癒しの聖女、その泪が枯れ果てる時

風信子 紫

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最終話 その涕が生まれ出づる時

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 しばらくの時間が経った。

 
 ここは狭い小屋だったけど、確かに私とエリクにとって、愛の巣……なんて恥ずかし気もなく言えてしまうくらい、大切な場所になった。


 私とエリクは、何度も何度も、愛し合った。


*            
  ■
    *


 世界が色を失った。


 顔をずっと水面に付けているような感覚に支配されていた。


「イリスと俺、同じ学園に通ってさ……放課後、俺が迎えに行くんだ。上級生の教室は、確かに緊張するんだけど、イリスを見つけると、そんなのどうでもよくなって……」


 だけど、ハッキリと、彼の声は聞こえていた。


「……ぅ……ぁ……」


 私は唸り声しかあげられない、異形だった。


「イリスと歩く街並みは…………確かに変わり映えのしない風景なんだけど……隣にイリスがいるだけで……幸福の色が彩られて……それで……それで……っっ!」


 エリクは泣いていた。


 私は慰めることすらできなかった。


* 

  ?




 癒しの聖女は、人民の為に、生命を泪として分け与える存在。


 その泪が枯れぬ限り、死に至ることはない。


 されど、人と同じように、痛みや苦しみを感じる。

 
 そして、自身の傷だけは癒せない。


 だから。


 私は。


「………………ぅ…………………………………………………………………………」



 死ねないだけの、廃人と化した。
 


 一時的に良くなっても、刻まれた古傷が癒えることはない。



 リュークやニーナ……街の人間に与えられた暴虐が、ゆっくりと、身体を蝕んでいく。



「……ずっと……傍にいるからな……」



 唾液と泪に塗れた顔を、拭ってくれる。



 唇が、重なり合う。



 この唇の感触も、確かにこの心に刻まれていた。



? 
 * ☆

?  ☆

 ■


 ■



 ■



「────────────────────────────────」


 声すら発せられなくなった。

 
 唇の感触すら、感じなくなった。


 とても死にたかった。


 とても生きたかった。


 死にたい。


 生きたい。


 死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい死にたい生きたい。


「…………うぐっ……愛しているよ……イリス……」


 ──生きたかった。


***


 愛の力とは、本当に絶大なのだろうか。


 残り少ない生命力でエリクが元気になったのは、愛の力なのだろうか。


 違う。


 彼は破戒の皇子。


 つまり、私と同じように生命力を使い果たさない限り死ねない存在。


 あぁ、そウか。


 愛の奇跡でモ、ナンでもナい。


 私が治しタのは、虚弱体質と傷デ、生命力にハ関与しテいナイ。


 ダカラ、僅かナ泪デ救えタんだ。


 ──愛ノ奇跡ナンテ、偽リダ。


***

 …………モウ、ケシキスラモウシナッタ。



 …………ナニモ、ミエナクナッタ。



「おはようイリス」


 
 …………………オハヨウ。


「すごい汗だ……ごめんな、気づかなくて」


 
 ………………………キニシナイデ。



「待ってろ、すぐに水を汲んで来る」



 …………………………アリガトウ。



 ……………………………トビラノオト。



 ……………………………トビラノオト。



「ただいま、すぐに綺麗にしてやるからな」



 ………………………………キヌズレノオト。



「……ん? え、まさか────」



 ………………………………………………ドウカシタ?



「……間違いない……イリス……──俺達の……子供だ……!」


 

 ──愛の力は、存在していた。



***


 私は誰よりも、泪を流してきた。


 だけど、私は誰よりも、知らなかった。


 ──痛みや苦しみや哀しみを伴わなくても、人は泪を流す事を。


「おぎゃー! おぎゃー!」

  
 だって貴方は……この世界に生まれたことを、嬉しく思っているでしょう?


「……ひぐっ……よく頑張ってくれたな……イリス……ッ! 元気な女の子だッ!!」


 だって貴方は……この子と出会えて、嬉しく思っているでしょう?


「………………っっ…………」


 だって私は…………。


 


 だって私は…………!


 !?


「ほら、お前のママだぞ?」


 産声が近づく。


 抱きかかえる力もない。


 抱きかかえる感触もない。


 だけど心なしか……温もりを感じた。
 


「────────────────────────」



 ──産まれて来てくれて、ありがとう。



 その想いが、言葉にならなくても。


 貴方の声は……貴方のなみだは……私に届いているよ。


 淀みを知らない明鏡止水なその声は。


 濁りを知らない清廉潔白なその涕は。


 きっと、どんな自然よりも、美しい。


 だって、貴方は呪われた癒しの聖女ではないのだから。



 ──『……癒しの聖女が……癒しの聖女を治癒することは……できないわ……』



 私のように……本当に治癒したい人を治癒できない自分を、運命を、呪わなくていい。



 絢爛に咲き誇る壮大な青空のようにこの広い世界を、自由に、羽ばたいて欲しい。



「…………っ…………ぅ…………」



「……イリス?」



 一度だって、抱きしめてあげられない、ダメなお母さんだけど。



「…………ぁ…………が…………」



 一度だって、ありがとうも言えない、ダメなお母さんだけど。



 貴方の事を──。



「……あい…………し……て…………る──」



「……っ! イリス!! 聞こえてるんだな!? 俺達の声が、聞こえているんだな!? 新しい家族の声が……ぐすん……届いているんだな……!」



 ──ぽつり。


 
 命の音がした。



 それはとても、心地よかった。



「……──っっ!? こ、この光は……っ!」



 ──ありがとう、破戒の皇子の道を正してくれて。



 そんな声が、聞こえた。



 ──癒しの……聖女……?



 心の中で、問い返す。



 ──ありがとう、私達が愛し合っても、幸せになれる運命を見つけてくれて。


 
 あぁ、そうなのか。


 だから、お母様が本当に愛し合った人との間に、破壊の皇子エリクが生まれて。




 もしかしたら、呪いをかけたのは、神様でも、街の住民でもなくて……。



 ──幸せに、なりますね。愛する家族と。



 そう、自分の中に応えると。



 世界が色を──取り直した。


***


「エリ……ク……」

 それはまるで、砂浜を打ち付ける波のように。
 ぼやけては、焦点が定まって。
 ぼやけては、焦点が定まって。
 緩やかに、景色を取り戻していく。
  
「イリス!! 見えるか!! おま……お前の……赤ちゃんだぞ……!」

 エリクは、目を腫らすほどに、泣いていた。

「……ふふっ……エリクの子供でもあるのに……」

「そ、それはそうだけど……」

 私の腕の中に、産まれたばかりの命があった。
 千言万語を用いても形容することのできない、枚挙にいとまがない愛おしい存在だった。

「それより体、大丈夫なのか!?」

「えぇ……心配ないわ……」

「じゃ、じゃあ、やっぱり、この子の泪で……」

 そういえば先程、エリクは”光”と言っていた。

「……癒しの聖女は……癒しの聖女を……治癒できないわ」

「じゃあ、どうして……」

「……なら……呪いが解けたのかもしれないね……」

「呪いが……?」

 愛し合った聖女と皇子。
 そこに待ち受けていたのは、殺戮と、破滅。
 そうして、呪われた街。

 だけど、私達は──。

「愛の力で……打ち勝った……」

「ま、また歯の浮くようなことを……」

「最初に愛の奇跡って言ったのは……エリクだよ?」

「いやそうだけどさ!」

 私達は、笑い合う。
 そういえば、声を上げて笑ったのは、いつぶりだろう。

「……寝ちゃった」

 腕の中の子が、静かに規則的な寝息を立て始める。
 エリクと顔を見合わせて、互いに微笑み合う。
 
「…………やっと、終わったんだね……」

 そう、思いに耽るようにつぶやく。
 私自身、お母様、歴代の癒しの聖女に対して。

 ──負の連鎖を断ち切ったと。

 ──悲劇は幸福の伏線だったと。

「……あぁ、だからこれからは、輝かしい未来が、俺達を待ち受けている筈だ」

「……えぇ、そうね」

 そう、きっと、これからは。

「愛しているわ、エリク……」

「俺もだ、イリス」

 この泪は、愛する人の為に流れて。

 だから。

「これからいっぱい、いっぱい、三人で、思い出を積み重ねようね……っ!」

 この泪が枯れ果てる、その時は。

 私の最期に、初めて意味をもたらすのだろう──。
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