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第5話 ノイエ⑤
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ノイエが卒業するまで、アシュフォード殿下とは何回かストロノーヴァ公爵家の晩餐会で顔を合わせた。
頭を下げて、初対面での自分の態度を詫びた。
王弟殿下があの時の冷気や残忍さを漂わす事はもうなく、普通に話せるようになった。
それでもアグネスとの仲を疑われては困るので、自分から失恋の話をして、兄達の姿を見たくないからこの国を出るつもりだと話した。
「どこに行くのか決めているのか?」
「……それはまだ、です」
「何かしたいことでもあるのか?」
「……」
「……決まったら、話を聞かせて。
後、決行する日まで金と金になりそうなものは溜め込んでおくように。
金がないと、身動き取れないから」
公爵家の晩餐会では、母国でデビュタントしたアグネスも、殿下に伴われて参加する機会も増えていた。
その姿を見た母からは残念そうに言われた。
「アシュフォード殿下がお相手なら、どうしようもないわね」
アグネスには、まだ中等部だった頃に『国を出るから、しがらみは少ない方がいいから』と、パートナーを申込む理由を話していたが、卒業間近の今はその話をするつもりはなかった。
オルツォとストロノーヴァの両家から彼女が責められては申し訳ないからだ。
アグネスには別れを告げないと、固く決意している。
舞台に出たいと、殿下には話した。
すると、後日バロウズからノイエ宛に封書が届いた。
差出人はカラン・ワグナーと書かれていた。
記憶にない名前で不審に思ったが、中には殿下からの手紙とバロウズ発行の偽名の旅券と紹介状が入っていた。
手紙には簡単に、リヨン王国に住むこの人物の所へ一番最初に会いに行けと、名前と住所が記されていた。
その名は『クリスチャン・シモーヌ』、リヨンのシモーヌ公爵の娘婿だそうだ。
この人物に旅券の名義人『ノイエ・オルティエ』として会いに行けと。
その他に、リヨンに入国したらトルラキアの言語の使用は見合せる事、落ち着いたら居所を必ずカラン・ワグナー宛に連絡する事、何かややこしい事態が起きればバロウズ大使館に逃げ込む事、この手紙を読んだ後は焼却する事、等が綴られていた。
どうしてアシュフォード殿下がここまでしてくださるのか、理由が思い付かなかった。
しかし、この助けを拒否しようとも思わなかった。
いつか必ず、このご恩はお返し致しますと決めた。
王弟殿下には直接返せなくても、その御子様に、またその御子様に。
……ノイエの命がある限り。
そして、彼は。
『マルーク』と『イシュトヴァーン』ふたつの名前を、捨てた。
◇◇◇
あの日の事は今でも鮮明に思い出せる。
殿下と『死人還り』を決行したアグネスを助け出そうとした9月の雨の午後。
ノックをしたが返事もなく、鍵を使って入ったクラリスの部屋には何かが確かに居たと、思う。
天気は雨だったが、トルラキアと違ってバロウズはそれなりに残暑が厳しい頃なのに、閉めきられた部屋は肌寒く、空気が重く澱んでいた。
殿下からは何があっても、口も手も出すなと言われていて、ノイエは扉の前で待機した。
殿下に抱かれたアグネスが、頭を左右に振っていて、その後殿下はカーテンを開いて、新鮮な空気を取り込もうとして、振り返り動きを止めた。
ふたりからは離れていたから何を話していたのかは、耳の良いノイエにもはっきりとは聞き取れなかったが。
ただ、殿下がいつも温厚な顔を見せていたアグネスに対して、珍しく怒りを露にしたのはわかった。
俳優となってから、人の表情をよく観察するようになってわかったことがある。
人は怒りが過ぎると悲しみに襲われ、そして絶望する。
まさに今の殿下がそうだった。
ノイエからは背中を向けているアグネスの表情は見えない。
正面から殿下の、この絶望を見ても、アグネスに動きはない。
よろよろと殿下は座ったままのアグネスに近寄り彼女の頬に手を添えて、何事かを話していた。
するとようやく、アグネスは何かに気付いたように動きを見せた。
急に立ち上がり、壁に嵌め込まれていた姿見への方へ駆け出したのだ。
それは一瞬だった。
アグネスが呪いをかけた夜から、鏡を見ることが出来ないことをノイエは殿下に話していたので、慌ててアグネスを止めようとした殿下の手が宙を掴んで……
「見るな!見なくていい!」
それはアシュフォード殿下の魂から発された真実の叫びだった。
演じる事を選んだ日から、それはまるで背負わされた業の様にノイエから離れない。
何かの情景、誰かの言葉、溢れでた感情、それらの全てを。
まるで、次に演じる役の為に観察して、それを己の内に取り込もうとして、俯瞰している自分が居るのだ。
本当にふたりの事を心配していた。
もう離れてしまえと、早く結ばれてしまえ、どちらも本心だ。
それなのに。
今も忌むべき姿を映した鏡から、パニックになったアグネスを引き離して、彼女の視界からその存在を消そうとひたすら姿見を叩き壊す殿下の姿を見て、ノイエは観察せずにはいられなかった。
いつか、大切な何かを守る為に立ち向かうと決意した男を演じる時、俺はこの殿下の姿を思い浮かべるだろう、と。
鏡が割れた時、部屋を覆っていた冷たく重い空気が消えた。
光が射し込んで蒸発したみたいだった。
朝からの雨がようやく止んでいたのを、ノイエは気付いた。
そして目の前のふたりがもう離れない事にも、ノイエは気付いた。
誰が何を言っても、殿下は左手でアグネスを固く抱いていて、アグネスは両腕をしっかりと殿下の身体に回していた。
10年間ぐずぐずやっていたふたりだった。
いい加減に離れてしまえと、自分以外にも思っていた者も居るはずだ。
『殿下の運命の、真実の愛がどうなるか、見届けてくれ』と、ミハン叔父上に頼まれていた。
結局は簡単な事だった。
『離れたくない』それだけ。
ふたりにとって、それだけが全て、だったんだ。
やってられないな、そう呆れながらも、侍医を呼ぶ為に階段を駆け下りるノイエの足取りは軽かった。
この後、新しいストロノーヴァ公爵閣下に。
事の次第を報告する為にトルラキアへ帰国する。
久しぶりにオルツォの邸へ帰ろう。
兄と義姉の間に甥っ子が生まれたと聞いていた。
初めて抱かせて貰う甥っ子へのお土産は何にしようか……
侯爵家の扉を開けた時、ノイエには虹が見えた気がした。
頭を下げて、初対面での自分の態度を詫びた。
王弟殿下があの時の冷気や残忍さを漂わす事はもうなく、普通に話せるようになった。
それでもアグネスとの仲を疑われては困るので、自分から失恋の話をして、兄達の姿を見たくないからこの国を出るつもりだと話した。
「どこに行くのか決めているのか?」
「……それはまだ、です」
「何かしたいことでもあるのか?」
「……」
「……決まったら、話を聞かせて。
後、決行する日まで金と金になりそうなものは溜め込んでおくように。
金がないと、身動き取れないから」
公爵家の晩餐会では、母国でデビュタントしたアグネスも、殿下に伴われて参加する機会も増えていた。
その姿を見た母からは残念そうに言われた。
「アシュフォード殿下がお相手なら、どうしようもないわね」
アグネスには、まだ中等部だった頃に『国を出るから、しがらみは少ない方がいいから』と、パートナーを申込む理由を話していたが、卒業間近の今はその話をするつもりはなかった。
オルツォとストロノーヴァの両家から彼女が責められては申し訳ないからだ。
アグネスには別れを告げないと、固く決意している。
舞台に出たいと、殿下には話した。
すると、後日バロウズからノイエ宛に封書が届いた。
差出人はカラン・ワグナーと書かれていた。
記憶にない名前で不審に思ったが、中には殿下からの手紙とバロウズ発行の偽名の旅券と紹介状が入っていた。
手紙には簡単に、リヨン王国に住むこの人物の所へ一番最初に会いに行けと、名前と住所が記されていた。
その名は『クリスチャン・シモーヌ』、リヨンのシモーヌ公爵の娘婿だそうだ。
この人物に旅券の名義人『ノイエ・オルティエ』として会いに行けと。
その他に、リヨンに入国したらトルラキアの言語の使用は見合せる事、落ち着いたら居所を必ずカラン・ワグナー宛に連絡する事、何かややこしい事態が起きればバロウズ大使館に逃げ込む事、この手紙を読んだ後は焼却する事、等が綴られていた。
どうしてアシュフォード殿下がここまでしてくださるのか、理由が思い付かなかった。
しかし、この助けを拒否しようとも思わなかった。
いつか必ず、このご恩はお返し致しますと決めた。
王弟殿下には直接返せなくても、その御子様に、またその御子様に。
……ノイエの命がある限り。
そして、彼は。
『マルーク』と『イシュトヴァーン』ふたつの名前を、捨てた。
◇◇◇
あの日の事は今でも鮮明に思い出せる。
殿下と『死人還り』を決行したアグネスを助け出そうとした9月の雨の午後。
ノックをしたが返事もなく、鍵を使って入ったクラリスの部屋には何かが確かに居たと、思う。
天気は雨だったが、トルラキアと違ってバロウズはそれなりに残暑が厳しい頃なのに、閉めきられた部屋は肌寒く、空気が重く澱んでいた。
殿下からは何があっても、口も手も出すなと言われていて、ノイエは扉の前で待機した。
殿下に抱かれたアグネスが、頭を左右に振っていて、その後殿下はカーテンを開いて、新鮮な空気を取り込もうとして、振り返り動きを止めた。
ふたりからは離れていたから何を話していたのかは、耳の良いノイエにもはっきりとは聞き取れなかったが。
ただ、殿下がいつも温厚な顔を見せていたアグネスに対して、珍しく怒りを露にしたのはわかった。
俳優となってから、人の表情をよく観察するようになってわかったことがある。
人は怒りが過ぎると悲しみに襲われ、そして絶望する。
まさに今の殿下がそうだった。
ノイエからは背中を向けているアグネスの表情は見えない。
正面から殿下の、この絶望を見ても、アグネスに動きはない。
よろよろと殿下は座ったままのアグネスに近寄り彼女の頬に手を添えて、何事かを話していた。
するとようやく、アグネスは何かに気付いたように動きを見せた。
急に立ち上がり、壁に嵌め込まれていた姿見への方へ駆け出したのだ。
それは一瞬だった。
アグネスが呪いをかけた夜から、鏡を見ることが出来ないことをノイエは殿下に話していたので、慌ててアグネスを止めようとした殿下の手が宙を掴んで……
「見るな!見なくていい!」
それはアシュフォード殿下の魂から発された真実の叫びだった。
演じる事を選んだ日から、それはまるで背負わされた業の様にノイエから離れない。
何かの情景、誰かの言葉、溢れでた感情、それらの全てを。
まるで、次に演じる役の為に観察して、それを己の内に取り込もうとして、俯瞰している自分が居るのだ。
本当にふたりの事を心配していた。
もう離れてしまえと、早く結ばれてしまえ、どちらも本心だ。
それなのに。
今も忌むべき姿を映した鏡から、パニックになったアグネスを引き離して、彼女の視界からその存在を消そうとひたすら姿見を叩き壊す殿下の姿を見て、ノイエは観察せずにはいられなかった。
いつか、大切な何かを守る為に立ち向かうと決意した男を演じる時、俺はこの殿下の姿を思い浮かべるだろう、と。
鏡が割れた時、部屋を覆っていた冷たく重い空気が消えた。
光が射し込んで蒸発したみたいだった。
朝からの雨がようやく止んでいたのを、ノイエは気付いた。
そして目の前のふたりがもう離れない事にも、ノイエは気付いた。
誰が何を言っても、殿下は左手でアグネスを固く抱いていて、アグネスは両腕をしっかりと殿下の身体に回していた。
10年間ぐずぐずやっていたふたりだった。
いい加減に離れてしまえと、自分以外にも思っていた者も居るはずだ。
『殿下の運命の、真実の愛がどうなるか、見届けてくれ』と、ミハン叔父上に頼まれていた。
結局は簡単な事だった。
『離れたくない』それだけ。
ふたりにとって、それだけが全て、だったんだ。
やってられないな、そう呆れながらも、侍医を呼ぶ為に階段を駆け下りるノイエの足取りは軽かった。
この後、新しいストロノーヴァ公爵閣下に。
事の次第を報告する為にトルラキアへ帰国する。
久しぶりにオルツォの邸へ帰ろう。
兄と義姉の間に甥っ子が生まれたと聞いていた。
初めて抱かせて貰う甥っ子へのお土産は何にしようか……
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