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第一章『天才写真家の愛息子』
第三話『深雪』
・
大学への通い易さを考慮して、生活基盤を東京に移していた俺が、今回こうして地元である山梨に帰省したのは、父方の祖父の三回忌があった為だった。祖父は、山岳写真家という、それ一本で食べていける人間が数少ない職業を目指していた俺を、それでも応援し続けてくれた。自分自身が不治の病に侵され、床に臥す様になっても、俺との会話の中に一切の影を落とす事なく、明るい話題ばかりを俺に振って、写真家としての才能や、なかなか気候に恵まれない運の無さにめげて、直ぐに自信を喪失してしまいそうになる俺を、優しく鼓舞し続けてくれた。自分自身の精神的支柱であった祖父を亡くした俺は、他のどんな存在であっても埋めようがない喪失感を胸の内に抱え込んでしまったけれど。そんな俺を絶望の淵から救ってくれたのも、生まれ育った場所にあって、ずっと俺を見守り育ててくれた、祖父の様に偉大な南アルプスの山嶺であり、その自然であり、そして、その南アルプスにあって女王の名前を欲しいままにする仙丈ヶ岳を撮影した、尾身先生の作品の数々だった。
先生の代表作である、槍ヶ岳シリーズと双璧をなす人気作、仙丈ヶ岳シリーズと呼ばれる作品は、作品集として纏められて出版される事はなく、過去に雑誌にも掲載された事がない作品である為、山岳写真ファン達から幻の作品扱いを受ける代物だった。何故、そんな作品に俺が触れる機会があったのかと言われれば、それは、俺が生まれ育ったその場所、山梨に深い関係がある。
尾身先生は、自分自身が生涯を掛けて愛した妻でありパートナーの生まれ故郷である南アルプス市に、四季折々の仙丈ヶ岳を撮影した自分の作品を寄贈したのだ。そしてそれは、毎年決まって、先生の長男の誕生日である12月8日に一作品ずつ更新され続けて行った。写真集として纏め上げれば、間違いなく世界中の山岳写真ファン垂涎の逸品になる事は間違いないその数々の作品は、南アルプス市の役所のロビーに、月替わりでその四季ごとに展示がなされ、その場所は、山岳写真ファンの間では、仙丈ヶ岳の登山目的で訪れた帰り道に立ち寄る、ある種の観光名所と化している。そんな風にして、俺自身の生まれ故郷に、特別な想いを抱き続けてくれた偉大なる先生の才能に触れられる環境は、思春期真っ只中を行っていた過去の俺にとって、何物にも変え難い貴重な経験と体験を与えてくれた。
そんな大恩師である尾身先生の、未発表の作品に触れる事ができるかも知れないなんて。胸が期待に膨らみ、どきどきと忙しなく心臓が脈打ち、それが助骨の内側を激しく打つ。まだ、名刺に記載されていた情報と、スマホで検索した情報とを撚り合わせて辿り着いた店の前に立っているだけなのに、極度の緊張から、喉がカラカラに乾涸びてしまっていた。
その店は、山の麓にある喫茶店と聞いた約八割の人間が頭の中で想像する、丸太で出来たロッジのイメージそのものの作りをしていた。見た目の作りは釘無しの寄せ木を駆使して、丸太を組み立てて建造したそれではあったけれど。奥行きは広く、テラス席も備え付けられ、事前に知らされていた様に頑強な二階建てであったが為に、耐震性にも優れた、『ロッジ風』という外見を計算し尽くした、現代的な建築様式によって建てられた建造物であるというのが、建築に関しては素人でしかない俺の見る目にも分かった。
丁寧に柿渋を塗り重ね、防虫・防腐効果が高められている木の扉の前に立ち、忙しなく高鳴る心臓を落ち着ける為に、一つ、二つと深呼吸をする。そうして気持ちを引き締めてから、品の良い、凛とした音色を奏でるドアベルを鳴らして入店すると、挽き立ての珈琲の芳しい香りが、ふわりと俺の全身を包んだ。
「いらっしゃいま……あ、貴方は……」
白い長袖のワイシャツの上に深いオリーブ色のカフェエプロンを着用し、以前会った時よりも、より一層柔らかい印象の姿形をしているその人は、入店したままの格好で入り口に佇む俺の存在に気が付くと、ブリキで作られた鈍銀色のジョウロで観葉植物に水をやっていたその手を止めて、俺を振り返った。そして、そのジョウロを観葉植物の鉢の隣に静かに置いてから、音も無く俺の元に歩み寄ると、棒の様に突っ立っていた俺に向けて、ゆっくりと頭を下げた。
「先日は、父の遺作展にご足労いただきまして、ありがとうございました。それに、こうして本当に来て下さるなんて……」
丁寧な物腰で対応されてしまうと、自分もちゃんとしなくては、という気持ちになる。もとよりそのつもりではいたのだけど、自分の人生の指針にしてきた憧れの存在の肉親である人物に、こうまでして丁寧に接せられると、立場を無くしてしまいそうというか、居た堪れないというか。だから、俺もその人……深雪さんに合わせて、殆ど同じタイミングで頭を下げた。
「いえ、此方こそ。先日は、大変お疲れ様でした。それに、お気遣いいただいただけなのに、お言葉に甘えて、本当にお店にまで押し掛けてしまって、すみません」
「僕が言い出した事ですから、お気になさらず。それに、僕、本当に嬉しいんです。こんなにも熱心な父のファンの方と巡り逢えて……ふふ、父も喜びます。ですから今日は、精一杯おもてなしさせて下さいね」
「そ、そんな……」
自分自身を笑われた訳でもないのに、深雪さんの微笑みを正面から受けて、どぎまぎとしてしまう。初めて会った時から、何だか、これまで会ってきた人の中でも、特別印象に残り易い人だな、とは思っていたけれど。こうして二人きりになると、余計にその感覚を強く感じた。それにしても、お世話になったお礼をしにハンカチを届けにきただけなのに、精一杯のおもてなしだなんて、こんな幸せがあっていいのだろうか。
大尊敬している尾身先生の肉親と知り合えただけでも、これまでの運を全て使い切ったくらいの気持ちでいたのに。もしかしたら、撮影時の裏話とか、日頃どんな装備を使っていただとか、あまりインタビューに応えた経験がない先生の、これまでベールに包まれてきた人となりだとか……そんな話が聞けたりして。いや、そこまでは望んでいないし、かなり踏み込み過ぎている感が否めないし、ただただ厚顔無恥というか、恥知らずというか。ただ、幻の作品である仙丈ヶ岳シリーズの誕生のきっかけとなった深雪さんに案内されながら、尊敬している先生の未発表の作品を見て回れるなんて、こんな機会この先絶対に無いだろうから。こんな貴重な時間を、一分一秒たりとも無駄にしたくないなと思って、絞り出す様にして『本日は、宜しくお願いします』と告げた。
「深雪、観葉植物の水やり終わった?」
お互いが無言であっても、何故だか居心地の悪さを感じない空間にあって、それでも何処か面映いというか、相手の顔を見るにしても気恥ずかしくてならない感情に、頭の中が支配されていると。そんな空間に割って入る、のんびりとした声が、俺と深雪さんとの間で進むのをやめてしまった時計の秒針を進めてくれた。声がした方をハッと振り向くと、そこには、見るもの全てが唖然としてしまう程、ぴかぴかに顔貌の整った男性がいて。ギリシア彫刻がある日突然、そのまま動き出してしまった、と説明されても納得のいくその人の顔を、俺はまじまじと見つめてしまった。
「あれ、お客さん?まだ開店前だけど、どうしたの?」
「え……?」
「智久、いいから」
開店前という言葉を受けて、俺は、はたりと意識を取り戻した。そして、鋭く、それでいて小さく声を上げて、口元に人差し指を持っていった深雪さんの顔を見てから、自分の左手首に収まっている腕時計にパッと視線を移した。そこに記された時刻と、事前に入手していたこの店の開店時間とを頭の中で統合し、一瞬にして青褪める。いくら緊張していたからといって、まさか、一時間も時計を読み違えるなんて。成人もしている良い大人がしていい凡ミスではない。
「す、すみません!!時計を一時間読み間違えてしまって……俺、開店時間まで、何処で時間を潰して来ます……ッ」
「良いんです、落ち着いて下さい。僕、もう自分が出来る範囲の開店準備は殆ど終わらせているんです。ね、智久」
「うん、まぁ。後の事は俺がやるし」
「いや、でも……」
そうと促されても、俺の気持ちが収まらない。この喫茶店の開店準備の邪魔をしてしまったのは間違いない事実だし、家族経営している店の店員さんが一人でも欠けたら、どれだけ店の営業に影響が及ぶかくらい、誰であっても容易に想像がつく。俺自身の実家が家族経営の広告代理店を経営しているので、余計にその想像は働いてしまった。
「本当に、大丈夫ですから。実を言うと、この店で僕が出来る事は、殆ど無いんです」
俺が一人で勝手に慌てふためいていると、深雪さんは、そう言って力無く笑い、俺に向けて自分の右腕を少しだけ持ち上げて見せた。すると、深雪さんのその右手首に、白い包帯が巻かれている様子が、俺の目にも飛び込んできた。
「それは……?」
「……父と最後に山に登った時に、僕も滑落事故に巻き込まれて。痛みはもう無いんですが、腱を痛めてしまって。今は、市内の病院に定期的に通ってリハビリをしているんです」
「そう、だったんですか……」
最後に山に登った時、という部分に、察するべき部分が無いはずもなく。俺はそれ以上を口にするべきではないと悟り、口を噤んだ。
そうだったのか。深雪さんは、その滑落事故に自分自身も巻き込まれて、自分の父親だけでなく、右腕の自由すらも失ってしまったのか。初めて会った時は黒いスーツ姿だったから右腕の包帯が隠れていて見えなかった。でもこうして長袖の白いシャツの上にカフェエプロンを身に付けているだけの姿になると、その右腕の痛々しさはありありと見て取れる。リハビリ中だと言う話だから、全くの希望が無いわけでは無いにしろ、圧倒的大多数の人間の利き手として機能する右手を負傷して、不自由さを感じない人間がいない筈がない。どうかリハビリが上手くいって、右腕の自由だけでも取り戻せればいいのだけれど。まだ、二回しか面識がない俺が、おいそれとそんな心配を口に出していいのか見当がつかず、やはりそこにも、口を噤んだ。
「こんな僕にも出来る事はあると思って、お店には出ているんです。こうして父の作品がある事を人伝で知って訪ねて下さるお知り合いや、熱心なファンの方もいらっしゃいますから。だから、自分の仕事がまた一つ出来たと思って、ここ最近はずっとわくわくしていたんですよ。ですから今日は、訪ねてくださって、本当にありがとうございます」
「そんな、俺の方こそ、貴重な機会をいただいて、ありがとうございます」
どうしてこの人は、こんなにも健気に、人当たりよく、人と接する事が出来るんだろう。自分自身の父を亡くし、己が腕まで犠牲にして、何故こんなにも、凛としていられるんだろう。虚勢を張っている様にも、強がりを口にしている様にも、まるで思えない。なのに、人の、俺の、心の中にある柔らかな部分は、深雪さんのその見た目から受ける印象とは、全く別の感想を漏らしていた。
『この人は、とても危うい』と。
「どうぞ此方に。二階にあるギャラリーに、ご案内致します」
大学への通い易さを考慮して、生活基盤を東京に移していた俺が、今回こうして地元である山梨に帰省したのは、父方の祖父の三回忌があった為だった。祖父は、山岳写真家という、それ一本で食べていける人間が数少ない職業を目指していた俺を、それでも応援し続けてくれた。自分自身が不治の病に侵され、床に臥す様になっても、俺との会話の中に一切の影を落とす事なく、明るい話題ばかりを俺に振って、写真家としての才能や、なかなか気候に恵まれない運の無さにめげて、直ぐに自信を喪失してしまいそうになる俺を、優しく鼓舞し続けてくれた。自分自身の精神的支柱であった祖父を亡くした俺は、他のどんな存在であっても埋めようがない喪失感を胸の内に抱え込んでしまったけれど。そんな俺を絶望の淵から救ってくれたのも、生まれ育った場所にあって、ずっと俺を見守り育ててくれた、祖父の様に偉大な南アルプスの山嶺であり、その自然であり、そして、その南アルプスにあって女王の名前を欲しいままにする仙丈ヶ岳を撮影した、尾身先生の作品の数々だった。
先生の代表作である、槍ヶ岳シリーズと双璧をなす人気作、仙丈ヶ岳シリーズと呼ばれる作品は、作品集として纏められて出版される事はなく、過去に雑誌にも掲載された事がない作品である為、山岳写真ファン達から幻の作品扱いを受ける代物だった。何故、そんな作品に俺が触れる機会があったのかと言われれば、それは、俺が生まれ育ったその場所、山梨に深い関係がある。
尾身先生は、自分自身が生涯を掛けて愛した妻でありパートナーの生まれ故郷である南アルプス市に、四季折々の仙丈ヶ岳を撮影した自分の作品を寄贈したのだ。そしてそれは、毎年決まって、先生の長男の誕生日である12月8日に一作品ずつ更新され続けて行った。写真集として纏め上げれば、間違いなく世界中の山岳写真ファン垂涎の逸品になる事は間違いないその数々の作品は、南アルプス市の役所のロビーに、月替わりでその四季ごとに展示がなされ、その場所は、山岳写真ファンの間では、仙丈ヶ岳の登山目的で訪れた帰り道に立ち寄る、ある種の観光名所と化している。そんな風にして、俺自身の生まれ故郷に、特別な想いを抱き続けてくれた偉大なる先生の才能に触れられる環境は、思春期真っ只中を行っていた過去の俺にとって、何物にも変え難い貴重な経験と体験を与えてくれた。
そんな大恩師である尾身先生の、未発表の作品に触れる事ができるかも知れないなんて。胸が期待に膨らみ、どきどきと忙しなく心臓が脈打ち、それが助骨の内側を激しく打つ。まだ、名刺に記載されていた情報と、スマホで検索した情報とを撚り合わせて辿り着いた店の前に立っているだけなのに、極度の緊張から、喉がカラカラに乾涸びてしまっていた。
その店は、山の麓にある喫茶店と聞いた約八割の人間が頭の中で想像する、丸太で出来たロッジのイメージそのものの作りをしていた。見た目の作りは釘無しの寄せ木を駆使して、丸太を組み立てて建造したそれではあったけれど。奥行きは広く、テラス席も備え付けられ、事前に知らされていた様に頑強な二階建てであったが為に、耐震性にも優れた、『ロッジ風』という外見を計算し尽くした、現代的な建築様式によって建てられた建造物であるというのが、建築に関しては素人でしかない俺の見る目にも分かった。
丁寧に柿渋を塗り重ね、防虫・防腐効果が高められている木の扉の前に立ち、忙しなく高鳴る心臓を落ち着ける為に、一つ、二つと深呼吸をする。そうして気持ちを引き締めてから、品の良い、凛とした音色を奏でるドアベルを鳴らして入店すると、挽き立ての珈琲の芳しい香りが、ふわりと俺の全身を包んだ。
「いらっしゃいま……あ、貴方は……」
白い長袖のワイシャツの上に深いオリーブ色のカフェエプロンを着用し、以前会った時よりも、より一層柔らかい印象の姿形をしているその人は、入店したままの格好で入り口に佇む俺の存在に気が付くと、ブリキで作られた鈍銀色のジョウロで観葉植物に水をやっていたその手を止めて、俺を振り返った。そして、そのジョウロを観葉植物の鉢の隣に静かに置いてから、音も無く俺の元に歩み寄ると、棒の様に突っ立っていた俺に向けて、ゆっくりと頭を下げた。
「先日は、父の遺作展にご足労いただきまして、ありがとうございました。それに、こうして本当に来て下さるなんて……」
丁寧な物腰で対応されてしまうと、自分もちゃんとしなくては、という気持ちになる。もとよりそのつもりではいたのだけど、自分の人生の指針にしてきた憧れの存在の肉親である人物に、こうまでして丁寧に接せられると、立場を無くしてしまいそうというか、居た堪れないというか。だから、俺もその人……深雪さんに合わせて、殆ど同じタイミングで頭を下げた。
「いえ、此方こそ。先日は、大変お疲れ様でした。それに、お気遣いいただいただけなのに、お言葉に甘えて、本当にお店にまで押し掛けてしまって、すみません」
「僕が言い出した事ですから、お気になさらず。それに、僕、本当に嬉しいんです。こんなにも熱心な父のファンの方と巡り逢えて……ふふ、父も喜びます。ですから今日は、精一杯おもてなしさせて下さいね」
「そ、そんな……」
自分自身を笑われた訳でもないのに、深雪さんの微笑みを正面から受けて、どぎまぎとしてしまう。初めて会った時から、何だか、これまで会ってきた人の中でも、特別印象に残り易い人だな、とは思っていたけれど。こうして二人きりになると、余計にその感覚を強く感じた。それにしても、お世話になったお礼をしにハンカチを届けにきただけなのに、精一杯のおもてなしだなんて、こんな幸せがあっていいのだろうか。
大尊敬している尾身先生の肉親と知り合えただけでも、これまでの運を全て使い切ったくらいの気持ちでいたのに。もしかしたら、撮影時の裏話とか、日頃どんな装備を使っていただとか、あまりインタビューに応えた経験がない先生の、これまでベールに包まれてきた人となりだとか……そんな話が聞けたりして。いや、そこまでは望んでいないし、かなり踏み込み過ぎている感が否めないし、ただただ厚顔無恥というか、恥知らずというか。ただ、幻の作品である仙丈ヶ岳シリーズの誕生のきっかけとなった深雪さんに案内されながら、尊敬している先生の未発表の作品を見て回れるなんて、こんな機会この先絶対に無いだろうから。こんな貴重な時間を、一分一秒たりとも無駄にしたくないなと思って、絞り出す様にして『本日は、宜しくお願いします』と告げた。
「深雪、観葉植物の水やり終わった?」
お互いが無言であっても、何故だか居心地の悪さを感じない空間にあって、それでも何処か面映いというか、相手の顔を見るにしても気恥ずかしくてならない感情に、頭の中が支配されていると。そんな空間に割って入る、のんびりとした声が、俺と深雪さんとの間で進むのをやめてしまった時計の秒針を進めてくれた。声がした方をハッと振り向くと、そこには、見るもの全てが唖然としてしまう程、ぴかぴかに顔貌の整った男性がいて。ギリシア彫刻がある日突然、そのまま動き出してしまった、と説明されても納得のいくその人の顔を、俺はまじまじと見つめてしまった。
「あれ、お客さん?まだ開店前だけど、どうしたの?」
「え……?」
「智久、いいから」
開店前という言葉を受けて、俺は、はたりと意識を取り戻した。そして、鋭く、それでいて小さく声を上げて、口元に人差し指を持っていった深雪さんの顔を見てから、自分の左手首に収まっている腕時計にパッと視線を移した。そこに記された時刻と、事前に入手していたこの店の開店時間とを頭の中で統合し、一瞬にして青褪める。いくら緊張していたからといって、まさか、一時間も時計を読み違えるなんて。成人もしている良い大人がしていい凡ミスではない。
「す、すみません!!時計を一時間読み間違えてしまって……俺、開店時間まで、何処で時間を潰して来ます……ッ」
「良いんです、落ち着いて下さい。僕、もう自分が出来る範囲の開店準備は殆ど終わらせているんです。ね、智久」
「うん、まぁ。後の事は俺がやるし」
「いや、でも……」
そうと促されても、俺の気持ちが収まらない。この喫茶店の開店準備の邪魔をしてしまったのは間違いない事実だし、家族経営している店の店員さんが一人でも欠けたら、どれだけ店の営業に影響が及ぶかくらい、誰であっても容易に想像がつく。俺自身の実家が家族経営の広告代理店を経営しているので、余計にその想像は働いてしまった。
「本当に、大丈夫ですから。実を言うと、この店で僕が出来る事は、殆ど無いんです」
俺が一人で勝手に慌てふためいていると、深雪さんは、そう言って力無く笑い、俺に向けて自分の右腕を少しだけ持ち上げて見せた。すると、深雪さんのその右手首に、白い包帯が巻かれている様子が、俺の目にも飛び込んできた。
「それは……?」
「……父と最後に山に登った時に、僕も滑落事故に巻き込まれて。痛みはもう無いんですが、腱を痛めてしまって。今は、市内の病院に定期的に通ってリハビリをしているんです」
「そう、だったんですか……」
最後に山に登った時、という部分に、察するべき部分が無いはずもなく。俺はそれ以上を口にするべきではないと悟り、口を噤んだ。
そうだったのか。深雪さんは、その滑落事故に自分自身も巻き込まれて、自分の父親だけでなく、右腕の自由すらも失ってしまったのか。初めて会った時は黒いスーツ姿だったから右腕の包帯が隠れていて見えなかった。でもこうして長袖の白いシャツの上にカフェエプロンを身に付けているだけの姿になると、その右腕の痛々しさはありありと見て取れる。リハビリ中だと言う話だから、全くの希望が無いわけでは無いにしろ、圧倒的大多数の人間の利き手として機能する右手を負傷して、不自由さを感じない人間がいない筈がない。どうかリハビリが上手くいって、右腕の自由だけでも取り戻せればいいのだけれど。まだ、二回しか面識がない俺が、おいそれとそんな心配を口に出していいのか見当がつかず、やはりそこにも、口を噤んだ。
「こんな僕にも出来る事はあると思って、お店には出ているんです。こうして父の作品がある事を人伝で知って訪ねて下さるお知り合いや、熱心なファンの方もいらっしゃいますから。だから、自分の仕事がまた一つ出来たと思って、ここ最近はずっとわくわくしていたんですよ。ですから今日は、訪ねてくださって、本当にありがとうございます」
「そんな、俺の方こそ、貴重な機会をいただいて、ありがとうございます」
どうしてこの人は、こんなにも健気に、人当たりよく、人と接する事が出来るんだろう。自分自身の父を亡くし、己が腕まで犠牲にして、何故こんなにも、凛としていられるんだろう。虚勢を張っている様にも、強がりを口にしている様にも、まるで思えない。なのに、人の、俺の、心の中にある柔らかな部分は、深雪さんのその見た目から受ける印象とは、全く別の感想を漏らしていた。
『この人は、とても危うい』と。
「どうぞ此方に。二階にあるギャラリーに、ご案内致します」
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