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北の砦
しおりを挟むざわめく食堂の中、リシェルは盆を手にして空いた席へ腰を下ろした。
カイはまだ来ていないのかと思ったのも束の間。すぐに当然のように向かいに腰掛けたのを見て、緊張が走る。
何気なく食事を取りながらも、昨夜のことが頭から離れない。
眠れたのはよかった。けれど、もしやこの目の前にいる男のおかげだったのではと思うと、胸の奥がざわつく。だからと言って、昨夜何があったかなんて聞きたくない。聞いてしまって、何かやらかしていたらと思うと怖くてたまらないからだ。
でも、何かやらかしていたのなら、謝った方がいいだろうか。いや、お礼が先か?
悶々と考えてみるけれど、どうしたらいいのかわからない。
カイはそんな彼女の様子にちらりと目をやったが、特に何かを口にすることはなかった。
⸻
朝食が一段落すると、団長の側近が各小隊を招集した。会議室はすぐに人で埋まる。
団長は地図を広げ、重い声で口を開いた。
「また異常が報告された。今度は北の砦だ」
北の砦と言えば、昨日の村のすぐ近くだ。
「建物だけが燃えた痕と、村の行方不明者。単純な放火では説明がつかん」
ざわめきが走る。会議室の空気が一瞬で引き締まった。
リシェルの胸が不意にざわつく。わずかに拳が強張った。
カイはその小さな変化を見逃さない。横目で一瞬だけ視線を送るが、何も言わずに前を向いた。
団長は指で地図上の一点を押さえる。
「カイ、リシュ。昨日の村の調査は他の者に任せる。お前らは北の砦に同行しろ。まだ火が残っているという情報もある。状況を確認し、必要なら鎮圧だ」
「……はい」
「了解」
解散を告げる声とともに、部屋の喧騒は散り散りになっていった。
リシェルも皆に続こうとしたが、ふと振り返った時。……団長がまだ地図の上に指を置いたまま、動かないのが目に入った。
その表情は読めない。だが、一瞬だけ苦々しさのようなものが走った気がした。
カイはリシェルの背後で足を止め、同じように団長をじっと見やった。けれどすぐに顔を背け、何も言わずに部屋を出て行った。
その後二人はすぐに支度を整え、いくつかの小隊と共に馬に乗り砦へ向かう道を進んでいた。
しかしリシェルの心は道中の景色を捉えず、ただ黒炎の面影と団長の表情ばかりが胸をかき乱していた。
「……リシュ」
隣から低い声がかかる。だが耳には届かない。
「おい」
再び呼ばれても、手綱を握る力は変わらない。考えに囚われ、返事を忘れていた。
不意に隣から足を軽く蹴られ、我に返る。
「任務中だぞ。気を抜くな」
カイの声は冷たく鋭かった。
「……すみません」
短く謝り、リシェルは俯く。
こんなことでは駄目だ。
頭を振り、気持ちを切り替えようと自分に言い聞かせた。
やがて森に入り、そこを抜けると昨日の村が目に入る。昨日と変わらない惨状に、目を瞑りたくなってしまうのを堪えた。
一緒に来ていた団員が数人村に向かっていくのを見送り、気を引き締める。
そして村を横切ってしばらく。視界に砦の影が現れた。
灰色の石壁は重々しく、しかしどこか不穏な静けさを帯びている。
北の砦――異変の報告があった場所に、ついに辿り着いた。
門をくぐった瞬間、二人は馬から降りてゆっくりと進む。
砦は静まり返っていた。やはりここも人の気配がまるでない。
「……やはり」
カイが眉をひそめる。
石畳には黒ずんだ痕が点々と残っていた。壁の一部は崩れ、焦げついた匂いがまだ漂っている。
リシェルの胸がざわつく。
その黒い焦げ跡――ここも、まるで五年前の惨劇と同じだ。思わず喉が詰まった。
「リシュ」
「……っ、はい」
カイの声がかかり、慌てて返事をする。
だが目を逸らす仕草を、カイは見逃さなかった。
追及はしなかったが、横目で彼女をじっと観察しながら歩みを進める。
二人は他の隊員と離れ、砦の中庭へと足を踏み入れる。
そこに広がっていたのは、さらに異様な光景だった。
兵士たちの姿はないものの、剣や盾が落ちている。
それは無惨にも焼け焦げていた。
「なんだこれは……この持ち主はどこへいった?」
カイの声が低くなる。
リシェルの背には、冷たい汗が流れた。
どこにも人の姿は無い。そして、無惨にも捨てられている焦げた装備の数々。
もしや、抗おうとしたけれど無理だったのだろうか。呑み込まれてしまったのか。その時に、剣や盾が手から離れたのだろうか。
想像するだけで凄惨なその光景に、握っている自分の剣がカタカタと音を立てた。
「……団長が言ってたな。やっかいかもしれないって」
「はい」
「これは、相当だぞ」
その声音には、わずかに動揺が混じっていた。
その時、どこかから微かに声が聞こえたような気がした。
「……た、すけ……」
「隊長! 向こうから声が!」
「なに? どこだ!」
声が聞こえた方へ向かうと、崩れた石壁の陰で、まだ息のある兵士が倒れていた。
リシェルは駆け寄り、膝をつく。
「しっかりしてください!」
「……黒い炎……突然……どこからともなく……」
兵士の目は恐怖に見開かれたまま。
「黒い炎が……人を……呑み込んで……」
その言葉は途中で途切れ、兵士の体から力が抜けていく。
「黒い炎が!? なんですか!? ちょっと!」
リシェルは肩を揺するものの、カイが制する。
「……気を失ってるだけだ、怪我をしてるかもしれないから無理に起こすな」
「……はい」
「おい! 誰か!」
「はい!」
「この者はまだ息がある。気を失ってるだけだから起きたら話を聞けるだろう。拠点への移動と団長への報告を頼む!」
「了解しました!」
カイは団員に指示を出し、兵士を見送る。そして一呼吸おいた後、静かに剣を抜いた。その表情には迷いはない。
「……リシュ、構えろ」
「え……?」
言葉を重ねるより早く、足元の地面が爆ぜた。
黒い炎が噴き出し、残っていた瓦礫を呑み込む。
「なっ……!?」
燃え上がるはずなのに、熱を感じない。いや、熱はある。灼熱のはずだ。だが、それ以上に底知れぬ寒気が背筋を這うのだ。
熱が肌を焼くのに、心臓の奥が凍りつくようだった。
──黒炎だ。これは、紛れもなく、五年前と同じ黒炎だ。
足がガクガクと震える。両親を、兄を、侍女を、国民を。皆を目の前で呑み込んだ、あの黒炎だ。
「……来やがったか」
カイの目が細められる。
黒炎は形を持たず、ただ渦を巻くように広がっていく。
その中心が、ゆっくりと……まるで"何か"を探すように動いた。
(……こっちを、見てる?)
リシェルは思わず一歩退く。
風もないのに、黒炎が彼女の方へ寄ってくる。
意志を持っているかのように、蠢きながら。
「リシュ!」
カイの怒声が飛ぶ。
「呆けてんじゃねぇ、来るぞ!」
「……はい!」
二人は剣を構え、黒炎の渦へと向き合った。
黒炎が轟々と立ち昇りリシェルを捉えた瞬間、砦の石壁が音を立てて飛んだ。
その瓦礫を避けながらもリシェルはまた一歩退きそうになり、唇を噛んで踏みとどまった。
(怖い。怖い……でも、ここで怯えたら──)
剣を強く握る手は目に見えて震えている。
頭の奥に焼き付いた五年前の惨劇が、鮮明によみがえる。
黒炎に呑まれ、崩れ落ちる城。叫び声。自分だけが生き残った夜。
「リシュ! 右だ!」
カイの怒鳴り声に弾かれるように反応する。
揺らめいた黒い炎が襲い掛かってきていた。
咄嗟に剣を振るうが、実態を持たない炎をどうやって剣で倒すというのか。
呑み込まれないように受け流すのがやっとだった。
「っ……!」
足元が崩れ、バランスを失ったその身体を、がっしりとした腕が支える。
「呆けてんじゃねぇ! 立て!」
「……わかってます!」
叱責の声に反射的に言い返しながらも、心臓は壊れそうなほど早鐘を打っていた。
それでも必死に踏ん張り、剣を構え直す。
「隊長!」
「なんだ!」
「この炎に触れてはなりません! 呑み込まれます!」
「なに?」
「さっきの兵士が言ってたでしょう! とにかく炎に身体が触れないようにしてください!」
「……わかった!」
これ以上、被害を出してはいけない。
そうリシェルの想いに比例するかのように黒炎が再び広がり、まるでリシェルの周囲を囲い込むように揺らめく。
その中心で、低く唸るような音が響いた。
(……狙われてる……?)
胸の奥で、冷たい確信が広がる。
なぜかはわからない。けれど――この炎は、自分を見つけた。
「リシュ、下がれ!」
「いいえ、下がりません!」
黒炎の渦が弾け、二人はほぼ同時に斬り込む。
刃が影を裂いても、黒炎は形を変えて再び立ち上がる。
「なんなんですか、この炎は……! 斬っても斬っても!」
「知らねぇよ! 炎なんだから斬れないのは当たり前だろ!」
「じゃあどうやって戦うんですか!」
「突破口を探すんだ! 火元でもいい! 何か手掛かりを探せ!」
「わかりました!」
「……それに、防戦一方だとしても今更退く気はねぇだろ!」
「……もちろんです!」
叫ぶ声も全身も震えていたが、リシェルの瞳は確かに光を宿していた。
その必死さに、カイの胸の奥が熱くなる。
(震えてるくせに……)
ヤキモキしながらも、どうしても目を逸らせなかった。
彼女が倒れないように、何度も剣を差し伸べ、支え合いながら二人は影と渡り合った。
しばらく炎を避けながらも前に進んだ時、急に黒炎の影が再び形を歪め、轟々と燃え上がった。
地面が軋み、瓦礫が宙を舞う。
リシェルの瞳に、炎が揺らめく。
もう一度来る。しかし、全身が硬直したように動けず剣を構えることができない。
そんなリシェルを見て、カイが身構えて守るようにリシェルの前に出た。
──その背中が、リシェルの視界を塗りつぶした。
「あ……」
兄の姿と、カイの背中が重なったのだ。
カイが一瞬こちらを振り向き、何か口を動かす。それを見て、何度も首を横に振った。
「やめて……!」
声が裂けるように漏れた。
伸ばした手が震え、涙が頬を伝う。
あの夜、黒炎に呑まれていった光景が、また目の前で。
「隊長っ、ダメ――!!」
黒炎の影が燃え盛り、二人を呑み込もうと迫ったその時。
「カイ! リシュ! 下がれ!」
……鋭い矢が炎を裂いた。
次々と飛来する矢、盾を構えて突撃してくる仲間たち。
小隊の加勢が駆けつけ、戦況が一気に変わる。
「今だ、押せ!」
団員の怒号と共に、連携した攻撃が繰り出される。
炎は抗うように身をよじり、やがて黒炎を撒き散らして霧散した。
だが、それが"倒した"のか"逃げた"のかは、誰にもわからなかった。
残されたのは焦げ跡だけ。重苦しい沈黙が場を覆った。
その中で、リシェルは剣を落とし、力なく膝をついた。全身から力が抜け、震えが止まらない。
「……っ……は……っ……」
呼吸が乱れ、目から涙が溢れる。
嗚咽を押さえようとしても声が漏れてしまう。
カイは思わず駆け寄った。
「おい、リシュ……!」
泣きじゃくる彼女に、さすがに胸が締めつけられる。
これまで見たこともない姿。いつも気丈に振る舞うあのリシェルが、まるで壊れたように泣いている。
「馬鹿……泣いてる場合かよ」
口をついて出たのは不器用な言葉だった。けれど、その声音はどこか優しかった。
リシェルは止まらない涙の中で、五年前の光景を見ていた。
黒炎に呑まれる城、崩れ落ちる塔、叫ぶ声、伸ばした手が届かない。
「いやだ……いや……っ……」
現実と記憶が混濁し、狭間が見つからない。
押し潰されるように呼吸が荒くなる。
「おい、落ち着け……っ、息しろ!」
過呼吸で崩れかける身体を、カイは力強く抱きとめた。
「こんなとこで潰れるな! もういい、戻るぞ!」
強引に腕を回し、リシェルの身体を担ぎ上げる。
抵抗する余力など残っていなかった。
仲間たちの視線が集まる中、カイは
「先に戻ります。すみません」
それだけを告げて、リシェルを馬に乗せる。
震える彼女を抱きしめるように、その後ろに乗り手綱を握る。すると、リシェルがお腹に回るカイの腕を、ぎゅっと力なく掴んだ。
「……大丈夫だ。ゆっくりでいい。戻ったら、とにかく一旦休め」
カイの言葉が、リシェルの心に染み込んでいく。
お互いの胸の奥で、確かに何かが変わり始めていた。
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