祈りの乙女は、辺境で恋をする

千宮寺みるく

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第二幕

春を連れてくる人

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 雪はまだ残っているのに、風に柔らかい匂いが混じり始めた。
 朝、戸を開けると犬のミルダが前足で地面をかく。土の下で芽が動く音まで聞こえる気がして、私は思わず笑ってしまった。

「ミルダ、春の匂いがわかるのね」

 鼻先をすり寄せてくる温かさに、あの日の冷たさが薄れていく。祈っても救えなかった夜の記憶は消えないけれど、消えないものと一緒に歩く方法を、私はこの土地で覚えつつあった。

 台所から、鍋をかき回す音。
 扉を開けると、ディランが大きな鍋の前で腕を組んでいた。

「味見」

「……“味見してください”でしょう」

「うるせぇ。言われなくてもやるくせに」

 ため息をつきながらスプーンで掬う。塩とハーブ、根菜の甘み。粗野なのに、どこか丁寧な味がする。

「……おいしいです」

「だろ。薪割りの報酬だ。厨房の婆さんが“配給前に味を決めろ”ってよ」

「配給?」

「疫病で仕事を失った家に、温かいものを回す。おまえが回ってる家にも持っていく」

 彼は当然のように言う。
 この土地では、“当然”の力が人を生かしている。

「じゃ、桶を二つ。俺が運ぶ」

「私も持ちます」

「片方な。両方持つとまた倒れる」

「倒れてません」

「顔色が“たまに信仰で生きてる”色してる」

「それ、どういう色ですか」

「薄い」

 くだらないやりとりに、肩の力が抜ける。私は桶を一つ受け取り、もう一つはディランが肩に担いだ。屋敷を出れば、まだ冷たい空気。けれど鼻先に触れる湿りが、間違いなく季節を連れてくる。

 最初の家は、子どもが多い農家だった。戸を叩くと、小さな顔が三つ、くるりとこちらを見る。

「ごはんだぞ。熱いから触るな」

 ディランの声に、奥から母親が飛び出してきて深く頭を下げた。
 私は彼女の手に、短い祈りを載せる。病を遠ざける加護が、今夜だけでも家の内を温めますように。母親の目に、わずかな潤いが戻るのが見えた。

 二軒目、三軒目。祈りと配膳は、思った以上に相性がよかった。食べ物があると、祈りが“行儀のいい儀式”ではなく、“今この瞬間の助け”に変わる。子どもたちは鍋から立つ湯気を、私の掌から広がる温もりと同じ顔で眺めた。

「……リリエル」

 四軒目を出たところで、ディランが立ち止まる。
 視線の先で、年老いた男が戸口に腰を下ろしていた。肩で息をしている。私は素早く膝をつく。

「痛みは?」

「……胸が。咳も。こいつぁ長い。若いころ、鉱山で粉塵を吸いすぎた」

 私は頷き、祈りの言葉ではなく、ゆっくりと呼吸を合わせる。息を吸う長さ、吐く長さ。胸の痛みに寄り添うように掌を当てる。

「いま、ここで楽になるぶんだけ」

 奇跡ではない。けれど、男の眉間の皺が少しほどけた。
 ディランが鍋を渡しながら、肩に毛布をかける。

「明日の朝、もう一度来る。おまえは俺を待て。無理して薪運ぶな」

「……へい」

 老人の返事に、小さな笑いが生まれる。笑いは鍋の湯気より早く、家の奥へ流れていった。

 日が傾き始めた頃、私たちは丘の上に出た。村全体が見える。白と灰の間を、人の小さな動きが点々とつないでいる。苦しい季節なのに、動きは途切れない。生きることは、こんな風に続けることだ。

「おい」

 急に肩に何かがかかった。ディランのコートだった。

「……寒くないです」

「寒い。鼻が赤い」

「それは……ミルダの真似かもしれません」

「犬に寄せるな」

 コートから彼の匂いがした。薪と鉄と、薄いハーブ。無骨で、清潔だ。私は前を向く。彼の横に立つと、村の景色が少し広く見えた。

「なぁ、リリエル。春になったら、何がしたい」

 唐突な問いに、私は少し考える。
 春になったら――神殿では、祭礼。王都では、舞踏会。貴族の家では、新しい衣替え。けれど今の私はどれにも属していない。

「畑を……触ってみたいです」

「畑?」

「祈りで芽は出ません。けれど、土を温める手にはなれるかもしれないから」

 ディランがふっと笑った。
 風が少し強くなり、遠くの白が細かく舞った。

「いいな。うちの畑、土が気難しい。人見知りだ。……おまえみたいだ」

「私が、土?」

「最初は乾いて固い。けど水をやって陽を当てると、ちゃんと芽が出る」

「……それは、褒め言葉ですか」

「俺の辞書では最上級」

 呆れたふりをしながら、頬が熱くなるのを誤魔化す。
 私はコートの前をしっかり掴み、息を整えた。

 戻る道すがら、祈りを頼む声が二つ、相談が一つ、ただ話をしたいだけの老人が一人。私は立ち止まり続け、ディランは黙って待った。せかさない。急がせない。彼の沈黙は、私に時間をくれた。

 屋敷に戻ると、厨房の婆さんが腕を組んで待ち構えていた。

「お帰り。腹は空いたろ。……お嬢、頬色がよくなったじゃないかい」

「お嬢じゃないです。もう貴族席は抜けました」

「私にゃ関係ないよ。あんたが“よそさん”でも“うちの人”でも、腹は鳴る。それが正義」

「正義……」

「そう。食え」

 大きな皿に、タマネギの甘さが染みた肉団子のスープと、焼き立てのパン。思わず目を閉じる。祈りが口から出そうになって、私は慌てて両手で口を押さえた。婆さんが笑う。

「食前の祈りかい。ここでは“うまくなれ”の一言で通じるよ」

 席に着くと、ディランが向かいでパンをちぎっていた。
 ふと、私の指先に視線が落ちる。指先に小さなささくれ。桶の持ち手でこすれたのだ。

「手、出せ」

 命令口調。思わず差し出すと、彼は腰のポーチから小さな瓶を取り出す。透明な油。指先に塗り込むと、かすかなハーブが香った。

「……薬草?」

「馬の手入れ用の油。人間にも効く。ばあさん直伝」

「優しいですね」

「俺は優しくない。必要なことをやってるだけだ」

 言い切る声が、かえって優しかった。
 私は、微笑みを深くした。

 食後、ディランは珍しく仕事の話をした。
 山裾の道が雪で崩れ、補修が必要なこと。薪の備蓄が底をつきかけていること。疫病で人手が足りず、春の種まきが遅れる恐れがあること。

「……私に、できること」

「畑を触る前に、やってほしいことがある」

 彼は立ち上がり、地図を机に広げた。村と村の間、小川に架かる小さな橋。そこが補修の要だという。

「明日、そこに“祈りの目印”を置いてくれ。人は不思議と、目印があるところに足を運びたがる。橋を避けて遠回りしてる奴らに“戻って来い”って、合図を出したい」

「祈りの……目印」

「おまえがそこに立って祈る。午前と午後に短くでいい。おまえの顔を“この道は大丈夫だ”の印にする」

「……印」

 私が印になる。神の名ではなく、私という“人”が。
 胸の奥に、ほんの少し誇らしさが灯る。

「やります」

「助かる」

 言葉が短くても、彼の「ありがとう」は、いつもよく響く。

 部屋に戻る前に、ミルダが廊下で尻尾を振っていた。
 私は膝をつき、耳の後ろを掻いてやる。温かい体温。生きている音。こんなささやかなものが、誰かの一日を支える。

 夜の祈りは短くした。
 神の名を呼ぶかわりに、今日出会った人たちの名を、小さく口の中で転がす。呼べる名が、日ごとに増えていく。増やすごとに、祈りは静かに濃くなる。

 翌朝。
 まだ薄暗い空の下、私は橋へ向かった。川面を渡る風は冷たいが、岸辺の草に淡い緑が混じっている。

 橋の手前で、私は立ち止まる。深く息を吸い、吐く。
 祈りは告げず、ただ、立つ。目印になるために。

 最初にやってきたのは、荷車を押す若い男だった。私を見ると、驚いたように帽子を取る。

「戻れる、んですか」

「……橋は、あなたの足で確かめてください。私はここで、見ています」

 男は頷き、そろそろと板に足を乗せる。板は鳴ったが、落ちない。慎重に、ゆっくりと渡り切り、振り返って大きく息を吐いた。

「行けます!」

 声が川上に跳ねた。次の人が続く。
 午前のうちに、十組が渡った。午後には三十組。
 夕方になるころには、誰も私をいちいち見なくなった。橋が“使える”ものになったからだ。

 それでいい。祈りが“当たり前”に変わる瞬間は、いつだって少し寂しくて、少し嬉しい。

「おい」

 帰り道、丘の上でディランが待っていた。
 背中に薪、肩に雪。息は白いのに、目はよく笑っている。

「俺の女神は、橋まで直してくれるのか」

「女神ではありません」

「そうだったな。“土”だった」

「言い方」

「褒め言葉だって言ったろ」

 彼の手が、ふいに私の肩に触れた。軽く、確かに。
 私はその手を見て、彼の顔を見た。
 彼は何も言わない。手を離さない。
 私は逃げない。

 沈黙が、怖くなかった。

 丘の向こう、白い息が幾筋も空に立った。
 人の数だけ、春の種がある。人の数だけ、笑いがある。
 私はそっと目を閉じ、小さくたしかめるように祈る。

 神よ。
 もしあなたがまだ見ていてくれるなら、どうか今日だけは――
 この人と、この村に、春を早く。

 目を開けると、風が頬を撫でた。
 ディランが、短く笑う。

「……あったかいな」

「ええ」

「春だな」

「まだ雪です」

「おまえが笑うと、春だ」

 私は言葉に詰まり、視線を落とした。
 駄目だ。顔が熱い。風より。火より。

「……帰りましょう。配給の鍋、もう一度火にかけないと」

「はいはい。神さまの命令だ」

「違います。私の命令です」

 ディランが肩をすくめ、私の前に一歩出る。
 背中が大きい。歩幅が広い。私は半歩だけ早足になる。
 並ぶのは、まだ少し難しい。それでも――追いつける気がする。

 屋敷に戻ると、婆さんが鍋を叩いた。

「遅い! 春は待ってくれるが、腹は待たないよ!」

「はい」

 私が返事をすると、婆さんは目を丸くして笑った。

「いい返事。うちの人になってきたね」

 うちの人。
 その言葉が、胸の中で静かにほどけていった。

 夜。
 寝台の上で、私は両手を胸に重ねた。祈りじゃない、ただの癖。
 暗闇の奥に、誰かの笑い声が埋もれている。今日の笑い。明日の笑い。
 それらを数えるうちに、静かに眠りが訪れた。

 春は、雪の下で生まれる。
 芽は、土の中で最初の形を作る。
 そして、人は――人の温度で、あたたかくなる。

 私は、春を連れてくる人になりたい。
 祈りの言葉ではなく、手の温度で。
 誰かの隣で、笑って。
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