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最終章 『最愛』
第二話 貴方の全てを、受け入れる
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何とか、律が居間に戻ってくる前に、自分の涙を止められた。ハンカチは一枚無駄にしてしまったけれど、沢山のティッシュを使って不審に思われても困ってしまうから、一応持ってきて置いて正解だったな、と胸を撫で下ろした。
あんな風に軽く突き放されただけで、こんな風にボロボロに泣き噦ってなってしまうなんて、僕は、我ながらなんて柔な性質をしているんだろう。律が呆れるのも当然だ。そして、社会人として、大人として、人との接し方がまるでなっていない僕は、叱責を受けて当然の立場にあると思えてならなかった。
あれから、五分以上は経過しているけれど、まだ律はキッチンから帰ってこない。律は優しいから、僕に対して必要以上に言葉を尽くさない様に自分をコントロールしようと、キッチンにいて頭を冷まそうとしてくれているのかもしれない。だとしたら、手伝いを申し出る為に、キッチンに向かうのは良くないのかな。でも、このままだと本当に上げ膳据え膳を受け入れる事になってしまう。それだけは、何としても避けたいのだけど……
と、そんな風に頭をぐるぐると悩ませていると、夕食の準備をする為にお盆の上に寿司桶とお茶の入った湯呑みを並べた律が、何の感情も読み取れない無表情のまま、それを持って居間に戻ってきた。
あ、と弾かれた様に小さく声を上げて、その場から立ち上がると、僕は慌てて律に向かって謝罪を口にした。
「ごめんなさい、お手伝いも何もしなくて…っ、あの、お片付けは絶対に僕がするから……」
泊まりがけでお邪魔しにきた者として、最低限のマナーは守らないと、と日頃からあまり強く意思表示をしない僕にしては固辞した言い回しをすると、律はその無表情を保ったまま、首を横に振った。
「いえ、お客さんにそんな事はさせられませんから」
「でも、僕……今日は本当に律にお世話になりっぱなしで。だから、せめて、自分の食べた物の後片付けくらいはしたいんだ。ただ、もしも、律のやり方があるからさせたくないっていうなら、そのやり方を横で見て覚えるから。一緒に片付けさせてくれないかな?」
食事の片付け一つを取っても、人それぞれ段取りや拘りがあったりもする。それを敢えて黙認して、上げ膳据え膳は気持ちが悪いからと勝手に手を出して、それを我慢させたままでいたら、その人のストレスになってしまう。良かれと思ってやっている事でも、ストレスは積み重ねていけば、いつしか人間関係に置ける負債として抱えていかなければならない問題となっていく。だから、例えお互いが気の置けない友人関係だったとしても、長く交流を続けていきたいのであれば、相手に対する気遣いをしていくのは必要不可欠だと僕は思っていた。
「俺には、片付けに関しての拘りなんてありません。だから、覚えて貰うことも、特別には……ただ、並んで片付けをするのは、賛成です。折角こうして一緒に居るんですから、貴方に背を向けて会話したりはしたくないですし」
にこり、と穏やかな笑みを浮かべて、僕の気持ちを汲んだ上で、優しさと労りとを同時に言葉にしてくれた律に、再び落涙しそうになる所を、グッと堪える。いま、ここで泣き出しでもしたら、また律に迷惑を掛けてしまう。それだけでなく、折角こうして、さっきまであったお互いの間にある気不味い空気をなかった事にしようと努力してくれている律の気遣いまでもが無駄になってしまうから。
「僕も、律と背中越しに話をするのは寂しいと思ってたから、嬉しい。ありがとう、律。僕の我儘に付き合ってくれて」
相手の人柄が良いからこそ、またこうして和やかに会話が出来ているのだと分かっていても、どうしてもホッとしてしまう。我ながら現金な性格をしているな、と思いながらも、事実は事実として受け止めて、律に向けて笑顔を見せた。そんな、人間的に見て欠陥を抱えている僕みたいな存在にも、慈悲を向けてくれる律の憂いになってはならないと思えたから。
「じゃあ、食事にしましょう。ここの寿司屋は生粋の江戸前寿司なので一貫一貫は小振りなんですが、味に関しては間違いないので、真澄さんも気に入ってくれたらいいんですけど……真澄さんのアレルギーのある青魚に関しては違う物にしてあるので、どうぞ、安心して召し上がって下さい」
「うん、気遣ってくれて、ありがとう。わぁ、一つ一つが宝石みたいに綺麗で、本当に美味しそうだね!頂きます」
こうして泊まりがけで遊びに行く話が纏まると、僕は、僕自身が、食品アレルギーを複数持っている事を事前に律に相談した。すると、律は気を利かせて、食べる物を目視で確認出来るお寿司をこうして選んでくれた。この国に生まれた人間として、青魚を始めとした魚介類や、香辛料にアレルギーを抱えているのは、ハッキリと死活問題だ。だから、外食をする時などは、本当に気が気じゃない思いをしなくてはならないのだけど。それ以上に、一緒に食事をする相手に申し訳ない気持ちになってしまうから、基本的にそうした誘いは断ったり、避けられる物は避ける様にしてきた。それによって、円滑な人間関係の輪から外れてしまうケースがあっても、相手に迷惑を掛けるよりは遥かにマシだと思ってきたから。
だから、律にも、これまでと同じ様に、食事は持参して行くよ、と話したりもしていたんだけど。
『もし何かあっても、俺が支えるから。真澄さんは、俺の為に、いつも通りの自分だけ用意していて』
……いやいや、可愛いだけじゃなく、男前でもあるって、一体どういう事なんですかね。やっぱり、国を挙げて、彼の保護活動に乗り出す必要があるんじゃないでしょうか。署名活動とか、誰かやってないかな。やってないなら、僕が始めようかな……嗚呼、でも、変な外圧が増えてしまって、律の負担になったら申し訳無いしな。悩ましい……
「どう?口に合いましたか?」
一口目から相手の『美味しい』を引き出そうとしてくる、若干せっかちな感じも、可愛いなぁ。律って、基本的に『待て』が出来ないんだよね……だけど、気持ちは何となく分かるよ。美味しい物は、共有したり共感し合ったりしたいものね。ただ、ごめんよ、律。一応、咀嚼だけはさせてね。
「うん、凄く美味しい。仕込みが丁寧でお魚の臭みが全然無いし、穴子のタレも拘って作ってるのが凄く伝わってくる。こんなに美味しいお寿司を食べたの初めてだよ。ありがとう、律。このお店を選んでくれて」
最初に食べた穴子を咀嚼し、こくんと飲み込んでから感想と感謝を口にすると、律の周囲が、ぱぁ、と光が差した様に明るくなった。無表情を出来るだけ意識しているみたいだけど、頬も微かに紅潮していて、全くといって喜色が抑えきれていない。何で、僕なんかの前で、そんな風に喜びの感情を抑え込んでいるのかは分からないけれど、そういう年頃なのかな、と思って、あまり気にしない事にした。
「いえ、気に入ってくれたなら、良かったです。美味しいのは分かっているんですけど、小さな頃から食べてるので、自分ではこの味に慣れ親しんでいて……正直、喜んで貰えるか不安だったんです。俺はいつも食べているので、俺には遠慮せずに、沢山食べて下さいね」
どんなに美味しい物も、小さな頃から食べ慣れてしまえば、それが当たり前になってしまう。だから、例えそれが自分の好物であっても、お客さんに出す時に、反応はどうかと緊張してしまうのは、考えてみれば当然だと思えた。
だけど、裏を返せば、それは。それだけ自分にとって大切にしている物を、目の前にいる相手と共有したいと思ってくれているのと同じ事だから。それだけ、律は、僕を自分の懐に入れて、僕を大切にしてくれているんだと分かって、胸が、じん、と温まった。
「うん、ありがとう。今度、僕の家に遊びに来てくれた時は、僕が小さい頃からお世話になってるお店の料理をご馳走するね」
「はい。楽しみにしていますね」
つい、二十分前まで、殺伐とした空気がこの場に流れていたとは信じられないくらいに、和やかに食事が進む。話していると、時折律が、思い出したかの様に表情を固くする時もあったりしたけれど。だから、まだまだ無理をしているのかな、申し訳ないな、とも思ったりしたけれど。その次の瞬間には直ぐに笑顔を取り戻したり、話の続きを穏やかに促してくれたりして、二十分前の時の様な、空気が凍りついてしまった様な不機嫌な様子を見せたりは決してしなかったから。僕は、律のそんな固い表情を目にしても、『気遣わせて、ごめんなさい』と口に出すのは、辞めておく事にした。この場の空気を穏やかな物にしようと努力している律に、申し訳ないと思ったから。そして、胸の内に罪悪感を抱えながらも、其れには目を向けない様に、僕自身も気を付けて、あれも美味しい、これも美味しいと感想を口にしながら食事を進めていくうちに、夕食はあっという間に終盤を迎えた。
「じゃあ、真澄さんって、いま付き合ってる人はいないんですか?」
律は身一つでいい、なんて言ってくれたけれど、その言葉を真に受けて手ぶらでお邪魔する訳にはいかない。だから僕は、生きる推しの口に入れるに値する取っておきのワインを、推しに直接お布施をするつもりで持参していた。その持参したワインが底をつき、新しく冷蔵庫から取り出した大吟醸の冷酒を二人で酌み交わしていると、律は、アルコールの影響を受けて、とろん、と熱を持った眼差しで、僕の顔を見つめた。
「うん、いないよ。というか、今まで一度も出来た事ないかな……良い雰囲気になる人は、偶にいたんだけどね。向こうから断られたり、自然と連絡を取らなくなる事が多かったかな」
「へぇ……」
姉カップルの話は、まだ前にも後ろにも進んでいない、という現状報告を終わらせてからの流れだったので、律の興味は次第に僕の方へと流れていったみたいだった。酒の席で、お互いに深い話をして行くと、こうした恋愛の話に発展する事はままあるので、律も年頃だしなぁ、と思いながらも、微笑ましい気持ちで話しに付き合う事にした。
「真澄さんみたいな人を逃すなんて、勿体無い人達ですね。見る目が無いにも程があるでしょ」
妙に辛辣というか、何だか、ケッと、吐き捨てる様な口調なのは、僕の気の所為だろうか。律は、優しいからなぁ。過去に振られた経験を重ねてきた僕の代わりに怒ってくれているのかもしれない。だとしたら、何とも有難い話だ。僕は家宝者だなぁ、と思いながらも、一応は、僕みたいな面倒な性質を持った人間に、一時でも好意を抱いてくれた向こうの顔を立てる為に、弁明をしておいた。
「大抵は、僕の失敗というか、デートで利用したレストランのメニューにアレルギー食品が使われていて、面倒な思いをさせてしまったりとか。日光アレルギーの所為で、日中は日傘を差さないと出掛けられないとか、そうした積み重ねが影響していって……だったんだよね。だから、向こうの所為とかじゃなくて、僕の気遣いが足らないのが行けなかったんだ。お店は全部予約したお店を利用するとか、デートする場所を屋内に設定したり、今日みたいに、会うのを夕方からにしてみるとか、もっと事前に対策したり、ガッカリさせる様な行いを避けたりしていれば、きっと……」
そこまで言い切ると、僕は、僕自身の意見に、自ら『否』を唱えた。
「………違うね。やっぱり、僕の性格や身体つきの問題だと思う。女性から見ると、どうあっても僕は、頼りなく見えるだろうから」
どれだけ鍛えても、どれだけ頑張っても、一向に筋肉が身に付かない、この身体。そういえば、律には、アレルギーの話はしていても、この体質の話はまだしていなかったな、と思って。一応、軽く説明をしておく事にした。
説明した所で何になるという訳ではないけれど、律には、知っていて欲しかったというか。これから先、スポーツクライミングに触れて行く上で、律とも一緒に練習する機会があるかもしれないから、その時に自分の体質の事を知ってくれていたら、何らかのアドバイスを受けられるかも……いや、恐れ多くてそんな機会があっても、どうかな。申し訳なくて、自分の方から断るかもしれない。僕なんかに付き合って、律の貴重な練習時間を削る訳にはいかないから。
今日、この日の様に。
「ホルモンの影響らしいんだけど、僕、遺伝的に、普通の人よりも筋肉が付き辛い体質で。それでいて、食べても栄養があまり身体に吸収されないハードゲイナーって体質でもあるらしくて……だけど、女性に向かって、こんな情け無い話出来る筈もなかったんだ。体質を逆手に取った、努力をしない言い訳にもなるしね」
それに、何より、この体質の事を女性に話したとしても、反感しか買わない恐れがあった。世界中のダイエッターが欲しがる体質を、両方とも生まれながらにして有している僕を見て、目尻を吊り上げて怒る、とまではいかなくても、内心穏やかではいられない人もいる筈だろうから。
「貴方が?何言ってるんですか。真澄さんは、そんな事を理由にして努力しない人じゃないでしょう。現に貴方は一生懸命にジムに通っていたんだし、今ではこうしてクライマーとしての才能を発揮してる。それが、努力の上に築かれた結果じゃないと言い張る人間がいたら、絶対に俺が相手になります。それが、例え貴方自身でも」
厳しく、鋭く、それでいて熱い眼差しを受けて、どきり、と胸が飛び跳ねる。まさか律が、僕を糾弾する仮想敵を自らの目の前に作り出し、こんな風に、僕の為に、僕の代わりに怒ってくれるなんて。そして、それだけでなく律は、僕の陰ながら積み上げてきた努力を認めて、其処に陽の光を当ててくれた。
それに、一体、どれだけ僕の心が救われただろうか。
この世界に、自分の努力を分かってくれる人が、一人でも居たら。その存在は、自分自身の存在の根底を支える礎にすらなるのだと、僕は、今日この日に、律に教えて貰えた。
その事実を前にして、改めて理解した。やっぱり律は、どうあっても僕にとっての憧れの存在であり、指針であり、目標であり、信仰の対象に近い存在なのだと。
あれ、でも、律にはジムに通っていた話はしていなかった筈なんだけど。いつ、僕がジムに通っていたという話を知ったんだろう。野崎先生からかな?先生にそんな話したかな?まぁ、そんなに重要というか、引っ掛かる話題でも無いから、別に良いか。
それよりも、律には感謝してもしきれない。こんな風に、自分の味方になると、言葉だけでなく態度でも示してくれる人は、出逢いたくても、そう簡単には出逢えないものだから。しかも、それが自分にとって、誰よりも特別視していた、憧れの存在……『推し』だという状況。僕は前世で、どれだけの徳を積んできたんだろうか。
自分の恵まれない様々な体質と秤に掛けても、充分過ぎるくらいにお釣りが出る。今度、両親と一緒にお墓参りに行こうかな。今の僕は、とても幸せでいます。だから、安心して下さいねって、天国にいるお祖母ちゃんに報告しなくちゃ。
「ふふ、ありがとう、律。じゃあ、もしも怖い人が現れたら、律の大きな背中に隠れちゃおうかな」
なんて、もしかしたら相手は女性かもしれないのに、男として、それは駄目ですよね。はい、酔っ払いの妄言で御座います、すみません。世の中に沢山いらっしゃる矢澤 律ファンの女性陣にも、本当の本当に申し訳ない。でも、本当に律の背中は広くて大きいから、悲しいかな、僕なんてすっぽり隠れられるんだよね……天に二物も三物も与えられた恵まれた容姿や体躯をしていて、同性として羨ましいという感情すら湧いてこない。律レベルになってしまうと、もう芸術作品みたいな物だからなぁ。鑑賞の対象というか、只管拝んでしまう礼拝する対象というか。
今はまだ難しくても、いつか、律にも素敵な彼女が出来て、その背中に、その彼女との間に出来た子供を背負う様になったりして。ふふ、そして、家族一緒にクライミングを楽しむ様になって、その子供がクライマーとして大会に出場する様になってさ……僕の推しが、いつしか、その子になって。ああ、それは凄く、豊かな想像だなぁ。
観客席から、コーチになった律に指導を受けるその子を応援する様になって。今日あった出来事や、この奇跡みたいな二週間を振り返りながら、僕は僕で、それなりの人生を生きる様になって。そんな未来があったりするんだろうか。
けれど、何故だろう。
そんな、どこまでも温かな未来についての想像を働かせても、全く胸が踊らないのは。
「………お互いに、ちょっと飲み過ぎましたね。そろそろお開きにして、寝ましょうか」
自分自身の胸の内に生まれた疑問を突き詰めて考えるよりも先に、律の硬質な声が、僕のアルコールが回っていた頭に冷水を被せた。はたり、と気を取り直して、目の前にいる律の顔を見ると、困った様な、身体の何処かに痛みを抱えている様な、不完全でちぐはぐとした笑みを浮かべた律の表情に行き当たった。
やってしまった。お酒の力を借りて、あまりにも調子に乗った態度を取ってしまった。男が、男の背中に隠れる構図なんて、律にとってみれば迷惑千万もいい所だろう。確かに守るとは言ったけれど、そんな意味で言ったんじゃなくてさ……という心の声が聞こえてきそうな、圧倒的かつ複雑な苦笑い。これはもう、律を前にして、年上面なんて絶対に出来ないな。
「ごめんなさい。僕、調子に乗ってた。これからは、もっと律の迷惑にならない様に気を付けるから……本当に、ごめんね。折角、良いお酒が飲めてたのに、最後の最後に台無しにして」
「……っ、真澄さん、そんなつもりじゃ……、待って、本当に、違うから」
しょんぼり、というか、もう既にお通夜の様相を呈している僕の様子を見て、律は、大慌てした様な声を上げた。僕が、その場で頭を下げようとしている気配を悟ったからだろう。優しい律は、それを知って、言葉だけではなく、僕の握り締めた右手を上から包み込む様にして掴んで、身体を使って僕を制止した。
「真澄さんは……ッ、貴方は、俺をどんな風に見てるか分かりませんけど、俺は貴方を相手にして、迷惑だとか、面倒だとか考えたりは、絶対にありません。誤解を招く様な態度や言動ばかり取って来たから、納得するのは難しいかもしれませんけど……それだけは、分かって下さい」
熱い手の平から、真摯な言葉遣いから、真剣な眼差しから、浅く早い呼吸から、律が僕に向けて持つ本心が伝わってくる。それを受けて、僕は、ぱしん、と頭を後ろから叩かれた様な衝撃を受けた。
僕は、ずっとずっと、矢澤 律という人を誤解していた。
義理や罪悪感や本来ある人間性を発揮して、こんな僕とも対等に話をしてくれている、優しい人。これまで、ずっとそんな印象を律に対して抱いていたけれど。それは、大きな間違いだったんだ。
律は、僕を、本当に、自分の人生の一部にしようとしてくれているのか。この先も、ずっと、共に歩んでいく友や仲間の一人であると、そう考えてくれているのか。
何も持っていない、何も成し遂げた事がない、こんな僕と。
「貴方を俺に守らせて下さい。この先も、ずっと、一番近くから」
そんな真似をして、貴方に一体どんな得があるの。
「先ずは、今日今晩から。それで、もしも俺を気に入ってくれたなら……貴方の一番近くにいられる権利を、俺に下さい」
一体、僕は、そんな貴方に、何を返して行けばいいの。
「かえ、せない」
「何を?」
「恩が、大きすぎて、何を返したらいいか、分からないの」
「俺が、したくてしてるのに?」
「それでも、……怖い」
「何が怖い?」
「幸せ過ぎて、怖い」
「ええ?………可愛い、何それ」
「死んじゃう………死んじゃうよ、僕」
「ああ、あー、もう、泣かないで。どうしよ、俺もどうしたらいいか分かんない。くっそ、滅茶苦茶可愛い。なんなの本当に、貴方って人は……」
「ごめん、なさい……ごめんなさい」
「違うんですよ、責めてるんじゃなくて……俺の方こそ、誤解を招く様な事を言って、すみません。えー、と……取り敢えず、ベッド行こうかなって思うんだけど、それでいい?……良いって言って、真澄さん」
それを、貴方が僕に望む事なら。それが、この大き過ぎる恩を返せる、第一歩になるのなら。
「………うん」
僕は、貴方の全てを、受け入れる。
何とか、律が居間に戻ってくる前に、自分の涙を止められた。ハンカチは一枚無駄にしてしまったけれど、沢山のティッシュを使って不審に思われても困ってしまうから、一応持ってきて置いて正解だったな、と胸を撫で下ろした。
あんな風に軽く突き放されただけで、こんな風にボロボロに泣き噦ってなってしまうなんて、僕は、我ながらなんて柔な性質をしているんだろう。律が呆れるのも当然だ。そして、社会人として、大人として、人との接し方がまるでなっていない僕は、叱責を受けて当然の立場にあると思えてならなかった。
あれから、五分以上は経過しているけれど、まだ律はキッチンから帰ってこない。律は優しいから、僕に対して必要以上に言葉を尽くさない様に自分をコントロールしようと、キッチンにいて頭を冷まそうとしてくれているのかもしれない。だとしたら、手伝いを申し出る為に、キッチンに向かうのは良くないのかな。でも、このままだと本当に上げ膳据え膳を受け入れる事になってしまう。それだけは、何としても避けたいのだけど……
と、そんな風に頭をぐるぐると悩ませていると、夕食の準備をする為にお盆の上に寿司桶とお茶の入った湯呑みを並べた律が、何の感情も読み取れない無表情のまま、それを持って居間に戻ってきた。
あ、と弾かれた様に小さく声を上げて、その場から立ち上がると、僕は慌てて律に向かって謝罪を口にした。
「ごめんなさい、お手伝いも何もしなくて…っ、あの、お片付けは絶対に僕がするから……」
泊まりがけでお邪魔しにきた者として、最低限のマナーは守らないと、と日頃からあまり強く意思表示をしない僕にしては固辞した言い回しをすると、律はその無表情を保ったまま、首を横に振った。
「いえ、お客さんにそんな事はさせられませんから」
「でも、僕……今日は本当に律にお世話になりっぱなしで。だから、せめて、自分の食べた物の後片付けくらいはしたいんだ。ただ、もしも、律のやり方があるからさせたくないっていうなら、そのやり方を横で見て覚えるから。一緒に片付けさせてくれないかな?」
食事の片付け一つを取っても、人それぞれ段取りや拘りがあったりもする。それを敢えて黙認して、上げ膳据え膳は気持ちが悪いからと勝手に手を出して、それを我慢させたままでいたら、その人のストレスになってしまう。良かれと思ってやっている事でも、ストレスは積み重ねていけば、いつしか人間関係に置ける負債として抱えていかなければならない問題となっていく。だから、例えお互いが気の置けない友人関係だったとしても、長く交流を続けていきたいのであれば、相手に対する気遣いをしていくのは必要不可欠だと僕は思っていた。
「俺には、片付けに関しての拘りなんてありません。だから、覚えて貰うことも、特別には……ただ、並んで片付けをするのは、賛成です。折角こうして一緒に居るんですから、貴方に背を向けて会話したりはしたくないですし」
にこり、と穏やかな笑みを浮かべて、僕の気持ちを汲んだ上で、優しさと労りとを同時に言葉にしてくれた律に、再び落涙しそうになる所を、グッと堪える。いま、ここで泣き出しでもしたら、また律に迷惑を掛けてしまう。それだけでなく、折角こうして、さっきまであったお互いの間にある気不味い空気をなかった事にしようと努力してくれている律の気遣いまでもが無駄になってしまうから。
「僕も、律と背中越しに話をするのは寂しいと思ってたから、嬉しい。ありがとう、律。僕の我儘に付き合ってくれて」
相手の人柄が良いからこそ、またこうして和やかに会話が出来ているのだと分かっていても、どうしてもホッとしてしまう。我ながら現金な性格をしているな、と思いながらも、事実は事実として受け止めて、律に向けて笑顔を見せた。そんな、人間的に見て欠陥を抱えている僕みたいな存在にも、慈悲を向けてくれる律の憂いになってはならないと思えたから。
「じゃあ、食事にしましょう。ここの寿司屋は生粋の江戸前寿司なので一貫一貫は小振りなんですが、味に関しては間違いないので、真澄さんも気に入ってくれたらいいんですけど……真澄さんのアレルギーのある青魚に関しては違う物にしてあるので、どうぞ、安心して召し上がって下さい」
「うん、気遣ってくれて、ありがとう。わぁ、一つ一つが宝石みたいに綺麗で、本当に美味しそうだね!頂きます」
こうして泊まりがけで遊びに行く話が纏まると、僕は、僕自身が、食品アレルギーを複数持っている事を事前に律に相談した。すると、律は気を利かせて、食べる物を目視で確認出来るお寿司をこうして選んでくれた。この国に生まれた人間として、青魚を始めとした魚介類や、香辛料にアレルギーを抱えているのは、ハッキリと死活問題だ。だから、外食をする時などは、本当に気が気じゃない思いをしなくてはならないのだけど。それ以上に、一緒に食事をする相手に申し訳ない気持ちになってしまうから、基本的にそうした誘いは断ったり、避けられる物は避ける様にしてきた。それによって、円滑な人間関係の輪から外れてしまうケースがあっても、相手に迷惑を掛けるよりは遥かにマシだと思ってきたから。
だから、律にも、これまでと同じ様に、食事は持参して行くよ、と話したりもしていたんだけど。
『もし何かあっても、俺が支えるから。真澄さんは、俺の為に、いつも通りの自分だけ用意していて』
……いやいや、可愛いだけじゃなく、男前でもあるって、一体どういう事なんですかね。やっぱり、国を挙げて、彼の保護活動に乗り出す必要があるんじゃないでしょうか。署名活動とか、誰かやってないかな。やってないなら、僕が始めようかな……嗚呼、でも、変な外圧が増えてしまって、律の負担になったら申し訳無いしな。悩ましい……
「どう?口に合いましたか?」
一口目から相手の『美味しい』を引き出そうとしてくる、若干せっかちな感じも、可愛いなぁ。律って、基本的に『待て』が出来ないんだよね……だけど、気持ちは何となく分かるよ。美味しい物は、共有したり共感し合ったりしたいものね。ただ、ごめんよ、律。一応、咀嚼だけはさせてね。
「うん、凄く美味しい。仕込みが丁寧でお魚の臭みが全然無いし、穴子のタレも拘って作ってるのが凄く伝わってくる。こんなに美味しいお寿司を食べたの初めてだよ。ありがとう、律。このお店を選んでくれて」
最初に食べた穴子を咀嚼し、こくんと飲み込んでから感想と感謝を口にすると、律の周囲が、ぱぁ、と光が差した様に明るくなった。無表情を出来るだけ意識しているみたいだけど、頬も微かに紅潮していて、全くといって喜色が抑えきれていない。何で、僕なんかの前で、そんな風に喜びの感情を抑え込んでいるのかは分からないけれど、そういう年頃なのかな、と思って、あまり気にしない事にした。
「いえ、気に入ってくれたなら、良かったです。美味しいのは分かっているんですけど、小さな頃から食べてるので、自分ではこの味に慣れ親しんでいて……正直、喜んで貰えるか不安だったんです。俺はいつも食べているので、俺には遠慮せずに、沢山食べて下さいね」
どんなに美味しい物も、小さな頃から食べ慣れてしまえば、それが当たり前になってしまう。だから、例えそれが自分の好物であっても、お客さんに出す時に、反応はどうかと緊張してしまうのは、考えてみれば当然だと思えた。
だけど、裏を返せば、それは。それだけ自分にとって大切にしている物を、目の前にいる相手と共有したいと思ってくれているのと同じ事だから。それだけ、律は、僕を自分の懐に入れて、僕を大切にしてくれているんだと分かって、胸が、じん、と温まった。
「うん、ありがとう。今度、僕の家に遊びに来てくれた時は、僕が小さい頃からお世話になってるお店の料理をご馳走するね」
「はい。楽しみにしていますね」
つい、二十分前まで、殺伐とした空気がこの場に流れていたとは信じられないくらいに、和やかに食事が進む。話していると、時折律が、思い出したかの様に表情を固くする時もあったりしたけれど。だから、まだまだ無理をしているのかな、申し訳ないな、とも思ったりしたけれど。その次の瞬間には直ぐに笑顔を取り戻したり、話の続きを穏やかに促してくれたりして、二十分前の時の様な、空気が凍りついてしまった様な不機嫌な様子を見せたりは決してしなかったから。僕は、律のそんな固い表情を目にしても、『気遣わせて、ごめんなさい』と口に出すのは、辞めておく事にした。この場の空気を穏やかな物にしようと努力している律に、申し訳ないと思ったから。そして、胸の内に罪悪感を抱えながらも、其れには目を向けない様に、僕自身も気を付けて、あれも美味しい、これも美味しいと感想を口にしながら食事を進めていくうちに、夕食はあっという間に終盤を迎えた。
「じゃあ、真澄さんって、いま付き合ってる人はいないんですか?」
律は身一つでいい、なんて言ってくれたけれど、その言葉を真に受けて手ぶらでお邪魔する訳にはいかない。だから僕は、生きる推しの口に入れるに値する取っておきのワインを、推しに直接お布施をするつもりで持参していた。その持参したワインが底をつき、新しく冷蔵庫から取り出した大吟醸の冷酒を二人で酌み交わしていると、律は、アルコールの影響を受けて、とろん、と熱を持った眼差しで、僕の顔を見つめた。
「うん、いないよ。というか、今まで一度も出来た事ないかな……良い雰囲気になる人は、偶にいたんだけどね。向こうから断られたり、自然と連絡を取らなくなる事が多かったかな」
「へぇ……」
姉カップルの話は、まだ前にも後ろにも進んでいない、という現状報告を終わらせてからの流れだったので、律の興味は次第に僕の方へと流れていったみたいだった。酒の席で、お互いに深い話をして行くと、こうした恋愛の話に発展する事はままあるので、律も年頃だしなぁ、と思いながらも、微笑ましい気持ちで話しに付き合う事にした。
「真澄さんみたいな人を逃すなんて、勿体無い人達ですね。見る目が無いにも程があるでしょ」
妙に辛辣というか、何だか、ケッと、吐き捨てる様な口調なのは、僕の気の所為だろうか。律は、優しいからなぁ。過去に振られた経験を重ねてきた僕の代わりに怒ってくれているのかもしれない。だとしたら、何とも有難い話だ。僕は家宝者だなぁ、と思いながらも、一応は、僕みたいな面倒な性質を持った人間に、一時でも好意を抱いてくれた向こうの顔を立てる為に、弁明をしておいた。
「大抵は、僕の失敗というか、デートで利用したレストランのメニューにアレルギー食品が使われていて、面倒な思いをさせてしまったりとか。日光アレルギーの所為で、日中は日傘を差さないと出掛けられないとか、そうした積み重ねが影響していって……だったんだよね。だから、向こうの所為とかじゃなくて、僕の気遣いが足らないのが行けなかったんだ。お店は全部予約したお店を利用するとか、デートする場所を屋内に設定したり、今日みたいに、会うのを夕方からにしてみるとか、もっと事前に対策したり、ガッカリさせる様な行いを避けたりしていれば、きっと……」
そこまで言い切ると、僕は、僕自身の意見に、自ら『否』を唱えた。
「………違うね。やっぱり、僕の性格や身体つきの問題だと思う。女性から見ると、どうあっても僕は、頼りなく見えるだろうから」
どれだけ鍛えても、どれだけ頑張っても、一向に筋肉が身に付かない、この身体。そういえば、律には、アレルギーの話はしていても、この体質の話はまだしていなかったな、と思って。一応、軽く説明をしておく事にした。
説明した所で何になるという訳ではないけれど、律には、知っていて欲しかったというか。これから先、スポーツクライミングに触れて行く上で、律とも一緒に練習する機会があるかもしれないから、その時に自分の体質の事を知ってくれていたら、何らかのアドバイスを受けられるかも……いや、恐れ多くてそんな機会があっても、どうかな。申し訳なくて、自分の方から断るかもしれない。僕なんかに付き合って、律の貴重な練習時間を削る訳にはいかないから。
今日、この日の様に。
「ホルモンの影響らしいんだけど、僕、遺伝的に、普通の人よりも筋肉が付き辛い体質で。それでいて、食べても栄養があまり身体に吸収されないハードゲイナーって体質でもあるらしくて……だけど、女性に向かって、こんな情け無い話出来る筈もなかったんだ。体質を逆手に取った、努力をしない言い訳にもなるしね」
それに、何より、この体質の事を女性に話したとしても、反感しか買わない恐れがあった。世界中のダイエッターが欲しがる体質を、両方とも生まれながらにして有している僕を見て、目尻を吊り上げて怒る、とまではいかなくても、内心穏やかではいられない人もいる筈だろうから。
「貴方が?何言ってるんですか。真澄さんは、そんな事を理由にして努力しない人じゃないでしょう。現に貴方は一生懸命にジムに通っていたんだし、今ではこうしてクライマーとしての才能を発揮してる。それが、努力の上に築かれた結果じゃないと言い張る人間がいたら、絶対に俺が相手になります。それが、例え貴方自身でも」
厳しく、鋭く、それでいて熱い眼差しを受けて、どきり、と胸が飛び跳ねる。まさか律が、僕を糾弾する仮想敵を自らの目の前に作り出し、こんな風に、僕の為に、僕の代わりに怒ってくれるなんて。そして、それだけでなく律は、僕の陰ながら積み上げてきた努力を認めて、其処に陽の光を当ててくれた。
それに、一体、どれだけ僕の心が救われただろうか。
この世界に、自分の努力を分かってくれる人が、一人でも居たら。その存在は、自分自身の存在の根底を支える礎にすらなるのだと、僕は、今日この日に、律に教えて貰えた。
その事実を前にして、改めて理解した。やっぱり律は、どうあっても僕にとっての憧れの存在であり、指針であり、目標であり、信仰の対象に近い存在なのだと。
あれ、でも、律にはジムに通っていた話はしていなかった筈なんだけど。いつ、僕がジムに通っていたという話を知ったんだろう。野崎先生からかな?先生にそんな話したかな?まぁ、そんなに重要というか、引っ掛かる話題でも無いから、別に良いか。
それよりも、律には感謝してもしきれない。こんな風に、自分の味方になると、言葉だけでなく態度でも示してくれる人は、出逢いたくても、そう簡単には出逢えないものだから。しかも、それが自分にとって、誰よりも特別視していた、憧れの存在……『推し』だという状況。僕は前世で、どれだけの徳を積んできたんだろうか。
自分の恵まれない様々な体質と秤に掛けても、充分過ぎるくらいにお釣りが出る。今度、両親と一緒にお墓参りに行こうかな。今の僕は、とても幸せでいます。だから、安心して下さいねって、天国にいるお祖母ちゃんに報告しなくちゃ。
「ふふ、ありがとう、律。じゃあ、もしも怖い人が現れたら、律の大きな背中に隠れちゃおうかな」
なんて、もしかしたら相手は女性かもしれないのに、男として、それは駄目ですよね。はい、酔っ払いの妄言で御座います、すみません。世の中に沢山いらっしゃる矢澤 律ファンの女性陣にも、本当の本当に申し訳ない。でも、本当に律の背中は広くて大きいから、悲しいかな、僕なんてすっぽり隠れられるんだよね……天に二物も三物も与えられた恵まれた容姿や体躯をしていて、同性として羨ましいという感情すら湧いてこない。律レベルになってしまうと、もう芸術作品みたいな物だからなぁ。鑑賞の対象というか、只管拝んでしまう礼拝する対象というか。
今はまだ難しくても、いつか、律にも素敵な彼女が出来て、その背中に、その彼女との間に出来た子供を背負う様になったりして。ふふ、そして、家族一緒にクライミングを楽しむ様になって、その子供がクライマーとして大会に出場する様になってさ……僕の推しが、いつしか、その子になって。ああ、それは凄く、豊かな想像だなぁ。
観客席から、コーチになった律に指導を受けるその子を応援する様になって。今日あった出来事や、この奇跡みたいな二週間を振り返りながら、僕は僕で、それなりの人生を生きる様になって。そんな未来があったりするんだろうか。
けれど、何故だろう。
そんな、どこまでも温かな未来についての想像を働かせても、全く胸が踊らないのは。
「………お互いに、ちょっと飲み過ぎましたね。そろそろお開きにして、寝ましょうか」
自分自身の胸の内に生まれた疑問を突き詰めて考えるよりも先に、律の硬質な声が、僕のアルコールが回っていた頭に冷水を被せた。はたり、と気を取り直して、目の前にいる律の顔を見ると、困った様な、身体の何処かに痛みを抱えている様な、不完全でちぐはぐとした笑みを浮かべた律の表情に行き当たった。
やってしまった。お酒の力を借りて、あまりにも調子に乗った態度を取ってしまった。男が、男の背中に隠れる構図なんて、律にとってみれば迷惑千万もいい所だろう。確かに守るとは言ったけれど、そんな意味で言ったんじゃなくてさ……という心の声が聞こえてきそうな、圧倒的かつ複雑な苦笑い。これはもう、律を前にして、年上面なんて絶対に出来ないな。
「ごめんなさい。僕、調子に乗ってた。これからは、もっと律の迷惑にならない様に気を付けるから……本当に、ごめんね。折角、良いお酒が飲めてたのに、最後の最後に台無しにして」
「……っ、真澄さん、そんなつもりじゃ……、待って、本当に、違うから」
しょんぼり、というか、もう既にお通夜の様相を呈している僕の様子を見て、律は、大慌てした様な声を上げた。僕が、その場で頭を下げようとしている気配を悟ったからだろう。優しい律は、それを知って、言葉だけではなく、僕の握り締めた右手を上から包み込む様にして掴んで、身体を使って僕を制止した。
「真澄さんは……ッ、貴方は、俺をどんな風に見てるか分かりませんけど、俺は貴方を相手にして、迷惑だとか、面倒だとか考えたりは、絶対にありません。誤解を招く様な態度や言動ばかり取って来たから、納得するのは難しいかもしれませんけど……それだけは、分かって下さい」
熱い手の平から、真摯な言葉遣いから、真剣な眼差しから、浅く早い呼吸から、律が僕に向けて持つ本心が伝わってくる。それを受けて、僕は、ぱしん、と頭を後ろから叩かれた様な衝撃を受けた。
僕は、ずっとずっと、矢澤 律という人を誤解していた。
義理や罪悪感や本来ある人間性を発揮して、こんな僕とも対等に話をしてくれている、優しい人。これまで、ずっとそんな印象を律に対して抱いていたけれど。それは、大きな間違いだったんだ。
律は、僕を、本当に、自分の人生の一部にしようとしてくれているのか。この先も、ずっと、共に歩んでいく友や仲間の一人であると、そう考えてくれているのか。
何も持っていない、何も成し遂げた事がない、こんな僕と。
「貴方を俺に守らせて下さい。この先も、ずっと、一番近くから」
そんな真似をして、貴方に一体どんな得があるの。
「先ずは、今日今晩から。それで、もしも俺を気に入ってくれたなら……貴方の一番近くにいられる権利を、俺に下さい」
一体、僕は、そんな貴方に、何を返して行けばいいの。
「かえ、せない」
「何を?」
「恩が、大きすぎて、何を返したらいいか、分からないの」
「俺が、したくてしてるのに?」
「それでも、……怖い」
「何が怖い?」
「幸せ過ぎて、怖い」
「ええ?………可愛い、何それ」
「死んじゃう………死んじゃうよ、僕」
「ああ、あー、もう、泣かないで。どうしよ、俺もどうしたらいいか分かんない。くっそ、滅茶苦茶可愛い。なんなの本当に、貴方って人は……」
「ごめん、なさい……ごめんなさい」
「違うんですよ、責めてるんじゃなくて……俺の方こそ、誤解を招く様な事を言って、すみません。えー、と……取り敢えず、ベッド行こうかなって思うんだけど、それでいい?……良いって言って、真澄さん」
それを、貴方が僕に望む事なら。それが、この大き過ぎる恩を返せる、第一歩になるのなら。
「………うん」
僕は、貴方の全てを、受け入れる。
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