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第二幕
辺境の地にて
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馬車の車輪が、がたんと軋んだ。
長く凍りついた道を進むたびに、身体の芯から冷えていくような気がした。
神殿を発って四日目。春のはずなのに、空気はまだ冬のままだった。
ここは北方辺境――クロウフォード領。
地図の隅に追いやられた場所。王都では“過酷”や“無骨”といった言葉で語られる土地。
けれど、私にとっては、それがなぜか――少しだけ、安心できた。
神殿を出る前夜、私は祈祷の間に一人残っていた。
蝋燭の灯が静かに揺れ、石の床に影を落としている。
「リリエル。……怖くないのか?」
背後から聞こえたのは、大神官の声だった。
私に祈りを教え、名を捨てたあとも変わらず見守ってくれた、唯一の大人。
「はい。でも、怖いのは病ではありません」
「……では、何だ?」
「誰の声も届かない場所で、祈りだけが残ること。それが一番、怖いのです」
大神官は何も言わなかった。
けれど私は、その沈黙が“理解”であることを知っていた。
翌朝、私は旅支度を整えた。
荷物は少し。祈祷服、薬草と薬石の小箱、古びた祈りの書。
そして小さな布包み。
中には、神殿の台所の女たちが持たせてくれた乾燥パンと干し果実が入っていた。
「ちゃんと食べるんだよ」
「ひとりでも、神様は見てるからね」
誰かに“祝福されて”送り出されたのは、何年ぶりだっただろう。
馬車は村々を越え、山道を抜け、ゆっくりと辺境へと向かっていく。
途中、小さな村で休息をとったとき、私はあるものを目にした。
――仮設の診療所。
病に伏せる者、咳き込む者、その家族の疲れた顔。
小さな少女が、私の姿を見て怯えたように後ずさった。
「神の人が来るってことは、誰かが死ぬってことだ」
そう母に囁く声を、私は聞いた。
胸が痛んだ。
私の祈りは、救いになりうるのか?
それとも“もう手遅れだ”という証のように思われてしまうのか。
そして、ついにクロウフォード領の入口に着いた日のこと――
馬車が村の広場に入ったとき、空気の温度が変わった気がした。
肌にまとわりつく冷気。
どこか張り詰めた空気。
誰も騒がず、誰も近づいてこない。
「……リリエル様。まもなく、辺境伯がお出迎えに参られるそうです」
侍女の声が震えていた。
神殿の使者として訪れる先で、領主自らが迎えるなど、普通は考えられない。
それだけ、この土地の状況が切迫しているということだ。
がらん――
突然、馬車の扉が乱暴に開けられた。
「おい、そっちの小娘!」
がさつでよく通る声が、冷気と一緒に吹き込んできた。
思わず肩をすくめ、声の主を見た。
――そこにいたのは、聞いていた“辺境伯”の像とはまるで違っていた。
長身。乱れた黒髪。
肩をすぼめたコートは、軍装ではなく旅人のような質素なもの。
腰には剣、靴には泥。
無精ひげまで生えたその男は、どう見ても“神の人間”と会う格好ではなかった。
「せ、聖女様……! あれは、辺境伯クロウフォード様ですっ!」
侍女が耳元で必死に囁いた。
「神の使いってのは、こんなに細っこいのか?」
男は、ぐいっと顔を近づけてきた。
距離が近い。呼吸がかかりそうで、思わず身を引いた。
「ちゃんと食ってんのか? 肩、ふらついてるぞ。てかおまえ、コート薄くねえか? 辺境なめんな。春つっても冬だぞここは」
「……初対面ですので、少し距離を……」
声を絞り出すと、男――ディラン・クロウフォードは「あっ」と短く言って、一歩下がった。
「わりぃ、悪ぃ。そっち系苦手か。
神殿の人ってもっとこう、ふわっとしてるイメージだったから」
ふわっと……?
言葉に困って目をぱちくりさせてしまう。
神殿でそんなことを言われたのは初めてだった。
あまりにも無遠慮で、あまりにも乱暴で。
けれど、彼のまなざしだけは、まっすぐで――どこか、優しかった。
「病人が待ってる。移動するぞ。
神の人に頼るのは正直くやしいが、癒せるなら手は借りる。俺は、そういう主義だ」
ディランはそう言って、馬車の横を歩き出した。
その背中に、私は息を吸い込む。
神のために祈ってきたけれど。
王のために動いてきたけれど。
今、私はこの人に頼られている。
それだけで、こんなにも心が、あたたかいなんて。
辺境の空は灰色だったけれど、
私の足元には、確かな地面が広がっていた。
長く凍りついた道を進むたびに、身体の芯から冷えていくような気がした。
神殿を発って四日目。春のはずなのに、空気はまだ冬のままだった。
ここは北方辺境――クロウフォード領。
地図の隅に追いやられた場所。王都では“過酷”や“無骨”といった言葉で語られる土地。
けれど、私にとっては、それがなぜか――少しだけ、安心できた。
神殿を出る前夜、私は祈祷の間に一人残っていた。
蝋燭の灯が静かに揺れ、石の床に影を落としている。
「リリエル。……怖くないのか?」
背後から聞こえたのは、大神官の声だった。
私に祈りを教え、名を捨てたあとも変わらず見守ってくれた、唯一の大人。
「はい。でも、怖いのは病ではありません」
「……では、何だ?」
「誰の声も届かない場所で、祈りだけが残ること。それが一番、怖いのです」
大神官は何も言わなかった。
けれど私は、その沈黙が“理解”であることを知っていた。
翌朝、私は旅支度を整えた。
荷物は少し。祈祷服、薬草と薬石の小箱、古びた祈りの書。
そして小さな布包み。
中には、神殿の台所の女たちが持たせてくれた乾燥パンと干し果実が入っていた。
「ちゃんと食べるんだよ」
「ひとりでも、神様は見てるからね」
誰かに“祝福されて”送り出されたのは、何年ぶりだっただろう。
馬車は村々を越え、山道を抜け、ゆっくりと辺境へと向かっていく。
途中、小さな村で休息をとったとき、私はあるものを目にした。
――仮設の診療所。
病に伏せる者、咳き込む者、その家族の疲れた顔。
小さな少女が、私の姿を見て怯えたように後ずさった。
「神の人が来るってことは、誰かが死ぬってことだ」
そう母に囁く声を、私は聞いた。
胸が痛んだ。
私の祈りは、救いになりうるのか?
それとも“もう手遅れだ”という証のように思われてしまうのか。
そして、ついにクロウフォード領の入口に着いた日のこと――
馬車が村の広場に入ったとき、空気の温度が変わった気がした。
肌にまとわりつく冷気。
どこか張り詰めた空気。
誰も騒がず、誰も近づいてこない。
「……リリエル様。まもなく、辺境伯がお出迎えに参られるそうです」
侍女の声が震えていた。
神殿の使者として訪れる先で、領主自らが迎えるなど、普通は考えられない。
それだけ、この土地の状況が切迫しているということだ。
がらん――
突然、馬車の扉が乱暴に開けられた。
「おい、そっちの小娘!」
がさつでよく通る声が、冷気と一緒に吹き込んできた。
思わず肩をすくめ、声の主を見た。
――そこにいたのは、聞いていた“辺境伯”の像とはまるで違っていた。
長身。乱れた黒髪。
肩をすぼめたコートは、軍装ではなく旅人のような質素なもの。
腰には剣、靴には泥。
無精ひげまで生えたその男は、どう見ても“神の人間”と会う格好ではなかった。
「せ、聖女様……! あれは、辺境伯クロウフォード様ですっ!」
侍女が耳元で必死に囁いた。
「神の使いってのは、こんなに細っこいのか?」
男は、ぐいっと顔を近づけてきた。
距離が近い。呼吸がかかりそうで、思わず身を引いた。
「ちゃんと食ってんのか? 肩、ふらついてるぞ。てかおまえ、コート薄くねえか? 辺境なめんな。春つっても冬だぞここは」
「……初対面ですので、少し距離を……」
声を絞り出すと、男――ディラン・クロウフォードは「あっ」と短く言って、一歩下がった。
「わりぃ、悪ぃ。そっち系苦手か。
神殿の人ってもっとこう、ふわっとしてるイメージだったから」
ふわっと……?
言葉に困って目をぱちくりさせてしまう。
神殿でそんなことを言われたのは初めてだった。
あまりにも無遠慮で、あまりにも乱暴で。
けれど、彼のまなざしだけは、まっすぐで――どこか、優しかった。
「病人が待ってる。移動するぞ。
神の人に頼るのは正直くやしいが、癒せるなら手は借りる。俺は、そういう主義だ」
ディランはそう言って、馬車の横を歩き出した。
その背中に、私は息を吸い込む。
神のために祈ってきたけれど。
王のために動いてきたけれど。
今、私はこの人に頼られている。
それだけで、こんなにも心が、あたたかいなんて。
辺境の空は灰色だったけれど、
私の足元には、確かな地面が広がっていた。
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