいたように見える。どんな形であれ、旦那さんに振り向いてもらうのが、成美さんの望みだったから。
俺の方も、付き合っている彼女にバレるのは構わなかった。「付き合って」と言われたから付き合っていただけだし、この当時の俺の寂しさを埋められるのは、成美さんだけだった。
そして案の定、彼女に成美さんと会っていることがバレた。
「…昨日尚人の隣りにいた女、誰?」
次の日の朝、学校に行くと、彼女が俺のクラスにやって来て開口一番そう言った。俺は、いつかこんな日が来ると思っていたから、別に驚きもしなかった。
「私たち付き合ってるんでしょう!?なんで他の女なんかと…」
「…君がそう言ったから、付き合ってただけだ」
「え…?じゃあ、尚人は私のこと…別に好きでもなんでもなかったの…?」
「ああ」
俺がそう言うと、彼女は泣き出し教室を出ていった。
俺はそのことに関して後悔も罪悪感も感じなかった。
だって、いつでも思っていたのだ。
君と別れて家に帰った後の寂しさを、君は考えたことがあるのか、って。
君は家族がいる家へ帰り、俺は誰もいない家へ帰る。その寂しさを、理解しているのか、って。
「ーーだから言っただろう、お前はバカだ、って」
後ろから声が聞こえて、振り返った。合原が立っていた。
「好きでもない奴と付き合って、本命は別にいるのに」
「…お前、最初から知っていたのか?」俺は合原を睨んだ。
「ああ。お前が今の彼女じゃない女の人と街を歩いているのを見たことがある。…にしても、お前」合原は少し笑って言った。「もしかしたらこうなることを望んでいたんじゃないのか?」
「……」
「少なくとも、後悔も罪悪感もないだろ」
俺は驚いて合原を見た。学校では優等生を演じて隠してきた俺の本音を見抜いたのは、こいつだけだった。
その後、成美さんは突然引っ越してしまった。俺との関係が旦那さんにバレてしまったのかもしれない。ただ、彼女が幸せであるように祈った。家庭を壊すようなことをした、俺が幸せを祈るなんて虫が良すぎる話だが。
だけど、成美さんと出会ったことで、誰かと一緒にいる喜びを知ることができた。彼女と出会わなければ、エリカとこんな風に一緒に暮らすこともなかっただろう。
学校の彼女と別れてからは、ひとりで過ごすようになった。「女の子を泣かせた男」として注目されるようになったからだ。
昼休みは教室に居づらいので、いつも屋上へ行った。俺がひとりで屋上にいると、後から必ず合原がやって来た。大人になってから理由を聞いたら「自殺しそうだったから見張ってた」そうだ。
学校で優等生を演じていた俺が本当の自分を出せる場所は、合原の前になった。
「…腐れ縁、だよな。本当に」24歳の俺は言った。
「何言ってんだよ。俺がいなきゃお前、今でも道を踏み外してたままだったぞ」同じく24歳の紘海が言う。
「…つーか、必要悪、って感じなんだよな」
「なんだよ悪、って」
俺たちの様子を見て、エリカが笑った。これも紘海のおかげなんだろうけど、礼は言わないでおこう。
「絋海くんは尚人さんの友達なの?」エリカが聞いた。
今は午後7時過ぎ。またしても紘海は俺の部屋に上がり込んでいる。
「…友達ではないな」俺は答えた。
「ひでー、俺たち親友だろ?」紘海が言った。
「…お前な、初めて会話した時なんて言ったのか覚えてないのか。エリカ、こいつは俺にバカ、って言ったんだ。ひどいだろ」
「ーーバカじゃないのか」
頭上から声が聞こえて、高校生の俺は顔を上げた。
立っていたのは、同じクラスの合原紘海だった。
俺は、何だコイツ、と思って睨んだ。いつも、誰からも文句がつけられないように成績は上位を維持していたし、同じような理由で周りの人には親切にし、非の打ちどころがない優等生を演じてきた。そんな俺に「バカ」なんて言う奴なんていなかった。
合原は出入り口を指差し言った。「お前のこと、呼んでる」そこには、最近付き合い始めた彼女がいた。
「…ああ」
俺が返事をすると合原は自分の席に着いて窓の外を眺めた。合原は窓側後方の席で、いつもひとりでいる変わった奴だった。
なぜ合原が俺に「バカ」なんて言ったのか不思議だったけれど、俺はそんなことはすぐ忘れて彼女の元へ行った。
**********
放課後は大抵、彼女と話して過ごした。
彼女はよく喋る子だった。俺は今度は「いい彼氏」を演じて、彼女の話に相槌を打った。
そしていつも18時くらいになると帰っていく。家族が遅くなるとうるさいのだそうだ。
俺は、誰も待っていないマンションへ帰る。テーブルの上には今日の夕食代が置いてある。母親は今日も男のところに泊まるのだろう。
父親は、顔も覚えていないほど会っていない。でも、俺がこうして高校へ行って生活できるのは彼の養育費のおかげだったから、感謝だけはしているけれど。
制服から私服に着替えて、冷蔵庫を開けた。中にはほとんど何も入っていない。
小学生の頃から、毎日コンビニの弁当が嫌で自炊をしていたのだが、最近はもう作っていなかった。それは。
俺は外へ出て、隣りの部屋の呼鈴を押した。すぐにドアが開いて、中から女の人が顔を出した。
「おかえりなさい、尚人くん」成美さんが言った。
「…ただいま」
「ご飯できてるよ、食べる?」
成美さんは結婚していたのだけれど、旦那さんは仕事を理由に、ほとんど帰りが深夜なのだそうだ。この当時の俺たちは寂しくて、こうして毎晩会っていたのだろう。今ならそう理解できる。
食後はふたり身体をくっつけて、話をする。ほとんど俺が話し、彼女は話を聞いて笑っている。
話が尽きると、俺は彼女にキスをする。そのままソファに彼女を押し倒し、彼女の身体に溺れる。毎晩これの繰り返し。
本当は彼女はこんなこと望んでいないだろう。彼女の望みは誰かに「おかえり」と言って一緒に食事をし、話を聞くところまでなのだろう。
けれど俺はどうしても、こうせずにはいられなかった。言葉だけじゃ足りない。触れ合って誰かの体温を感じていないと、寂しさを埋めることなんてできなかった。
彼女が両腕で、俺の頭を抱きしめた。それはきっと、彼女の優しさだろう。
**********
学校が休みの日も、俺は成美さんと会っていた。土日でも、彼女の旦那は家にいないらしい。
休みの日は、ふたりで外に出かけた。成美さんは旦那さんに見つかることを恐れていなかったしーーむしろ、それを望んでいたように見える。どんな形であれ、旦那さんに振り向いてもらうのが、成美さんの望みだったから。
俺の方も、付き合っている彼女にバレるのは構わなかった。「付き合って」と言われたから付き合っていただけだし、この当時の俺の寂しさを埋められるのは、成美さんだけだった。
そして案の定、彼女に成美さんと会っていることがバレた。
「…昨日尚人の隣りにいた女、誰?」
次の日の朝、学校に行くと、彼女が俺のクラスにやって来て開口一番そう言った。俺は、いつかこんな日が来ると思っていたから、別に驚きもしなかった。
「私たち付き合ってるんでしょう!?なんで他の女なんかと…」
「…君がそう言ったから、付き合ってただけだ」
「え…?じゃあ、尚人は私のこと…別に好きでもなんでもなかったの…?」
「ああ」
俺がそう言うと、彼女は泣き出し教室を出ていった。
俺はそのことに関して後悔も罪悪感も感じなかった。
だって、いつでも思っていたのだ。
君と別れて家に帰った後の寂しさを、君は考えたことがあるのか、って。
君は家族がいる家へ帰り、俺は誰もいない家へ帰る。その寂しさを、理解しているのか、って。
「ーーだから言っただろう、お前はバカだ、って」
後ろから声が聞こえて、振り返った。合原が立っていた。
「好きでもない奴と付き合って、本命は別にいるのに」
「…お前、最初から知っていたのか?」俺は合原を睨んだ。
「ああ。お前が今の彼女じゃない女の人と街を歩いているのを見たことがある。…にしても、お前」合原は少し笑って言った。「もしかしたらこうなることを望んでいたんじゃないのか?」
「……」
「少なくとも、後悔も罪悪感もないだろ」
俺は驚いて合原を見た。学校では優等生を演じて隠してきた俺の本音を見抜いたのは、こいつだけだった。
その後、成美さんは突然引っ越してしまった。俺との関係が旦那さんにバレてしまったのかもしれない。ただ、彼女が幸せであるように祈った。家庭を壊すようなことをした、俺が幸せを祈るなんて虫が良すぎる話だが。
だけど、成美さんと出会ったことで、誰かと一緒にいる喜びを知ることができた。彼女と出会わなければ、エリカとこんな風に一緒に暮らすこともなかっただろう。
学校の彼女と別れてからは、ひとりで過ごすようになった。「女の子を泣かせた男」として注目されるようになったからだ。
昼休みは教室に居づらいので、いつも屋上へ行った。俺がひとりで屋上にいると、後から必ず合原がやって来た。大人になってから理由を聞いたら「自殺しそうだったから見張ってた」そうだ。
学校で優等生を演じていた俺が本当の自分を出せる場所は、合原の前になった。
「…腐れ縁、だよな。本当に」24歳の俺は言った。
「何言ってんだよ。俺がいなきゃお前、今でも道を踏み外してたままだったぞ」同じく24歳の紘海が言う。
「…つーか、必要悪、って感じなんだよな」
「なんだよ悪、って」
俺たちの様子を見て、エリカが笑った。これも紘海のおかげなんだろうけど、礼は言わないでおこう。
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