透明人間

野良

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透明人間6

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 初めて学校に行ってから、夜、尚人さんは私に勉強を教えてくれるようになった。

 文字を覚えて、本を読んだり、計算を覚えたりした。

 時々絋海ひろうみくんも昼に来て、話をしたり、勉強を教えてくれたりした。

 そうして一か月が過ぎた。その間、私は学校へ行かなかった。


 呼鈴が鳴って、私は玄関に出た。私はその時、ひとりで勉強していて、机の上にドリルがあった。時刻は、午後4時くらいだ。

 ドアに向かいながら誰だろう、と考えた。紘海くんは絶対呼鈴なんて鳴らさないのだ。そうすると、宅配便の人かもしれない。

 しかし、ドアの向こうに立っていたのは、中学校の制服を着た、同い年くらいの女の子だった。


「ーーこれ」女の子が封筒を差し出す。「学校のプリント、持ってきた」

 私はおずおずと受け取る。同い年の女の子と話すのは、まだ苦手だった。

「せっかくここまで届けにきたのに、お礼の言葉もないわけ?」

 私は慌ててありがとう、と言った。

「いつ、学校に来れるの?」

「…わからない。尚人さんが無理に行かなくていい、って…」


 それを聞いたとき、正直ほっとした。あんな思いは二度としたくなかった。

 けれど尚人さんは、本当は私に学校に行ってもらいたい、と思ってるはずだ。だから行かなくちゃ、とは思う。


「尚人さんって…お父さんのこと?」女の子が言った。

 私は首を横に振った。

「じゃあ、お兄さん?」

 また首を振る。

「え?じゃあ…」

「よ、エリカ」聞き覚えのある声が割って入る。紘海くんだ。「…エリカの友達?」

「あ、はい!同じクラスの藤本美穂です!」少し緊張したように、藤本さんが言った。顔もなんだか赤い。

「じゃあ、悪いんだけどさ、こいつのこと頼んでいいかな」紘海くんが私を指差す。「なんせ、まだ小さい子供みたいな奴だから」

「わかりました。学校にいる時くらいなら…」藤本さんはそわそわして落ち着かない様子だった。「じゃあ、私、これで失礼します!」

 藤本さんは頭を下げて駆け出して行った。

「よかったな、友達ができて」紘海くんが部屋に入る。

「…今日、初めて話したんだけど…」

 それでも友達なのだろうか、と私は思った。

**********

 紘海くんに少しだけ勉強を教えてもらって、あとはふたりでテレビを見たりしていた。そうして午後7時ころ、尚人さんが帰ってきた。


「おかえり」紘海くんが言う。

「…おかえりなさい」私も言う。こうやって言うことも、紘海くんが教えてくれた。

「ただいま、エリカ」尚人さんが笑顔で答える。「紘海…また夜メシ食ってくのか?来るなんて知らなかったから、ふたり分しか買ってないけど…」

「お、その言い方だと連絡すれば買ってきてくれるのか」

「後で請求するけどな」


 結局、ふたつのお弁当を、ひとつは紘海くん、もうひとつを尚人さんと私が分けて食べた。食べ終わった後、私は今日、藤本さんが持ってきてくれたプリントを見せた。


「そうだ、尚人。今日エリカに友達が出来たんだぜ」

「え?」尚人さんはプリントから顔を上げる。

「友達…っていうのかな。今日初めて話したんだけど…」私は言った。

「俺が頼んどいた。エリカの面倒見てやってくれ、って」

「…余計なことを」尚人さんは呟いてから、私に向き直って言った。「また学校に、行ってみるか?」

「え…?」

「今日クラスの子と話ができた、っていうのは大きな進歩だろ。それに勉強したから、前よりは授業についていけるんじゃないか?…どうだ?」

 私は考えた。尚人さんは私に、学校に行ってほしいのだろう。そして…藤本さん。彼女は学校にいる間なら一緒にいてくれる。

 私は頷いた。

「そっか…偉いぞ」尚人さんは私の頭を撫でた。

「俺のことは褒めてくれないのかよ」紘海くんが言った。

「お前はエリカのこと考えて言ったのか?ただ女の子だからって声かけただけじゃねえの?」

「あっ、ひでえ!」

 よく解らなかったけれど、ふたりの様子がなんだか面白くて、私は笑ってしまった。

**********

 朝、目覚まし時計が鳴って、私は目を覚ました。そして、ぼんやりした頭で考えた。今日は学校へ行く日。

 起き上がって顔を洗って制服に着替える。支度が整うにつれて、私はドキドキしてきた。

 会社に行く尚人さんと一緒に、家を出る。今日は尚人さんが学校まで送ってくれる。

 尚人さんは歩きながら「無理しなくていいからな」と声を掛けてくれたけど、私は何も言うことができなかった。

 学校の正門に着いて、尚人さんと別れる。同じ制服を着た生徒達が昇降口に吸い込まれるように入っていく。

 私もその流れにそって、昇降口に入る。下駄箱で靴を替え、教室へ向かう。

 階段を上って、2年4組の教室のドアを開ける。中から賑やかな声が聞こえる。

 私の姿を見て、一瞬話し声がやみ、すぐにひそひそ話が始まる。

 やっぱり私はここにいるべきではないのではないか、そう思った時。


「二ノ宮さん」

 呼ばれて顔を上げる。藤本さんがこっちに駆け寄ってくる所だった。

「おはよ。…ちょっとこっちに来て」

 挨拶を返す間もなく、手を引かれて教室の後ろに連れていかれる。

「…昨日の人、あの人が“尚人さん”なの?」手を離して藤本さんが言った。

 私は首を横に振る。「あの人は…紘海くん。尚人さんの友達」

「そうなの…」藤本さんは少しほっとしたようだった。「カッコよかったよね。よく二ノ宮さんの家に来るの?」

 私は頷く。

「そう。じゃあさ、今度遊びに行っていい?」

「尚人さんに聞いてみないとわからないけど…多分大丈夫だと思う」

「うん。じゃ、よろしくね」そして藤本さんは少し黙る。やがて、話しにくそうに切り出した。「あのさ…“尚人さん”って二ノ宮さんとどんな関係なの?」

「え?」

 聞かれた私は固まる。そんなこと考えたこともなかった。

「だって、お父さんでもお兄さんでもないんでしょう?親戚の人?」

 私は首を横に振る。尚人さんとは血のつながりはない。お母さんから「いらない」と言われた私のそばにいてくれる人だ。

 そのことを藤本さんに話したけれど、うまく伝わったかどうかわからない。朝のホームルームが始まって、それ以上の説明はできなかった。

 そしてそれ以上、藤本さんも聞かなかった。

 けれど、彼女は一日中私のそばにいてくれた。だから、あんなに怖かった学校が、少しだけ、怖くなかった。

**********

 その夜尚人さんに、藤本さんが遊びに来てもいいか尋ねた。すると、尚人さんは喜んで、おもてなしをしないとな、と言った。

 そして次の土曜日、藤本さんは遊びに来た。


「おじゃましまーす」藤本さんが言って、中に入る。

「いらっしゃい」尚人さんが言った。今日は休みなので家にいる。

「…尚人さんも、カッコいいね」藤本さんは小声で言った。


 それから私の部屋で話したり、トランプやゲームで遊んだりした。

 私は嬉しくて、つい笑ってしまった。そうしたら、藤本さんが私の頬を引っ張って、言った。

「そうやって笑ってたほうがいいよ。笑ってたら、かわいいし」


 ふたりで遊んでいると、尚人さんが私たちを呼んだ。リビングに行くとお菓子が用意されてあって、3人でそれを食べた。

「あの…ひとつ、聞いてもいいですか?」ふいに、藤本さんが尚人さんに向かって言った。

「いいよ。何?」

「私、この子に聞いたんです。尚人さんとこの子は血のつながりはないって。そして…この子はお母さんに捨てられたって。本当なんですか」

「…本当だよ。残念なことだけれどね」尚人さんは言う。その顔に、表情は見えない。「若い君にこんなことを言うのは残酷だけれどね。実際、そういう親はいるよ。俺の母親もそうだったしね」

「…え?」

 私は藤本さんの顔を見た。なんだか、泣きそうな表情だった。

 どうしてそんな顔をするのだろう。今の私は、不幸なんかじゃないのに。

「ーーそーんな辛気くさい話をされても楽しくないよねえ、美穂ちゃん」

 3人以外の声が別の方向から聞こえて、私はそちらを見た。紘海くんだった。

「お前…聞いてたのか」尚人さんが呆れたように言った。

「お前、若い子にそんな希望もないこと言っちゃダメだろ」紘海くんは構わず、尚人さんの隣りに座る。

「あ、あの…」入れ違うように藤本さんが立ち上がった。「私、帰ります。今日は、ありがとうございました」

 藤本さんは帰っていった。私のほうは見なかった。

「…お前のせいだぞ」紘海くんが尚人さんに言った。

「…そうだな。少し、言い過ぎたかもな」

 尚人さんが元気をなくしたように見えたので、私は彼の顔を覗き込んだ。尚人さんはそれに気づいて笑った。

「大丈夫」尚人さんは私の頭に手をのせた。

**********

 次の月曜日からも、私は学校へ行った。しかし、なんだか藤本さんの様子が先週までと違った。先週は休み時間や移動教室など一緒にいてくれたのに、今日はこちらへ来てくれなかった。避けられているのだろうか。


 その夜、尚人さんが帰ってきてから、相談した。

「…やっぱり俺のせいかな。変なこと言っちゃったし」

 また尚人さんが落ち込んだように見えたので、私は慌てた。何か言おうとしたけれど、なんて言ったらいいかわからなかった。

「…エリカはどうしたい?藤本さんと友達でいたいか?」

「うん」

「だったら、正直に自分の気持ちを話さないとな。俺も経験あるんだけど…誰かに嫌われてるかな、って思っても自分の勘違いだったりするんだよ。やっぱり他の人の気持ちなんて想像だけじゃわからないから、話すことでしか、理解できないんだと思う」

「…うん」

 少し緊張するけれど、明日藤本さんに話しかけよう。そう決めた。


 次の日。学校に行って藤本さんに話しかけようとしたけれど、他のお友達と話したり、席にいなかったりで話しかけるチャンスを失っていた。

 そして、あっという間に放課後になってしまった。


「藤本さん」

 帰ろうとしていたところを後ろから呼び止める。彼女は振り向いた。

「あの…一緒に帰っていい?」

 どう話を切り出していいかわからず、私はそれだけ言った。


 ふたりで帰り道を歩く。藤本さんは何も言わなかった。

 私は少し深呼吸して、勇気を出して言った。


「藤本さん…私のこと、嫌になっちゃった?」

「え?」

「昨日から、全然話してくれないから…避けられてるのかと思って…」

「違う、違うの。避けてるんじゃなくて…土曜日に、家庭の事情みたいのを聞いちゃったでしょう。それで…なんか、後ろめたくなっちゃって…。私は両親も普通にいるし、何も不自由なく過ごしているから…そんな私が近くにいたら傷つけちゃうかな、って考えたりして…」

「どうして?」私は驚く。「私、今とっても幸せなの。藤本さんは後ろめたく思う必要ないんだよ」

「……」

 藤本さんはようやく笑って、私の頬を引っ張った。「尚人さんと出会えてよかったね」

「うん」私は答えた。とびきりの笑顔で。

**********

「え、じゃあエリカは家の手伝いしてないの?」藤本美穂ちゃんが言った。

 私は頷く。

 放課後、私たちは私の家で、一緒に宿題をしていた。

「ダメだよ、手伝いくらいしないと」美穂ちゃんは少し考えて、教科書を閉じた。「よし、もう宿題は終わりにして、掃除しよ」

 美穂ちゃんは立ち上がった。


 それから、私は美穂ちゃんに教えてもらいながら、お風呂掃除や食器洗い、部屋の掃除機かけをした。

 終わった頃には、もう夕方になっていた。

 美穂ちゃんが帰った後、少ししてから尚人さんが帰ってきた。


「ただいま」

「おかえり」私は尚人さんがいつ気づくか、どきどきした。

「…エリカ」台所を見た尚人さんが私を呼んだ。「食器洗い…お前がやったのか?」

「美穂ちゃんが教えてくれたの」

「そっか…ありがとな」尚人さんは笑って、私の頭を撫でた。

 私は嬉しくて、してよかったと思った。

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