〜からだがつよいひと〜虚弱体質の僕が、最推しに最高の生き方と恋を教えて貰えた話

鱗。

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最終章 『最愛』

第三話 俺、死ぬほど重い男ですから

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手を引かれて案内された寝室に足を踏み入れた瞬間に、僕は、暗がりの中、律の腕の中にすっぽりと包み込まれた。その厚い胸板に、その逞しい腕に、自分自身の枯れ枝の様な身体が、ぽっきりと手折されてしまうんじゃないか、という恐怖をほんの少しだけ感じたけれど。それを上回る圧倒的な安堵感に身を包まれて。僕は、ギュッとその目を閉じてから、まるで、そうとするのが通過儀礼だと信じ込んでいるかの様な従順さで、律の胸に頬を寄せた。


暫くの間、どくどく、という、肋骨の内側を激しく打つ律の心臓の音に耳を澄ませていると、ズボンの布越しに膨らんだ熱い塊が、僕の下腹部にごり、と押し当てられた。それに、どきり、と自分自身の心臓が飛び跳ねる感覚を得て、身体を硬直させたのだけれど。こんな序盤でいちいち躊躇してしまっては、恐らくこうした経験が多いだろう律の気を削いでしまうだろうと思ったから。きゅ、と唇を噛み締めて、襲いくる羞恥心を初めとした様々な感情をやり過ごした。


「………怖い?」


耳元で囁かれた、ベッドに向かう前の最後の確認を取ろうとしてくる律の、興奮で微かに掠れたその問い掛けに、何と答えるのが正解なのか、分からない。僕は、本当に経験らしい経験がなくて、それも相手は女性ばかりだったから、こんな場面に立たされてしまうと、どうしたらいいか、さっぱり見当が付かなかった。


「こわ、くない」


だから、全身を緊張と恐怖と興奮で震わせながら、真っ赤な嘘だというのが分かり易い返事を口にして、下を向いた。


律は、そんな僕を腕の中に収納したまま、暫く無言で僕の反応を伺っていた。返事を貰えても、こうまで態度が硬化していては、本当の意味での合意が得られたとは言えないと思ってくれているのかもしれない。優しくて気遣いに溢れた人だから、その方が自然だ。年上なのに、情け無い。此方の方面についての経験値が不足しているからといっても、僕なんかに本当に、こんなに大人の対応をしてくれている律の一晩の相手が務まるんだろうか。


こうして誘われたからには、一応は、律のお眼鏡に叶ったという事なんだろうけど。僕のどの辺りが律の心の琴線に触れたのかが気になって仕方がなかった。


「僕、ほ、ほんとに、経験が無くて。だから、律が満足してくれるかは分からないけど……精一杯、頑張るから、よろしくお願いします」


とはいえ、その疑問を解消する為に、この期に及んで愚問を口にしようとは思わなかった。僕の中の何処かしらに勃つ要因があったから、する。身体の中に熱が生まれたから、それを発散する。それだけを理由として行為に及べるのが男の本質だから。いちいち、理由に重きを置いて考えたりはしない。だけど、それで良いし、それが良い。


でなければ、今後、僕達が友人として一緒に過ごしていく上で、間違いなく障りがある。


態々、説明されてはいないけれど、律は、恐らく、性的マイノリティに属した人なのだろう。それが、ゲイなのか、バイなのかは分からないけれど、普通の人間よりも、圧倒的な生き辛さを感じながらこれまで過ごしてきたのは間違いない筈だ。だとしたら、その発散したくてもなかなか相手らしい相手が見繕えない不便さを抱えたまま、ある種のスポーツの一環として相手になる人間を探していた可能性は高い。僕の他に、どれだけの相手がいるかは分からないけれど、口の硬さや身体の相性等々を総合的に考えた場合、新しい相手を発掘する事は、そう簡単ではないだろう。その相手になれる可能性を、律が僕の中に見つけたのだとしたら、僕は、その期待に応える為に、どれだけの努力もしてみせるつもりでいた。


けれど、律は、そんな僕の強い意志や決心が込められた返事を受けると、ふふ、と微かな笑声を上げた。そして、僕の背中を、優しく、一定のリズムで、ぽん、ぽん、と叩き、熱くて堪らない、恐らくは真っ赤になっているだろう僕の耳輪の部分に音を立てて唇を落としてから、ゆっくりと言い聞かせる様に、言葉を紡ぎ始めた。


「頑張るとか、一生懸命にとか、そんな努力する必要無いんですよ。俺は、貴方が貴方らしくいてくれたら、それだけで良いんです。そして、それが、俺の隣だったら、尚更……それ以上望む事はありません」


言われた事の意味が分からず、思わず、律の胸元に落としていた視線を上げると。暗がりの中、ただただ静かに、それでいて穏やかに僕の顔を見つめる、律の視線に行き当たった。


その、誰よりも愛しい者を、何よりも大切な物を見守るその眼差しを受けて。さっきまで、身体の中でぐるぐると渦巻いていた物とは、全く種類の違う熱が、ぐわん、と身体中を駆け巡っていた。


「今日は、このまま一緒に寝ましょう。貴方の気持ちを考えると、その方がいい。意地になってる自覚はあるんですけどね……だけど、俺にも譲れないものがあるので」

「……それって、何?」

「簡単に考えて欲しくないんです。貴方自身についても、俺自身についても、俺の気持ちに対しても」


ばくばく、どきどき、と。触れられている場所全てが鼓動しているかの様な。自分の身体が自分の物じゃなくなってしまったかの様な。生まれて初めて体感する、その感覚に身悶えて。


だけど、僕の身体は、彼の腕の中に、がっちりと固定されているから。この場所からそそくさと逃げ出して、自室に篭って一人、わぁわぁと喚き声を上げて布団を被るという現実逃避行動には、どうあっても移れなくて。


「俺、死ぬほど重い男ですから」


僕は、律に対して酷い勘違いをしていた事実を思い知った。そして、自分自身の感情や、律に向ける本当の気持ちに関しても、同時に。


「ただ、俺の物になった自覚があるなら、見える所に印だけは付けさせて。何処が良い?場所だけは選ばせてあげる」

「……それは、でも」

「駄目?何で?理由は?……貴方危なっかしいんですよ。俺の目に入らない場所でふらふらされたら、試合にも練習にも身が入らない。それでも良いの?」

「っ、やだ、それだけは、ダメ」

「なら選んで。それで、此処に付けてって、自分から俺にお願いして」


律にとって、何処までも都合の良い存在なら、ずっと一緒にいても、重荷にならないと思っていた。だから、出来るだけ軽い存在でいようと、それで良いしそれが良いと、自分自身を誤魔化していた。でも、僕の本心は。本当の気持ちは、それとは真逆の位置に存在していたんだ。


「僕も、付けたい。律に、僕の印」


自分がどんな台詞を吐いたのかを、虚を突かれた様な表情を浮かべる律を見て、初めて確認する。けれど、その表情をこの眼に映しても、僕の胸の内に、目立った後悔は存在していなかった。律は、突如として、何の予備動作も予兆もなく自分の欲求を口にした僕に対して、チェシャ猫の様に満足げな笑みをにんまりと浮かべると、僕を自分の腕から解放して、その場で着ていたTシャツを何の躊躇もなく、がばり、と脱ぎ捨てた。


そして、その輝かしい肢体に一瞬にして目を奪われた僕に向けて、しなやかな動きで首の筋を伸ばし、首を傾けると、剥き出しの首筋を人差し指で、とんとん、と叩き、自己主張と共に合図を送り、挑発的な眼差しで僕の顔をジッと見つめた。


『出来るもんなら、やってみろよ』


言わずとも伝わってくる、強烈な意志。その意思を内包するに相応しい、鋼鉄の様に頑強なその身体。神々がこの世に産み落とし、矢澤 律という希代のクライマーが、幼き頃から只管に自分自身で磨き上げてきた、類稀なる芸術作品。


『生ける国宝』


と、例えられるその身体に、曲がりなりにも傷を付ける覚悟がお前にあるのか、と無言のまま問い掛けてくる律に。僕は、思わず息を呑んだ。


自分の意思を口にはしたものの、あからさまに尻込みしている僕を見て、律は、くつくつと面白そうに無邪気な笑みを浮かべた。けれどそこには、このまま僕の意思を蹴散らしてやろうといった鬱屈した想いも算段も何も無く。ただただ、事実を事実として受け入れ、そんな自分と正面から向き合うだけの覚悟が僕に備わっているのか見定めてみたいという、純粋な思いがある様に思えた。


そうして、僕は、王者の孤独とは何たるかを、本当の意味で、まざまざと思い知ったのだった。


『俺、死ぬほど重い男ですから』


先程掛けられた言葉の意味を、真意を理解して。ぶるり、と全身を戦慄かせる。


スポーツクライミングという競技全体を牽引する絶対王者……矢澤 律という選手と共に生きていくという事は、その隣を生きるという事は、どういう意味なのか。その覚悟が果たして本当にあるのか。


生き方そのものの選択を迫られた僕は、それでも、散り散りになりそうになる自分の意思を掻き集めて、律に向けて、自分に出来うる限り可能な不敵な笑みを浮かべた。


律に貰った高校時代から着ていたというTシャツを脱ぎ払い、それを自分の足元に、音も無く脱ぎ捨てる。そして、僕と同じく半裸の状態で、ジッと此方の様子を伺っていた律の前に歩み出た。


自棄になった訳でも、この場の勢いに任せた訳でもない。僕は、これでいて、残酷な人生の選択を何度となく迫られた経験の持ち主だ。だからこそ、理不尽な状況に陥ってしまう事自体に慣れていたし、これでいて精神的なタフさに掛けては、相当な自信がある方だった。


生まれた頃から、陽の光を出来るだけ浴びてはならないという重い十字架を背負って生きてきた。そして、自然に生きる生き物に許される食事という欠かせない行為に対しても、ずっと足枷をされて生きている。その十字架と足枷は、死ぬまでずっと取り外す事は出来ない上に、治療方法も確立されておらず、完全なる対処療法に任されている。


そんな僕の、抜けられない暗いトンネルは、終わりが無い。そう、僕は律に対して、其方の方こそ、僕の人生を共に生きていく覚悟はあるのかと、無言のまま問い掛けていたのだ。


『其方こそ、出来るものなら、やって見せてよ』……と。


僕の真意を理解した律は、先程の僕と同様に、目を見開いて息を呑み、その場にぴたりと硬直した。しかし、それから程なくして。僕の顔を、この細い身体を確認する様にして視線を走らせると、深い深呼吸を一つして天井を仰ぎ見てから、自嘲するかの様に微かな笑みを浮かべ……僕に向けて、深く頷いてみせた。


その頷きを目にした瞬間に、僕の片目から、涙が一筋、零れ落ちた。そして、向かい合わせになっている律の反対の目からも、同じタイミングで、涙が一筋、零れ落ちた。


身長も、体質も、何もかも正反対で、何もかも違うのに。僕は、君以上に、僕にそっくりな人に、出逢った事がない。


大切な人の為なら、自らの生き方すらも模索してしまう、不器用さも。


大切な人の為なら、自らの気質を刃に変えてしまう、純粋さも。


全部全部、見れば見るほど、そっくりだ。


ねぇ、律。僕達は、もしかしたら、最初から二人で一つの存在だったのかもしれないね。


だから、そんな僕達が惹かれ合うのは、自然の摂理なのかもしれない。


僕は、律に向けて、見せつける様にして自分の首筋を曝け出すと、挑戦的な眼差しで律の両眼を射抜きながら、自分の首筋にある動脈を人差し指で、とん、と叩き、緊張と僅かな興奮で乾いた唇を舌の先で舐めた。


すると、それを合図にして、目の前にいた律が、俄に動きを見せた。


律は、僕の身体を下から掬い上げる様にして軽々と抱き上げると、その抱き上げた格好のまま、僕の唇にぴたりと照準を当てて喰らい付き、呼吸を奪うかの如く、深く深く吸い上げた。


突然の出来事に、それでも僕の中に、目立った驚きは存在せず。それをごく当たり前の反応として受け止めると、僕は、律の腰に脚をしっかりと絡ませて体勢を固定して、律の頭を抱え込み、その髪を、ぐしゃり、と掻き混ぜた。


お互いの呼吸を奪い合う、激しくも荒々しい、獣じみたキスをしながら、律は移動を開始した。そして、壁際にあるシングルベッドに僕の身体を押し付ける様にして下すと、そのまま僕の身体の上にのし掛かり、おもむろに剥き出しの首筋を動脈の流れに沿って舐め上げていった。


「……っ、ぅ、……あ……ッ、」


舌先が、敏感な肌膚の上を這うぬるぬるとした感触に、喉を引き攣らせる。そして、言葉にならない微かな呻き声を上げた瞬間に、律は、僕の首筋にぴったりと唇を押し当て、其処に深く吸い付いた。其処は、僕が、律に向けて挑戦的な眼差しを向けながら人差し指で指し示した場所だった。


奪われたのか。
与えられたのか。
確かな喪失感と充足感を感じて。


悲哀と歓喜の、相反する様でいて、胸の内側で違和感なく両立する感情を、眦から次から次へと生み出していった。


首筋にくっきりと刻まれた所有印は、例え、その色が褪せてしまってからも、これからも僕の人生における楔となって、確かに遺り続けるだろう。そしてそれは、これから僕が僕の意志を持って、律の首筋に打ち込む其れと同等の重みを携えている。


奪うだけでなく、与える覚悟を。
与えるだけでなく、奪える勇気を。


「………っ、は……」


髪を掴み、頭ごと首筋を自分に向けて、ぐい、と引き寄せ、僕に向けて挑発的な笑みを浮かべながら、律が人差し指で指し示した首筋の静脈の薄い皮膚に、深々と喰らい付く。そして、その肌膚を強く、強く、吸い上げて、国の宝として、律個人の意志が介在出来ないまでの存在として扱われるその輝かしい肢体に、くっきりとした所有印を刻み込んだ。


罪悪感はない。ただ、その代わり、目立った様な達成感や高揚感もない。


けれど、それを身体に刻まれた瞬間の律の表情は、堪らないものがあった。


「……ありがとう」


独裁者の圧政から解き放たれた歓喜に沸く国民の涙。冤罪を掛けられた囚人が、最後まで共に戦ってくれた弁護人に向ける死刑執行日前夜に向けた感謝の笑み。


歓喜と絶望。


喪失だけでなく充足も同時に感じている、深い深い感情を内包した、律の泣き笑いは、まるでこの先に続く、果てしなく長い長い僕達の人生を暗示しているかの様だった。


「………この身体を、俺の手元に取り戻してくれて、ありがとう」


この先、律は、数多ある困難を乗り越えて行かなければならない。国の宝であるその身体に、自分勝手な理由で所有印を刻んだ事により、これまで持て囃してきた人々から手の平を返され、糾弾の対象となっていく可能性すらある。そして、その相手は果たして誰なのかとマスコミに連日連夜追い掛けられ、彼らの飯の種や、ゴシップ好きな連中の興味関心の対象として消費される存在となっていくかもしれない。


しかし、それでも律は、僕と一緒に生きていく道を選んでくれた。そして、そんな極悪非道な行いをした僕に、心の底からの感謝を口にした。


自分を解放してくれて、ありがとう、と。


「此方こそ、ありがとう。これからも、よろしくね、律」

「はい、宜しくお願いします」


悪戯が成功した子供の様に、お互いのおでこをくっ付けて、くすくすと笑い合う。しかし、この部屋を、この家を一歩出たら、辛い現実が待ち受けているかもしれない。だから、こうして穏やかに笑い合っていられるのは、今この一時だけになるかもしれなかった。


それでも、僕達は、手と手とを握り締め合って、片時もその手を離さないと、心に決めていた。例えこの先、どんな困難が待ち受けていても。


僕達は、それでも二人で、生きていく。


これからも、この先も、ずっとずっと。

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