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みなしごと百貨の王17
しおりを挟む濃厚な交わりで、静謐だった教会の空気も外と変わらず湿っているような気がする。
「――しおん」
体中陶然とした余韻に包まれてもう動けもしないしおんに、龍郷が囁く。その響きだけでなにを求められているのかわかるのが不思議だ。案の定、雄の気配が近づいてきて、唇に触れるだけの口づけをする。
散々貪ったあとには軽すぎるくらいの愛撫なのに、ひどく心地良い。
けれど伏せた目蓋を薄く押し上げて垣間見えた龍郷は、どこか思い詰めたような顔をしていた。
――龍郷?
どうしてそんな顔をするんだ?
手を伸ばせばすぐそこにある頬。なのに触れるのが躊躇われる。
指先が虚しく宙をかいたとき、教会のドアが細く開いた。
「どなたかいるのですか」
――人だ。
ベンチの陰ですべては見えない。それに感謝しながらしおんは脱ぎ捨てた服をかき集めて身につけた。濡れた上に主を失って放っておかれた布地は酷く冷たい。乱れを直すだけの龍郷のほうが先に立って相手をしてくれる。
「雨に降られてしまいまして、雨宿りをしていました。勝手にすみません」
「いえ、ここは私のものでもありませんから。先ほどの雨、急でしたね。……ずいぶんお疲れのご様子です」
「いや、疲れたのは別の理由ですが」
悪戯に笑う龍郷のすねを見えないように蹴飛ばして、どうにか服を身につけたしおんは椅子の間だから這い出ると、声の主にぺこりと頭を下げた。そういう仕草もいつの間にか身についたものだ。
声をかけてきた男はひとつ、またたいたように見えた。
どこかこちらをうかがうようなまなざしに、あ、と一瞬身構える。新しい習慣が身についたところで、悪意をぶつけられることに慣れた体の反応は、そう簡単には消えない。
しおんの心配をよそに、老人は声に穏やかな喜色をにじませた。
「あなた、少年音楽隊の方ですね。そちらは、もしや、デパートの」
「龍郷です。避暑にきておりまして。あなたは、しおんをご存じで?」
「はい。以前お店で歌を聴きました。龍郷デパート、とてもいい。なんでも揃いますし、郷里を思い出します」
「郷里?」
「イギリスです。ハロッズを思い出します」
「! まさに我が社が目指しているのはそのハロッズです。本国の方にそんなふうに言っていただけて光栄です」
――嬉しそうな顔しちゃって、まー。
なるほど男の髪が白いのは、年齢を重ねたからだけでなく、もともと色が薄いのだろう。
「なにをむすっとしてる?」
「あんたは嬉しそうだな」
「それはな」
当て擦りにも気づかないのか、龍郷は上機嫌だ。結局こいつにとっては仕事が一番なのだ。
――さっきまであんなに俺の躯をいいようにしてたのに。
たっぷり欲望を流し込まれた奥が、ぶるっと震える。面白くない、というように。たぶん、求められたら今からでもまた応えてしまう。いや、しおんのほうが求めている。
音楽隊の少年が、そんな不埒なことを考えているなどとは思いもしないのだろう。男は人好きのする笑みを浮かべた。
「宜しかったらうちでお茶でもいかがです? 服も乾かしていかれては」
「そうさせてもらおう、しおん」
めんどくせえ。そんなことより俺は、あんたと――
喉元までそんな言葉が出かかったが、たしかにまだ服は湿っていて、このままでは風邪をひきそうだった。なにより龍郷の目が爛々と輝いて、もうこっちを見てもいない。どうせ本場の話をあれこれ聞いてやろうと、今はそれしか考えていないのだ。
ここからだと龍郷の別荘のほうが遠いらしい。ひとりで帰ってもまた迷うだけだ、としおんはため息とともにふたりに従うことにした。
空はもうすっかり青い色を取り戻している。枝葉を小鳥が揺らして水滴を落とす以外は、雨が降ったことなど嘘のような爽やかな晴天だ。
案内された男の別荘には、グランドピアノが置かれていた。
「別荘にこんなに立派なピアノが……失礼ですがあなたは」
「少しばかり心得がありまして、日本の大学に招聘されて教えております」
「道理で日本語がお上手だ」
龍郷が言うとおり、自分なんかよりよっぽどうまいこと日本語を使えている。そんなことを考えているうちに女中が現れて、着ている物を脱げと告げた。
「ここには電気アイロンがありますから、渇かしてあげましょう。すぐですよ」
服を乾かしてもらっている間に、ミルクを入れた紅茶と焼き菓子が供される。朝食は食べたが歩き回ったせいで小腹が空いていた。誘惑に負けて言われるまま服を差し出し、菓子も綺麗に平らげた。
渇いた繊維独特のこそばゆい匂いを嗅ぎながら着替えてサンルームに戻る。先に身支度を終えたらしい龍郷と男が、やはり紅茶を飲みながら談笑していた。
龍郷は子供のように瞳を輝かせ、話に夢中だ。しおんが戻ってきたことに先に気がついたのは、男の方だった。
それが面白くなく、敢えてふたりの間の椅子にどかっと座ってやる。男は特に機嫌を損ねた様子もなく言った。
「あなたにお願いがあります。どうか一曲歌ってもらえませんか」
「え……」
「海外の音楽家の方に聴いていただけるなんて、めったにない機会だぞ」
龍郷までそんなことを言ってくる。
渇いた服はまだほんのり温かくて快適だし、菓子はうまかったが、不意に水を差された気になる。断れない状況を男が作ったのであれば、面白くはない。
だが男はあくまでにこにことしたまましおんの返答を待っていて、しおんは勘ぐりすぎを羞じた。
――ついさっきだって、それで無駄に胸が苦しかったんだ。
龍郷によって連れてこられた世界では、人の好意は素直に受け容れたほうがいいらしい。
「じゃあ、一曲だけ」
告げると、男は自らピアノの前に座った。何度かピアノのご機嫌を訊ねるように鳴らしたあと、旋律を奏で始める。男の手元から軽やかに紡ぎ出されるそれは「野ばら」という曲だ。いつも店で歌っているからわかる。
やたらとはずむような旋律が少し子供っぽいとしおんは思うのだが、不思議と人気のある曲だ。
童は見たり 野なかの薔薇
清らに咲ける その色愛でつ
飽かずながむ
紅におう 野なかの薔薇
手折りて往かん 野なかの薔薇
手折らば手折れ 思い出ぐさに
君を刺さん
紅におう 野なかの薔薇
童は折りぬ 野なかの薔薇
手折りてあはれ 清らの色香
永久にあせぬ
「紅におう 野なかの薔薇……」
「素晴らしい」
男はしばらく余韻を味わったあと、拍手と共にそう言った。
「さあ、もっとお菓子を召し上がってください」
突然歌わされたのには閉口したが、まるでちゃんとした大人みたいに扱われるのは気分がいい。いれ直された温かいお茶と焼き菓子をしおんは頬張った。支払い分は歌ってやった、という思いもある。
しおんが菓子を口に運んでいる間、男はやや興奮した様子で龍郷になにか話しかけていた。興奮しているからなのか、話している言葉は英語になっている。龍郷もそれに合わせて英語で話しているから、なにを言っているのかはわからない。疎外感を感じないでもないが、女中が新しい菓子を追加してくれると、すぐにそれも忘れた。
それから小一時間も男の別荘にいただろうか。あれこれ菓子を振る舞われて、男の別荘を出るときには、土産まで持たせてくれた。しおんが気に入ったのを見て取ったのか、ジャムまで一瓶丸ごと入っている心配りだ。
「ツイてたな」
「ツキなんかじゃない。それはおまえがおまえの力で引き寄せたものだ」
帰り道、思わず呟くと、龍郷が褒めてくれる。
「――うん」
初めて素直に頷いてみた。
それだけのことがひどく気恥ずかしい。ちょうど見覚えのある道に出たところだったから、しおんは衝動にかられるまま、逃げるように駆け出した。
だから見落としてしまったのだ。
「転ぶなよ」
そう告げる龍郷の顔が、どこかさえない色をしていたことを。
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