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2話目 ~トマトの誘惑~

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 突然の雨にあい、目に入った建物の軒先を借りてスーツに着いた水滴を落とす。ハンカチもびしょ濡れになったが仕方ない。

 ――この時期に雷雨とは珍しい。

 そう思い、傘を用意しなかった今朝の自分を恨めしく思う。母の言うことを聞いて、折り畳み傘くらい持ってくればよかった。
 まあ、俺は常に母に反発しているのだから、どのみち持ってくることはなかっただろうし、コンビニで買えばすむ話だ。
 それくらい母との関係は冷え切っており、距離も置いていた。
 そろそろ家を出ようとも考えている。

 この町には商談で来た場所なのだが、担当者との雑談ついでに神社があると聞いたので来たものの、曲がる道を一本間違えて見事に迷子になった。道を聞こうにも不思議と人がおらず、店も見当たらない。
 困ったと思った時に見つけたのが、今いる軒先だった。繩暖簾がかかっているからなにかしらの店だろうが、案内板などもないことから、どんな店なのかわからない。
 見事な造りの日本家屋と藁葺き屋根で、常に綺麗にしているのか藁も真新しい。まるで某アイドルが修復した藁葺き屋根のようだ。
 ただし、家屋も屋根もこちらのほうが立派だが。
 隙間からちらりと見えた庭も立派で、真っ赤なトマトが目に入る。
 そういえば最近、祖父母が作るトマトを食べていないことに気づいた。
 祖父母が作ったトマトはとても甘く、冷やして食べればそれだけで充分おやつになるくらいだったのに。

 体調を崩したとは聞いていないし、病気だとも聞いていない。
 それとも、腰や腕を痛めたのだろうか。

 心配ではあるが、三十も半ばを過ぎたサラリーマンの俺にはどうにもできない。本当は某アイドルの番組を見ていて、自分も農家をやりたいと思っていたはずなのに。
 母が猛反対しなければ、今ごろ祖父母と一緒に農家をやっていたはずなのにと、今さらなことを考えて溜息をついた。

「あの、よかったら中に入りませんか?」
「え?」

 カランカランとカウベルの音がしたかと思うと、男なのか女なのかわからない声がした。そちらに振り向くと、ドアから白髪赤目の人が顔を出し、手に持っているタオルを差し出してくれていたのだ。
 顔も中性的で、男女どちらかわからない。

「ああ、これは申し訳ない……」
「いいえ。当分止みそうにありませんから、よろしければ中でコーヒーをどうですか? 体が温まるようなスープもございますよ」
「そうですね……そうさせてください」

 確かに雨に濡れて寒くなっている。もうじき秋だというのに、真冬のような寒さの雨だった。
 風邪をひいても困るからと、声をかけてくれた人のあとを追って店内に入る。
 すると中は喫茶店なのか、それとも雑貨屋なのかわからない造りで、いろいろなものが置かれていた。しかも野菜や駄菓子まで売っているのだ。

 ――駄菓子とは懐かしいなあ……。

 それにトマトも赤々艶々していて、とても美味そうに見える。帰りに買って帰ろうか。
 案内された席に着くと、左目のところに傷がある男がおしぼりと水、メニューを持ってきた。
 そして白髪の人は胸の膨らみがあることから、女性だとわかった。危うく失礼なことを聞くところだったが、どうして男が着るような着物を着ているのか不思議でならない。
 きっとなにか事情があるんだろうと思いつつ、メニューを開く。
 写真とともに料理名が書かれていて、なかなか美味そうだ。そしてメインとなるものから副菜、サラダもある。
 その中にトマトサラダを見つけたので、思わずメニューを捲る手を止める。
 櫛形に切られただけのシンプルなサラダなのに、妙に心惹かれた。
 そしてアラビアータやトマトジュースなど、先ほど祖父母を思い出したからなのか、どうしてもトマト関連の料理に目がいってしまう。

 ――そういえば、トマトを食べたのはいつぶりだったかな……。

 よくよく考えると、コンビニやスーパーで売られているサラダにはトマトが入っていないことが多いよなあ……と気づく。
 母に至っては、料理は冷凍食品や惣菜が多いのだ。
 それが悪いとは言わないが、せめて手料理というものが食べたかったし、母の味は冷凍食品だというのも恥ずかしいと感じていた。
 それに気づいてしまうとどうしてもトマトが食べたくなり、お腹もすいていたことからトマトサラダと魚介のアラビアータ、カフェラテを頼む。
 トマトジュースも心惹かれたが、寒さには勝てなかった。
 料理がくるまでの間に店内を見回すと、猫が三匹いた。だが、猫カフェというわけでもなさそうだし、それにしては数が少なすぎる。
 思い出したように借りたタオルで頭やスーツを拭いていると、先ほど案内してくれた女性がきた。

「せめて、スーツの上着だけでも乾かしていきませんか? 貸していただければ私が乾かしますから」
「いいんですか?」
「ええ。ご覧の通り、今はお客様もいらっしゃいませんし。あと、これでスラックスも拭いてください」
「お手数てすうをおかけしてすみません。ありがとうございます」

 不思議な雰囲気を醸し出す女性だなあと考えつつ、濡れたスラックスのところを拭く。とても吸水性がいいタオルのようで、あっという間に水の染みがなくなった。

 ――これは凄い。肌触りも柔らかさも抜群じゃないか。

 きっと、タオルの町で有名なところのものだろう……なんてことを思いつつ、使い終わったタオルを畳んでテーブルの角に置く。

「お待たせいたしました。ごゆっくりどうぞ。こちらは下げさせていただきますね」

 そこにトマトの香りとコーヒーの香りがすると、目の前には注文した料理が並べられると同時に、タオルを持って下がる男。
 真っ赤なトマトと、別の小皿にマヨネーズと塩。粒が粗いから粗塩なのだろう。
 そしてアラビアータは魚介がたくさん入っていて、食べ応えがありそうだ。
 食器は箸でもフォークでも大丈夫なよう、両方用意されている。自分は箸で食べることが多いからと箸を選んだ。
 まずはパスタからと一口食べる。トマトの酸味と甘味、そして魚介から出汁が出ているのか、とても複雑な味がした。

「美味い!」
「ありがとうございます」

 嬉しそうに返事をしたのは男のほうだった。そして白髪の人も嬉しそうに笑みを浮かべ、目を細めている。
 魚介が入っているからなのか猫たちが少しだけ反応したようだが、男が「おたまたちには、さっきあげたばかりだろう?」と声をかけると、不満そうに「にゃあん」と鳴いた。
 そんな光景にクスリと笑い、今度は魚介と一緒に食べる。そして箸休めにトマトを一切れ食べてみて、その味に衝撃を受けた。
 祖父母が作っているトマトの味に、とてもよく似ていたからだ。
 フルーツトマトのようにとても甘いトマト。種も思っていたより青臭くなく、とてもマイルドだ。
 完熟しているであろう色艶なのに、適度な硬さがあるトマトは、本当に祖父母が作っていたものとそっくりだった。

 ――ああ……やはり、母の反対を押し切ってでも農家をやりたかったなあ……。

 俺もこんな野菜を作りたかったんだと改めて感じると、やるせなくなってくる。
 まだ三十半ばを過ぎた年齢だ。今からでも間に合うだろうか?
 できれば農業大学を出てからがよかったが、今から大学に入ってからとなると、祖父母が生きているかわからない年齢に差し掛かってしまった。
 この歳まで生きてくれた祖父母は、もう九十近かったはず。やはりもっと若いうちに、そして祖父母に習いながら農家をやりたかったと後悔してばかりだ。

 小さく溜息を吐くと、食事を再開する。そして懐かしい駄菓子を選び、トマトを買う。
 傘もあったので買おうと思ったのだが、窓から外を見れば雨が止んでいたので、買うことはしなかった。

「乾きましたよ」
「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして。きっと、自分の思い描いた通りになると思いますよ?」
「え?」

 不思議なことを言う女性に首を傾げたものの、女性はそれ以上のことはなにも言ってはくれない。
 そんなはずはないと、どこか諦めにも似た溜息をつくと女性から上着を受け取り、その場で着させてもらう。そして買ったものを鞄と一緒にぶら下げると外に出た。
 空を見上げれば早く流れていく雲の隙間から、天使の梯子が下りている。
 これなら雨はもう降らないだろうと繩暖簾を潜り、軒先から出た。
 料理はとても美味かったし、またこの町に商談にきたらまた何か頼もうと後ろを振り返ってみれば、そこにあったのは鬱蒼と茂った森があるだけで、とても驚く。

「え……? そんな、たった今まで……」

 レシートをもらったはずだと財布を見れば、確かにレシートがある。
 だが、そこには店の名前や電話番号などの情報はなく、なにを食べたかとその金額しか書かれていなかった。
 夢でも見たような気分だと不思議な気持ちになったが、自分の腹は膨れているのだ。
 まるで狐につままれたみたいだと思いつつ、その場から離れる。だが、一歩進むごとに視界がどんどん低くなる。
 まるで若返っているかのように。

 ――そんな、はずは……!

 大通りに出た頃には服装も変わり、短パン半袖の格好になっていた。そして視線の先には祖父母と、母と離婚した父と、父と一緒に行った姉の姿が。

 ――ああ、そうだ。両親が離婚する時、俺も父親についていくと言ったのに、母に無理矢理連れていかれたんだった。家庭裁判所でもそういう決定がなされていたのに母はそれを破り、違約金を払ったんだっけ。

 それからだ、母は俺を束縛するようになったのは。元は母の浮気による離婚で、家庭内のことも父や姉、俺が手伝っていた。
 仕事に行くわけでもなくパートに出るでわけでもない母は、父の金を使って遊んでいるだけで、いわゆる浪費癖が酷い人だった。
 どうしてそれを忘れていたんだろう?
 そして、どうして俺は若返ったんだろう?

「ここにいたのか! アイツに連れていかれたのかと心配した!」
「ううん、道に迷っちゃって……」
「そうか……。それならよかった。いや、よくないな。今度はきちんと手を繋ごう」
「うん!」

 ああ、そうだ。母と一緒に暮らしていたというのは、きっと悪い夢だったんだ。
 だってこうして、優しい笑みを浮かべた祖父母や父、姉がいるのだから。
 確か揃って旅行に来て神社でお参りしたあと、気になるものを見つけてはぐれてしまったという〝記憶〟が蘇ってくる。

「お土産を買ってそろそろ旅館に行くぞ」

 祖父の言葉に全員で頷き、父の運転で大きな旅館に行った。

 それからずっと祖父母の家で暮らし、父と一緒に畑の手伝いをした。
 そして農業大学へと進学し、一度農業試験場に就職。そこで五年ほど勉強をして、祖父母の家に帰ってきたのだ――農家をやるために。
 形の悪いものは畑の端っこにある建物に持っていき、そこで安く販売している。
 店には出せないが味は変わらないし、ご近所の人やたまたま通りかかった人が買っていってくれるのだ。
 味が濃厚だからこそ、リピーターが来てくれるのもありがたい。

「すみません、トマトときゅうり、ナスが欲しいんですけど、ありますか?」
「ありますよ! もぎたてなんです」
「わ~、いい香り! ここで作られたお野菜はどれも美味しくて、ついリピートしちゃうんですよね~」
「ありがとうございます!」

 突然話しかけられで顔を上げると、帽子を被った人がいた。この暑い最中に長袖を着て暑くないのか? と思ってみれば、その人は白い髪と赤い目をしていた。
 その姿に、どこかで見たことがあるような気がして思いだそうとするものの、どうにも霞がかかったように思い出せない。
 そのうち思い出すだろう――なんてことを考えているうちに、その人は籐で編まれた籠に野菜を入れ、自分にそれを渡す。

「これでいくらになりますか?」
「あ、ああ、すみません。これですと――」

 今は商売中だと気持ちを切り替え、籠の中に入っていた野菜を確認してから値段を告げる。それを聞いた白髪の女性は、にっこり笑って支払い、籠を持って離れた。
 近くにいたのは黒髪で左目に傷がある男が、待っていた。

 ――そうだ、小さい頃に見た夢の中の人にそっくりなんだ。

 彼らが帰ってから思い出したのは、俺が迷子になった時に見た白昼夢。
 いや、あれは夢じゃない。きっと彼らはあの神社に祀られている神様で、俺の願いを叶えてくれたに違いない。

 きっとそうだとなんとなく確信したものの、すぐに近隣の人が殺到して、考えている暇もなくなってしまった。
 そして日々生活しているうちに、今度またあの場所に行って、お礼をしてこようと考える。
 俺が今祖父母や父の手伝いをしていられるのは、きっとあの神社に行ったおかげだと思うから。
 今日にでも提案してみようと考え、また畑に精を出すのだった。

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