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第三章 織田筆頭家老権六
青山宗勝ものがたる その4
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では、落ち着いたところで、この先について話そうかね。
えーっと、どこまでだったか……。
あっ、そうそう、手取川で柴田どのが敗れた話だったな。
では、続き。
御幸塚城と大聖寺城に柴田どのの兵を入れた、というところだね。
うん。
柴田どのが敗れたのは、天正五年だった。
そのご、二年ほどは北陸では一揆方と柴田どの率いる織田軍との綱引きがあって、一進一退の状態だった。
この状況が一変するのが、天正八年なのだ。
たしか閏三月の初旬、四日か、五日だったと思うが、信長公が加賀の一向一揆の殲滅を厳命されて、柴田どのは兵を加賀に向けた。
加賀の宮腰に陣を進めた柴田どのは、北加賀の各所に火を放ち、勢いに乗って野々市城を陥落させた。さらに勢いを増した柴田軍は、能登まで兵を進め、能登末森城の城主土肥親真を降伏させた。土肥親真は信長公に仕えることになり、末森城主の地位にとどまった。
このとき、長連龍をはじめとする能登や越中に逼塞していた親織田方も柴田どのの勢いをみて兵を出したのだよ。
これにより一向一揆や能登の反織田方は追いつめられて、土肥親真の降服ののちも――これは八月のことだったが――、九月には温井景隆や三宅長盛なども降っている。
ただし、加賀や能登が鎮圧された十一月。
……ええっと、
……そうそう十七日。
十一月十七日、安土城下の松原町西において、加賀の一向一揆の主導者である若林長門ら十九名の首級がさらされたのだ。
この首斬られた若林と赦された土肥や温井、三宅などのちがいは、ただ、降伏したかどうかのちがいだけだったらしい。一揆に殉ずるか、己が命大事と思うか、それぞれの考え方のちがいよな。
どうやらこれら首級をさらしたころ、加賀をほぼ制圧し終わったようだ。
さてさて、すこし年月が前後するが、天正四年のはなしなのだが。
信長公は、茶の湯を愛されて、その茶の湯の道具も同時に愛されておいでだった。
そうしたなかで、信長公より、茶道具を下賜されて、茶の湯をひらける許可を得ることは、織田家臣の誉れであったことは、いまの太閤殿下も引き継がれておることはご存じよな。
天正四年以前より、柴田どのは、信長公より茶の湯道具の下賜を願い出ておいでだったが、この年になって、ようやくそれまでの働きを認められて信長公より下賜されたのは、〝天命釜〟であった。これは一度下賜を信長公に願った柴田どのが、信長公が手放すのを惜しんで、手柄を立てたらゆずろうと柴田どのの奮起を期待され、そのご、柴田どのは信長公の期待にみごと応えられて、この年にゆずられたものである。
そのとき、信長公は、
「慣れ慣れて 飽かぬ馴染みの 姥口を 人にのません 口惜しと思ふ」
と狂歌を口にされて、信長公御みずから持ち出されて柴田どのに手渡されたという。
さて、茶の湯の話はこれまで。
天正九年における重点は、「御馬揃え」だな、うん。
これには、それがしも丹羽長秀さまの臣下として参加したので、詳しくお話ししよう。
天正九年二月二十八日に、織田信長公は、京都におわす帝のお住まいである禁裏の東の庭に馬場をこしらえ、信長公の自慢の部将と五畿内の諸大名を召し寄せ、日本各地から集めた名馬を揃えて御馬揃えを挙行したのだよ。
御馬揃えについて、木下どのは聞いたことがあるかな?
うむ。
で、あるか。
渡辺どのはご存知ないかもしれぬな。
御馬揃えとは、もともとの意味は、駿馬を一堂に展示して、その優劣を鑑賞することであったのだが、これをいくさにのぞむ前におこなうことがあった。
これは士気を高めることを目的としていたのは改めていうまでもないかな。
それで、こたび話している信長公がおこなわれた「京都御馬揃え」は馬のみにあらず、馬上の諸大名や諸将も華やかに装って、馬具も美々しく飾り立てたものだ。
見物には、正親町帝が招かれ、公家衆はもとより、京の町衆、奈良からは僧侶も見物に来ておったし、さらに南蛮人であるヴァリニャーノの顔もあったな。
見物には、後で知ったのだが、二十万人はいたと聞いたぞ。
この京都御馬揃えの発端は、そのまえに安土で開かれた御馬揃えにあるといえる。
これは同じ天正九年の正月に行われたもので、信長公は居城の安土城に馬場を築き、馬廻衆に対して、爆竹を用意して、それぞれが思う装束で、御馬揃えを開かれておる。
このときの信長公の出で立ちは、南蛮笠をかぶり、虎皮の行縢(両脛の覆い)を着用されておいでだった。
この安土御馬揃えは、正月十五日に開催された。信長公ご自身はもちろんのこと、その小姓衆、公家のなかでは摂関家の近衛前久さまが参加されたのだ。
御馬揃えの一行は、爆竹に火をつけ、どっとはやし立てながら、馬場を駆け抜けたのち、安土城下街中まで繰り出すということだった。
これが世の人々の耳目を集めたことはいうまでもないだろう。
こうした派手なことごとは、足かけ十一年にわたりたたかった大坂本願寺と和睦が成立したことと不可分ではなかったやに思う。つまり、信長公がお喜びの気持ちを表されたということよ。
先ほど正月十五日におこなったと申したが、それで何か思われないかね?
おお!
さすがは木下どの。
正解よ。
そう〝左義長〟さね。
小正月の正月十五日におこなわれる火祭りのことぞ。
書き初めや正月の遊びに用いた打毬の杖を焼いて、その周囲の者たちが「とうどやとうど」とはやすのが習いの行事さね。
信長公が、正月十五日にこの安土御馬揃えをおこなわれたのは、この左義長を意識していたであろうことは、容易に想像できると思う。
この安土での御馬揃えは、京都や奈良にまで評判として伝わったよ。
これに参加された近衛前久さまが、禁裏やお公家の家々でお話しになられて伝播されたことは、疑いようがないやね。
これを聞いた朝廷も、勅使を信長公に送られて、京都で御馬揃えをしてくれないかと要請された。
信長公もこれを快諾され、京都での御馬揃えを開催するにいたった、というわけだ。
この過程を話していてお分かりいただけると思うが、京都の御馬揃えは信長公の一存で決められたものではなく、帝やその周辺からの要請でおこなわれたということなのよ。
だから、一部にこの御馬揃えで信長公が帝や朝廷に対して威圧するための催しだったという者もいるやに聞くが、これは全く見当違いであると指摘しておこう。
すべて、内裏側の意向で行われることになったのだ。
なぜ帝が京都での御馬揃えをお望みになられたかというと、ちょうどこのころ禁裏で不幸があって喪に服しておいでだったのだが、その喪も明けて、暗い雰囲気を一掃させたいからであろう――と長秀さまはお話しになられておいでだったな。
信長公もそれを踏まえて、京都での御馬揃えを許諾されたと思う。
そして、開催された京都御馬揃えに招かれた人びとの様子を語っておこう。
先ほども申したが、この京都御馬揃えに招かれたのは、正親町帝とそのお子さまの誠仁親王殿下、摂家、清華家をはじめとする公家衆が主なものであった。帝と親王殿下のためには、禁裏東門の築地の外に、長さ五間(約九メートル)、奥行三間(約五・四メートル)の桟敷席が設けられた。
そのほか、これも話したが、来日間もないイエズス会のヴァリニャーノも招かれておって、このヴァリニャーノは信長公と面会して、濃い紅色の天鵞絨の椅子を贈っていた。
信長公はそれを諒とされ、この椅子をば御馬揃えの行列の中、家臣たちに高く持ちあげさせながら運ばせ、一度は下馬して座ってみせるなどの恩典をヴァリニャーノにお与えになられた。
この御馬揃えは未の刻(午後二時)ごろに終わったやに記憶しておる。
この京都御馬揃えを帝はたいへん喜ばれ、「かほどの面白い遊興はない」と非常に満足をおぼえられ、褒美の勅書と品物を信長公に贈られた。
これには続きがあって、あまりに満足をおぼえた朝廷は、再度御馬揃えを開いて欲しいとその開催を求め、信長公もまた、その要望をお受けになって、三月五日に二回目の御馬揃えを開催されておる。
基本的に一回目の御馬揃えよりも規模が小さくなっていて、信長公とその馬廻衆の五百余騎でおこなわれ、騎馬の公家衆もいないというものだったが、このときも帝と公家衆や後宮の女房衆が揃うなか、誠仁親王殿下も女房たちにまぎれてお忍びで見物をされ、また、町衆も貴賤を問わず観覧を許可されたという。
その賑わいは第一回に劣らずで、とくに町衆は、帝を間近に拝見できる栄誉に感じ入り、その機会をお与えになられた信長公の徳を高く持ちあげたとのことじゃ。
このなかで、あまり柴田どののことは触れなかったが、第一回の京都御馬揃えには、柴田権六どのも参加されておる。
それでは、ちょっと味気ないか?
ハハハ、申し訳ない。
では、落ち着いたところで、この先について話そうかね。
えーっと、どこまでだったか……。
あっ、そうそう、手取川で柴田どのが敗れた話だったな。
では、続き。
御幸塚城と大聖寺城に柴田どのの兵を入れた、というところだね。
うん。
柴田どのが敗れたのは、天正五年だった。
そのご、二年ほどは北陸では一揆方と柴田どの率いる織田軍との綱引きがあって、一進一退の状態だった。
この状況が一変するのが、天正八年なのだ。
たしか閏三月の初旬、四日か、五日だったと思うが、信長公が加賀の一向一揆の殲滅を厳命されて、柴田どのは兵を加賀に向けた。
加賀の宮腰に陣を進めた柴田どのは、北加賀の各所に火を放ち、勢いに乗って野々市城を陥落させた。さらに勢いを増した柴田軍は、能登まで兵を進め、能登末森城の城主土肥親真を降伏させた。土肥親真は信長公に仕えることになり、末森城主の地位にとどまった。
このとき、長連龍をはじめとする能登や越中に逼塞していた親織田方も柴田どのの勢いをみて兵を出したのだよ。
これにより一向一揆や能登の反織田方は追いつめられて、土肥親真の降服ののちも――これは八月のことだったが――、九月には温井景隆や三宅長盛なども降っている。
ただし、加賀や能登が鎮圧された十一月。
……ええっと、
……そうそう十七日。
十一月十七日、安土城下の松原町西において、加賀の一向一揆の主導者である若林長門ら十九名の首級がさらされたのだ。
この首斬られた若林と赦された土肥や温井、三宅などのちがいは、ただ、降伏したかどうかのちがいだけだったらしい。一揆に殉ずるか、己が命大事と思うか、それぞれの考え方のちがいよな。
どうやらこれら首級をさらしたころ、加賀をほぼ制圧し終わったようだ。
さてさて、すこし年月が前後するが、天正四年のはなしなのだが。
信長公は、茶の湯を愛されて、その茶の湯の道具も同時に愛されておいでだった。
そうしたなかで、信長公より、茶道具を下賜されて、茶の湯をひらける許可を得ることは、織田家臣の誉れであったことは、いまの太閤殿下も引き継がれておることはご存じよな。
天正四年以前より、柴田どのは、信長公より茶の湯道具の下賜を願い出ておいでだったが、この年になって、ようやくそれまでの働きを認められて信長公より下賜されたのは、〝天命釜〟であった。これは一度下賜を信長公に願った柴田どのが、信長公が手放すのを惜しんで、手柄を立てたらゆずろうと柴田どのの奮起を期待され、そのご、柴田どのは信長公の期待にみごと応えられて、この年にゆずられたものである。
そのとき、信長公は、
「慣れ慣れて 飽かぬ馴染みの 姥口を 人にのません 口惜しと思ふ」
と狂歌を口にされて、信長公御みずから持ち出されて柴田どのに手渡されたという。
さて、茶の湯の話はこれまで。
天正九年における重点は、「御馬揃え」だな、うん。
これには、それがしも丹羽長秀さまの臣下として参加したので、詳しくお話ししよう。
天正九年二月二十八日に、織田信長公は、京都におわす帝のお住まいである禁裏の東の庭に馬場をこしらえ、信長公の自慢の部将と五畿内の諸大名を召し寄せ、日本各地から集めた名馬を揃えて御馬揃えを挙行したのだよ。
御馬揃えについて、木下どのは聞いたことがあるかな?
うむ。
で、あるか。
渡辺どのはご存知ないかもしれぬな。
御馬揃えとは、もともとの意味は、駿馬を一堂に展示して、その優劣を鑑賞することであったのだが、これをいくさにのぞむ前におこなうことがあった。
これは士気を高めることを目的としていたのは改めていうまでもないかな。
それで、こたび話している信長公がおこなわれた「京都御馬揃え」は馬のみにあらず、馬上の諸大名や諸将も華やかに装って、馬具も美々しく飾り立てたものだ。
見物には、正親町帝が招かれ、公家衆はもとより、京の町衆、奈良からは僧侶も見物に来ておったし、さらに南蛮人であるヴァリニャーノの顔もあったな。
見物には、後で知ったのだが、二十万人はいたと聞いたぞ。
この京都御馬揃えの発端は、そのまえに安土で開かれた御馬揃えにあるといえる。
これは同じ天正九年の正月に行われたもので、信長公は居城の安土城に馬場を築き、馬廻衆に対して、爆竹を用意して、それぞれが思う装束で、御馬揃えを開かれておる。
このときの信長公の出で立ちは、南蛮笠をかぶり、虎皮の行縢(両脛の覆い)を着用されておいでだった。
この安土御馬揃えは、正月十五日に開催された。信長公ご自身はもちろんのこと、その小姓衆、公家のなかでは摂関家の近衛前久さまが参加されたのだ。
御馬揃えの一行は、爆竹に火をつけ、どっとはやし立てながら、馬場を駆け抜けたのち、安土城下街中まで繰り出すということだった。
これが世の人々の耳目を集めたことはいうまでもないだろう。
こうした派手なことごとは、足かけ十一年にわたりたたかった大坂本願寺と和睦が成立したことと不可分ではなかったやに思う。つまり、信長公がお喜びの気持ちを表されたということよ。
先ほど正月十五日におこなったと申したが、それで何か思われないかね?
おお!
さすがは木下どの。
正解よ。
そう〝左義長〟さね。
小正月の正月十五日におこなわれる火祭りのことぞ。
書き初めや正月の遊びに用いた打毬の杖を焼いて、その周囲の者たちが「とうどやとうど」とはやすのが習いの行事さね。
信長公が、正月十五日にこの安土御馬揃えをおこなわれたのは、この左義長を意識していたであろうことは、容易に想像できると思う。
この安土での御馬揃えは、京都や奈良にまで評判として伝わったよ。
これに参加された近衛前久さまが、禁裏やお公家の家々でお話しになられて伝播されたことは、疑いようがないやね。
これを聞いた朝廷も、勅使を信長公に送られて、京都で御馬揃えをしてくれないかと要請された。
信長公もこれを快諾され、京都での御馬揃えを開催するにいたった、というわけだ。
この過程を話していてお分かりいただけると思うが、京都の御馬揃えは信長公の一存で決められたものではなく、帝やその周辺からの要請でおこなわれたということなのよ。
だから、一部にこの御馬揃えで信長公が帝や朝廷に対して威圧するための催しだったという者もいるやに聞くが、これは全く見当違いであると指摘しておこう。
すべて、内裏側の意向で行われることになったのだ。
なぜ帝が京都での御馬揃えをお望みになられたかというと、ちょうどこのころ禁裏で不幸があって喪に服しておいでだったのだが、その喪も明けて、暗い雰囲気を一掃させたいからであろう――と長秀さまはお話しになられておいでだったな。
信長公もそれを踏まえて、京都での御馬揃えを許諾されたと思う。
そして、開催された京都御馬揃えに招かれた人びとの様子を語っておこう。
先ほども申したが、この京都御馬揃えに招かれたのは、正親町帝とそのお子さまの誠仁親王殿下、摂家、清華家をはじめとする公家衆が主なものであった。帝と親王殿下のためには、禁裏東門の築地の外に、長さ五間(約九メートル)、奥行三間(約五・四メートル)の桟敷席が設けられた。
そのほか、これも話したが、来日間もないイエズス会のヴァリニャーノも招かれておって、このヴァリニャーノは信長公と面会して、濃い紅色の天鵞絨の椅子を贈っていた。
信長公はそれを諒とされ、この椅子をば御馬揃えの行列の中、家臣たちに高く持ちあげさせながら運ばせ、一度は下馬して座ってみせるなどの恩典をヴァリニャーノにお与えになられた。
この御馬揃えは未の刻(午後二時)ごろに終わったやに記憶しておる。
この京都御馬揃えを帝はたいへん喜ばれ、「かほどの面白い遊興はない」と非常に満足をおぼえられ、褒美の勅書と品物を信長公に贈られた。
これには続きがあって、あまりに満足をおぼえた朝廷は、再度御馬揃えを開いて欲しいとその開催を求め、信長公もまた、その要望をお受けになって、三月五日に二回目の御馬揃えを開催されておる。
基本的に一回目の御馬揃えよりも規模が小さくなっていて、信長公とその馬廻衆の五百余騎でおこなわれ、騎馬の公家衆もいないというものだったが、このときも帝と公家衆や後宮の女房衆が揃うなか、誠仁親王殿下も女房たちにまぎれてお忍びで見物をされ、また、町衆も貴賤を問わず観覧を許可されたという。
その賑わいは第一回に劣らずで、とくに町衆は、帝を間近に拝見できる栄誉に感じ入り、その機会をお与えになられた信長公の徳を高く持ちあげたとのことじゃ。
このなかで、あまり柴田どののことは触れなかったが、第一回の京都御馬揃えには、柴田権六どのも参加されておる。
それでは、ちょっと味気ないか?
ハハハ、申し訳ない。
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