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心の限界
しおりを挟む砦を離れ、冷えてきた風の中を進む。
リシェルはまだぐったりしていたが、呼吸は落ち着き意識は戻っていた。
「……下ろしてください」
掠れた声でそう言うが、カイは無視する。
「隊長、下ろしてください」
「嫌だ」
「嫌だ、って……」
「お前、そんなんで歩けるのかよ」
「……たぶん」
「多分じゃ駄目だ」
「でも俺の馬が」
「それは他の団員が後で連れてきてくれる」
「……」
「お前は何も考えずにただ景色でも見てろ」
苛立ったように吐き捨てながらも、進むスピードは乱さない。
お腹に回る腕に込められた力は、どうしようもなく確かで温かかった。
「……すみません」
リシェルの声は震えていた。
「迷惑ばかり……」
「……あぁ、そうだな」
一拍置いて、カイはぽつりと続けた。
「でも、そんなのいつものことだろ」
「……っ」
「それに、お前が死ぬよりはマシだ」
その言葉に、リシェルの胸が強く揺れた。
帰還した二人はすぐに団長の前へ通された。
「すみません。任務を途中で放棄して戻って参りました」
「何があった」
「俺が、過呼吸を起こしてしまいました。それを心配した隊長が連れ帰ってくれたのです。悪いのは俺です。申し訳ございませんでした」
「……そうか。わかった。それで、現状わかっていることの報告をしてくれ」
「はい」
団長は二人の表情を見て、嘘はないと判断したため叱ることはなかった。
そのまま二人の報告を聞き、地図に目を落とす。
「黒い炎でした。ただ、やはり燃え方が普通の炎とは違いました。人を追っているような、探しているような。初めて見るものでした」
「……やはり黒炎か」
低く呟いたその声音に、重苦しい響きが混じる。
「リシュ、お前はどう感じた」
「……はい。昨日の村を襲ったのも、同じ黒炎だと思います。まだ息のあった兵士が言っておりました。人を喰らう炎だと」
リシェルはそう報告しながら、拳を強く握った。気を抜くと、あの夜の光景がよみがえりそうで恐ろしい。
その微かな震えを、カイは横目で捉えていた。
団長は短くうなずいたあと、ふとリシェルに視線をやる。
「……いけるか」
突きつけるような問い。
その言葉に、どれだけの意味が含まれているかをリシェルはよくわかっていた。
リシェルは一瞬だけ息を詰めたが、すぐに顔を上げる。
「……はい。問題ありません」
その返答に、カイはわずかに目をやる。
(……本当に大丈夫なのか)
けれど口には出さず、ただ静かに様子を見守った。
団長はそれ以上言葉を重ねず、再び地図に目を落とす。
「よし。下がれ。二人ともご苦労だった」
二人は頭を下げ、部屋を後にした。
残された沈黙の中、
「黒炎、か」
団長の指先が静かに地図をなぞっていた。
夜更けの修練場は、静まり返っていた。
昼間は兵士たちの掛け声が響く場所も、今は冷たい風が砂を巻き上げるだけ。
リシェルは一人、的の前に立っていた。
剣を握ろうとする。だが、手が震えた。
あの黒炎の光景が、まぶたの裏に焼き付いて離れないのだ。
カイが呑まれかけた瞬間。伸ばした手が届かなかった瞬間。
……生きた心地がしなかった。
胸の奥が焼けつくように痛む。
あのまま炎に呑まれていたらと思うと、またあの惨劇が目の前で繰り返されていたのかと思うと、うまく息を吸うことすらできなかった。
「……っ」
こういう時は、いつも剣を振っていた。だけど、今日に限って、手の震えがおさまらない。それどころか、どんどん酷くなり剣を持ち上げることすら覚束ないのだ。
焦りと恐怖が、リシェルの頭の中を支配していく。
忘れたいのに、剣を振って邪念を切り捨てたいのに、それすらもできずに苛立ちが募る。
そしてとうとう、力が入らなくなり無情にも剣が手から落ちていった。
「なんでっ……」
どうしてこんなにも、自分は弱いのか。
どうしてこんなにも、無力なのか。
いくら修練を積んでも、いくら努力しても。どれだけ時間をかけても、心は強くならないのはどうしてなのだろう。
このまま変わらないのだろうか。
強くなることなんてできないのだろうか。
剣を持てない代わりに拳を握りしめ、そのまま的に叩きつける。
――ドン。
鈍い音が響き、痛みが腕を駆け上がる。
けれど止まらない。もう一度。もう一度。
(こんなんじゃ、全然足りない)
拳が赤く染まっていくのも構わず、リシェルは打ちつけ続けた。
「やめろ、リシュ!」
どれだけ続けていたのだろう。背後から叫ぶような声が聞こえ、振り向く間もなく腕を掴まれる。
「離してください!」
「もうやめろって!」
カイの声には焦りが滲んでいた。
だがリシェルは必死に腕を振りほどこうとする。
「離してください……! まだ……!」
「これ以上やったら手が潰れる!」
力任せに引き寄せられ、拳を止められる。
血で真っ赤に染まった拳が、カイの手のひらで優しく包まれた。
「大丈夫だ。まず落ち着け。お前が自分を痛めつける必要はないんだ。大丈夫だから。な?」
まるで小さな子どもをあやすような、そんな優しい声だった。
しかしそれを聞いた瞬間、糸が切れたように涙がこぼれる。
「……っ」
ぽたり、と雫が床に落ちる。その光景に、カイは息を呑む。
「……なんで泣いてる」
リシェルは首を振り、かすれた声で呟いた。
「……怖い」
「ん?」
「怖いんです」
その声は震えていて、普段の彼女からは想像できないほど弱かった。
「なにがだ」
「同じことをまた繰り返すんじゃないかって思ったら、怖くてたまらないんです」
涙は止まらず頬を伝う。けれど嗚咽はない。ただ静かにこぼれていく。
「だけど、それを防ぐ方法がわからない……」
「……」
「何も、わからないんですっ……俺が、無力だからっ」
その姿に、カイは言葉を失った。
何がこんなに彼女を苦しめているのか、カイにはわからない。生意気で反発ばかりのリシェルが、こんなにも弱るなんて。
力になってやりたい。そう思うのに、カイもまた、その方法がわからなかった。
……空いた手を伸ばしたのは、無意識だった。気付いて一度引こうとしたものの、思い直して恐る恐る彼女の頭にポンと置く。
「……お前は無力なんかじゃない」
ぶっきらぼうな声だったが、その手のひらはどこか温かくて。
驚いて顔をあげると、カイは困ったようにリシェルを見ていた。
「何もできなかった五年前から考えたら、力もついた。背も伸びた。戦い方も覚えただろ」
「っ……」
「確かにまだまだ鍛えないといけない。これからも厳しい修練は続く。だがお前は確実に強くなってるし、これからももっと強くなる。俺が保証する」
その言葉に、また涙が溢れてくる。
「だからもう、こんなことはするな」
リシェルの拳ごと軽く手を上げたカイ。
その手は、いつのまにかリシェルの血で真っ赤に染まっていた。
「手当してやる。それが終わったら今日はもう寝ろ。もう何も考えるな。ただ、ゆっくり休め」
カイはそれ以上何も言わなかった。
ただ、リシェルが泣き止むのを静かに待ってくれていた。
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