カフェオレはありますか?:second

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 早く、と、俺を呼ぶ姿に対して、どう返答するべきだろうか。朝起きて、檜山が俺に抱き付いて寝ている事に頭を痛めたばかりだというのに、今は店で引き取ったばかりの自転車に股がって、俺を全力で手招きしている。その自由奔放な姿に目眩を覚えるのは仕方ないと思いたい。未来と母さんの弁当を作り終えて、おかずの余りが予定より多く出てしまい、勿体無く思っていた俺の横で、檜山が使っていない弁当箱を取り出し、我が物顔でおかずを詰め始めた事に対しても、とてつもない疲労を感じた事を思い出し息を吐く。無視して隣を通り過ぎると、ベルを鳴らし始めた。店の前ということもあって、店員も外へ出てきてしまい頭を抱えてから、持っていた鞄で檜山の頭を殴る事で、ベルを鳴らすことを止めさせる。未来の弁当箱を別で持っていたから出来たが、次に同じ事が起こったら殴ってでも黙らせるしかないな。コンタクトがずれた、と、大騒ぎをしている檜山を無理矢理自転車からおろしてをハンドルを握る。早く店から離れたくて、早足で自転車を押して歩く。後ろから檜山が走って来て、早くコンビニに行こう、と、背中を押して急かしてきたので、無視しようとしても出来なかった。コンタクト一つで騒がしい奴。駐輪スペースに自転車を停めてコンビニに入ると、いつもと違う棚の並びに新鮮味を感じる。自転車を引き取る都合もあって、いつもと違うコンビニに来たせいだろうか。檜山は足早に目薬を手にとってレジへ向かい、会計を終えるとトイレへと入っていった。その姿に、今更ながら目の色が左右で違う事を思い出して息を吐く。母さんが言うには、沖縄の海のよう、らしい。実際に見たが、部屋の電気が付いてなかったから、はっきりとした色は知らないままだ。常にコンタクトをしているから、未だにはっきりとは解らないが、本人が気にしている事を深掘りするのは良くない、と認識している為、改めて見ることも聞くこともしなかった。いつも通りコーヒーゼリーを手に取った時、微かに視界が揺れた気がして他の棚を見たが、特に異変は無く、気のせいと判断して手元のコーヒーゼリーを見る。食べるのが面倒だと思った。そんな自分に驚きもする。食べる、という事には大したこだわりは無い。食べなくても平気と思う位だ。でも、面倒と思うことは今まで無かったのに。面倒と思っただけで、全てが不必要に思えてコーヒーゼリーを棚に戻す。戻したそれを、後ろから伸びてきた手が掴む。
「幸、自分が痩せてきてるの、気付いてる?」
 いつこの呼び方を止めてもらえるんだろうか。
「いや、それはない。制服のサイズも違和感ないし」
「ベルトの穴、変わってるよ」
「そう、か?」
 言われてベルトを確認しようとしたが、檜山に、人前では止めなさい、と、注意されて手を止めた。檜山にしては珍しくまともな事を言うな。そもそもベルトの穴が違うなんて、いつ気が付いたんだ。
「普通は気付くけどね。ま、そこが幸らしいけど(ここのコンビニは来ない方が良いな。幸に好意を持ったヤツが多すぎる)」
 檜山は、俺用だと言ってサラダパスタとチョコレートムースを手に取り、コーヒーゼリーと一緒にレジへ持って行った。追いかけて財布を出すと、弁当の食費分だと言って会計をされてしまい肩をすくめる。レジ袋を受け取ろうとするも、それすら取られてしまう。コンビニを出て、自転車を動かしていると、檜山が口を開いた。
「幸の家の冷凍庫、ほとんど空っぽだったから気になってたけど、今まで以上に食べなくなったみたいだね。何か心配事?」
 そう聞かれても思い当たることは無い。食べなくなってる事にすら、気が付かなかった位だ。何で檜山が冷凍庫の中身を把握してるのか、そっちの方が気になる。
「最近変わった事は?変えた事とかない?」
「……勉強の時間を増やした。参考書買ったからもう少し増やしたいと思ってる位で、大した変化はないな」
「いや、絶対に今のが原因だよね(今までの勉強時間だって長いのに)」
 檜山の言葉に首を傾げる。
「二時間位増やしただけだ」
「二時間!?ちょっとおいで!」
「おいっ」
「部屋の電気がいつも同じ時間に消えるから、寝不足はしてないと思ってたけど、こんな落とし穴があったとは。やっぱりカメラ必要だね」
「要らん!」
 俺から自転車と鞄を奪った檜山は、住宅街の脇道を抜け、小さな公園に入っていく。こんな所に公園があったのか。こういう道を知ってると、絡まれたときの逃げ道として便利だな。絡まれないのが一番良いが、残念なことにそれは難しい。入り口を入って一番手前にあったベンチの横に自転車を停めた檜山は、公園を見回す俺の手を引いてベンチに座わった。檜山はコンビニ袋からチョコレートムースとスプーンを取り出して蓋を外す。すぐに食べたかったのか、と、暢気に思っている俺に、檜山はスプーンで掬ったチョコレートムースと生クリームを差し出してきた。
「はいっ」
「……ん?」
 スプーンと檜山を交互に見て、何を言いたいのか解らずに首を傾げる。
「メチャクチャ可愛い」
 会話にすらならない。
「早く食べろよ。遅刻するだろ」
「そうだね。早く食べないと」
 そう言いながらも、俺の前にあるスプーンは動かないままだ。
「だから何だよ」
「あーって言って、あーって」
 ますます解らない。
「ぁ、ぁー」
 意味が解らないまま口を開けて、言われた事をやると、口の中にスプーンが入ってきて、反射的に口を閉じる。チョコレートムースを口内に残してスプーンは外へと出て行った。
「可愛いー!お母さんにこの興奮を共有してほしい!」
 檜山と俺の温度差をそろそろ感じて欲しい。それに、母さんと訳の解らないものを共有しようとするな。
「満足か?俺は先に行くぞ」
「駄目。幸がこれを全部食べるまで登校は許可しません。幸の分って言ったでしょ」
 学校に行くのに檜山の許可が何故必要なのか教えてほしい。呆れながら口の中の物を飲み込んだ俺は、檜山の手にあるチョコレートムースを睨む。
「あ、美味しくなかった?」
「甘い」
「んー、生クリーム避ければ少しは苦いかなぁ……はいっ」
 生クリームを避けて、チョコレートムースだけを乗せたスプーンが再び俺の前に現れた。
「生クリームは俺が食べるから安心してね」
 何に対しての安心を求められているのか解らない。食べる事を渋っていると、檜山がスプーンを俺の唇に当ててきた。本当に俺が食べ終わるまで続けるつもりらしい。その姿に息を吐いて、仕方なく二口目を口に含んだ。
「甘い」
「えー」
 檜山はスプーンでチョコレートムースと生クリームを掬って、自分の口に入れる。
「少し苦いね。生クリームが丁度良い」
 味覚の好みも俺と違う事をもう少し重要視してほしい。
「幸って、チョコレートムース作れるの?」
 作った事はある、とは、絶対に言わない。
「そんな事聞いてどうすんだよ」
「幸の作った物はお世辞抜きで全部美味しいって思えるのに、外で食べるものには、物足りなさっていうのかな……ほら、ラーメンに胡椒いっぱいかけて食べるみたいな」
 例えが解り難い。
「これも生クリームがあるから食べれるけど、無かったら食べるの止めてるなぁって」
 何でも食べそうなイメージの檜山からは、全く想像出来ない言葉が出てきて少し驚く。檜山でも食べ物に対して、美味しくないと感じる事があるのか。そもそも好き嫌いがあれば、そう感じる事があってもおかしくない。うん、当たり前の事だな。
「俺、幸の作ったご飯しか食べれなくなっちゃうね」
「何でそうなるんだよ」
「だって、他の食べても美味しくないんだもん」
 当たり前のように言い切った檜山の言葉に、俺は息を吐く。大袈裟にも程がある。
「お腹は空くから食べるけどね。誰かさんと違って」
 そう言ってチョコレートムースをスプーンで掬い、俺の口元に運びながら言う檜山の、誰かさん、とは、俺の事に違いない。食べてるつもりなんだがな。
「外でもあんまり食べないみたいだから心配」
 檜山の食べる量と比べられたら、皆少食扱いされると思うぞ。
「ほーら、食べ終わらないと学校行けないよ」
 だから、何で檜山の許可が必要なんだ。目の前のチョコレートムースを見ていると、一瞬視界が歪んで眉をしかめる。
「幸?」
「視力が下がった気がする」
「えぇ!かかりつけ医どこ!?すぐに行かないと!」
 檜山は持っていたチョコレートムースとスプーンを地面に落とし、蒼白な顔をして立ち上がった。
「落ち着け、すぐに困る程じゃない」
「そ、そうなの?」
「そうだ」
「(本当かな?)」
 地面に落ちたカップとスプーンを拾い、ベンチ裏にあるゴミ箱に捨ててから腕時計に目を向ける。歩いたら遅刻だな。走ってギリギリか。俺は自転車を動かし公園の入口を出て、足を止め振り返る。携帯を操作する檜山を小さく睨むと、他人事のようにヘラリと笑い返された。面倒なこと考えてないだろうな。
「もう遅刻だね」
 誰のせいだ。溜め息を吐いて、自転車のスタンドを立てロックを掛ける。
「普通ならな」
「?」
 俺は檜山をチラリと見て、自転車を顎で指す。
「連れていけ」
 俺の言葉の意味を理解した檜山は、ムカつくほど嬉しそうに笑う。檜山は俺の左手を右手で掴んで、手の甲にキスをした。本当に日本人か?
「喜んで、王子様」
 王子はどこから出てきたんだ。
「今のは必要ないだろ」
「照れてくれた?」
 照れる意味が解らない。
「女相手にやるものだって言ったんだ」
「幸以外にやる価値無いし(まだ女とか言うし)」
 また言ってしまった、と少し後悔した。でも、他に今の距離を保つ言葉を知らない。自転車の前かごに鞄を入れ、スタンドを外しサドルに股がった檜山を見て、鞄と弁当箱を持ち直して後ろに座る。檜山の体に腕を回して掴まると、ゆっくりと自転車が動き始めた。住宅街を抜けて元の道に戻るとばかり思っていた俺は、違う道を進んでいく檜山に眉をしかめる。連れていけ、と言った俺の言葉を無視するとは思えないから、何も言わないで走らせる事にした。今更になって、自転車に乗れるんだなぁ、と、檜山の姿を見て思う。檜山は俺を知りたい。俺は檜山を知りたくない。檜山の好きに近づく気がして、知る事を選べないだけだ。それくらい解っている。同じ気持ちを迷わずに抱けたら、苦しい、なんて気持ちは無かったんだろうな。いや、本当にそうか?同じだからこそ、苦しい事があるんじゃないのか。あぁ、嫌だな。檜山の事を考えてる自分に吐き気がする。選ばないくせに、と、さげすむ声は、確かに自分の中から聞こえたものだった。手放せるかな。今ならまだ、この背中を手放しても耐えられるだろうか。それを知りたくて、檜山の体に回した腕の力を弱める。
「何してるの?」
 放そうとした俺の両手を左手で掴んできた檜山の声は少し低かった。
「放して良いなんて言ってないよ」
「時間を確認したいだけだ」
「あー、どれどれ」
「前を見ろ!」
 それらしい理由を伝えると、檜山は俺の右手首に視線を落として時間を確認する。その行為に恐怖を感じた俺は、右手を動かして前を見るよう前方を指差した。
「動かないでよ。時間見れないじゃん」
「ふざけるな!バイト最終日に怪我出来るわけないだろ!」
「えーっと、今は……」
「話を聞け!ぅわっ!」
 段差に乗り上げた衝撃でバランスを崩しかけた俺は、反射的に檜山にしがみついた。
「ははっ、そうそう、そうやってしがみついててね」
「安全な道を選んで走れ!」
「いやいや、そんな事言ってたら遅刻だよ。これが一番の近道なんだから。ほら、見えてきた」
 見えてきたと言われても、俺の視界は檜山に塞がれているんだが。
「檜山の背中で何も見えないって解ってて言ってるか?」
「……良いね、それ。このままサボっちゃう?」
「絶対に嫌だ。ちゃんと学校に連れてけ」
「残念」
 檜山は大袈裟に肩をすくめて、校門を通り抜けた。本当に近道だったんだな。いろんな生徒からの視線が気になるが、この際全て無視しようと諦めた。駐輪スペースに着いて、自転車が止まったのを確認して降りる。檜山が自転車を停めている間、妙な視線を感じて周りを見回したが、特に異変はなかった。気のせい、か。
「幸慈、鍵」
「あぁ、ご苦労だったな」
 受け取った鍵を鞄のポケットに入れる。
「毎日でもやりたい」
「断る」
 鞄を持ち直した俺は、校舎へと歩き出したが、さっきよりも強くなった違和感に眉をしかめ、足を止め振り返る。何だ、この感じ。
「幸慈」
「あぁ、悪い。何でもな……」
 檜山の顔が近いと思ったら、言葉が続けられなくなった。
「(何で、檜山にキスをされているんだ?)」
 離れていった唇の感触に、止まっていた思考が動き出し、状況を把握した上で鞄と弁当箱を地面に落とす。周りのざわつく声に、殺意が湧く。
「ちょっと牽制」
「……殺す」
「うおっ!ちょっ!たんまぁぁ!!」
 感情に任せて檜山を背負い投げし、コンクリートの上に背中を打ち付ける姿を見ても、怒りは収まらなかった。
「痛ってー!その細い体のどこからそんな力が出てくるのさ!」
 上半身を起こして背中を向けたまま、顔だけを上に向け俺を見て抗議してくる檜山の後ろに立ち、首元に上着のポケットから取り出したナイフの刃を当てる。
「今すぐ自害するか、殺害されるか、どちらか選べ」
「何その二択!?てか、ナイフどっから出てきたの!?」
「これは性能が良いぞ。多目的な面でも役に立つし、何より両刃だ。なんならコルク抜きで目でもくり抜くか?」
 ナイフの持ち手からコルク抜きの部分を出すと、檜山の口元がひきつった。
「ほら、どっちが良い?茜くんが決めて良いんだぞ」
「ど、どちらも魅力的過ぎて、何と言えば良いのか(これ、マジでられるやつだ)」
「オマエ等っ、駐輪場で何をしてるんだ!チャイムが鳴るぞ!って、檜山、と、多木崎……な、何をしてるんだ?」
 邪魔な教師の登場に俺は舌打ちをして、コルク抜きとナイフの刃先をしまってポケットに戻す。
「ちょっとした戯れです。な、茜くん?」
「は、はい。楽しくて、つい時間を忘れて戯れてました」
 笑顔で檜山に同意を求めると、清々しい程の棒読みで肯定してきた。
「そ、そうか。チャ、チャイムが鳴る前に教室に行くように」
 そう言って、教師は他の野次馬と化していた生徒を校舎へと促し、そそくさと戻って行った。せっかく遅刻を回避したのに、ここでそれを無駄にしたくはないな。
「荷物持ってこい」
「はい」
 檜山を睨んでから下駄箱に向かった俺は、メッセージカードの存在を思い出して頭を抱えた。この出来事の後に渡すものじゃないよな。未来に相談するにも鹿沼の目があるし、今更薫達に連絡をして渡しにくいとは言えない。それに、あそこまで渡す為の作戦を考えておきながら、目前になって無理というのも投げやり過ぎる気がしてしまう。右手を額に当てて溜め息を吐き出す。
「どうしたものか」
「本当にね」
 すぐ後ろから聞こえた声の主は、俺の下駄箱から便箋を取り出して不機嫌に眉をしかめる。考え事のせいで下駄箱にある手紙に気が付かなかった。
「これがラブレターかぁ。差出人は……(書いてないってことはアイツからか)」
 手紙を取って観察し始めた檜山を無視して上履きを取り出す。
「面倒だから返しておけ」
「はーい」
 背中を向けたまま靴を履き替えた俺は、檜山が手紙を自分のズボンのポケットに入れたことに気が付かなかった。教室への階段を上る間、檜山の言った、牽制、の意味を考えて、嫌な胸騒ぎに息を吐いては、無くならない息苦しさに目を細める。また、あんなことが起きなければ良いが。教室に入ると、当然のようにクラスの人間からの視線が向けられた。さっきまで騒いでた事が、あっさりと広まったってところだな。
「おはよう、幸慈」
「おはよう」
 未来の鞄が見覚えの無いリュックになっているのを見て、鹿沼に視線を向けると小さく頷かれた。どうやら、無事にプレゼント出来たようだ。
「ヒーくんに勝てるのは幸慈だけらしいね」
「何があったんだ?」
 未来と鹿沼からの質問に檜山が身を乗り出して口を開く。
「何もなかったよ!ねっ、幸慈!」
 俺の代わりに答えた檜山は、同意を求めるように鞄を渡してきた。その顔を冷めた気持ちで睨み付け鞄を受け取る。
「あぁ、元気そうで残念だ」
「(何かやったのは確定だな)」
「良い男過ぎて返す言葉がない」
「(幸慈とヒーくんの温度差がすごい)」
 何かを察した未来と鹿沼は息を吐いて口を閉じた。
「ミーちゃん、これ、今日のお弁当」
「ありがとう。わぁ、この弁当箱久しぶりー(まだあったんだ。嬉しいなぁ)」
 確かに、高校に入ってからは使ってなかったかもな。今更になって中身が崩れてないか心配になったが、全部檜山のせいにしようと決めて、鞄の中身を机の下に移す。鞄に忍ばせたメッセージカードの存在が、重く肩にのし掛かる。皆は大丈夫だろうか。チャイムが鳴って教師が入ってきたのを見て、全員が音をたてながら自分の席に座る光景は、軍隊の様だと思ったことがあるのを思い出す。目の前に座る誰かが急に居なくなっても、俺は気付かないだろうな。教師の話は無く、出席者の確認だけして出ていった。
「朝から音楽かぁ」
 机に突っ伏す未来の姿に、俺と鹿沼は顔を見合わせて肩をすくめる。
「歌うより良いだろ」
 横目で見ながら教科書を用意しながら言うと、未来は顔を上げて俺を見た。
「そうだけど、せっかくのミュージカル鑑賞も字幕だと内容入ってこないよ」
「ウェストサイドストーリーって定番だよね」
 檜山がミュージカルのタイトルを覚えてるとは意外だな。
「そうなの?」
 未来、何故俺に聞いてくるんだ。檜山が言ったんだから檜山に聞け。
「後はスタンドバイミーも定番に入るのかな」
「ヒーくんミュージカル詳しいね」
 何故俺をチラリと見る必要があるんだ。
「詳しくはないよ。子供の頃に父親が見せてくれたのをぼんやり覚えてるだけ」
「そうなんだ(ヒーくんからお父さんの事聞くの初めてだな)」
「内容は全く覚えてないから、授業が初見なのは確かだから安心してね」
 いや、檜山オマエも俺じゃなくて未来に言え。
「俺としては幸慈とミュージカル鑑賞なんて、デートみたいで楽しいだけだし」
 授業がデートになるわけないだろ。どこまで馬鹿なんだ。
「最後は感想文も書くんだ、内容が入ってこないなら鹿沼に解説してもらえ。今のところ、僕には理解出来ない内容だからな」
「「「(恋愛ものだからだろうな)」」」
 二つのギャングの抗争の中で、恋をした二人とそれを取り巻く人間模様についての作品らしいが、恋が関わってる時点で理解するのは無理だ。必要なものを持って立ち上がると、後ろの檜山も立ち上がったのが音で解った。
「感想文は別として、頭を使わなくて済むのはありがたいよね」
 暢気な檜山の言葉に息を吐く。
「普通、字幕は頭使うと思うぞ」
 鹿沼の言葉に俺と未来は頷いた。
「後で俺が解説するから我慢しろ」
「うぅー」
 鹿沼に言われて渋々立ち上がった未来の姿に息を吐いて、俺は先に教室を出る。
「多木崎先輩!」
 聞き慣れない声の方に目を向けると、見たことの無い生徒が俺の方へ近付いてくるのが解った。
「何?幸慈に用事?」
 後ろから俺の腰に手を回し、目の前の生徒を威嚇するような態度を取る檜山の頭を教科書で叩く。
「威嚇するな。まだ何も言ってないだろ」
「ふん。聞かなくたって解るし」
 拗ねてそっぽを向いた檜山を放って、目の前の生徒に視線を戻す。
「悪いな。僕に何の用だ?」
「あの、こ、これ、ちゃんと読んで下さい!」
 そう言って差し出されたのは、一通の手紙だった。前に下駄箱に入ってて、返したやつのどれかであろう事は理解したが、それを改めて持ってこられるとは思ってなかったから少し驚く。
「お、俺が書いたんじゃないんですけど」
 友人の誰かが書いたものを、代理で再度俺に届けにきたのか。それはまた親切な友人だな。
「アイツ、すげー悩んで書いてたんです。先輩達が付き合ってるって知っても、気持ちは伝えたいからって。頑張って書いてるの見てて」
「は?」
 誰と誰が付き合ってるって?
「しー、ここは聞き流しとこうよ。話が長びくと授業遅れるよ」
 檜山の言うことも一理ある気がするが、出来るなら盛大に否定したい。
「お願いします!手紙だけでも、受け取って下さい!」
 頭を下げて差し出された手紙を、俺の代わりに受け取ろうとした檜山の手を叩いて止めさせる。
「君がここに来ることをその子は知っているのか?」
「……いや、その……」
 うん、この反応は勝手にやってるな。
「なら、直接渡してもらえれば受け取ると伝えてくれないか?」
「ぇー」
 不満な檜山の声は無視しよう。頭を下げていた生徒は勢いよく顔を上げて俺を見た。
「ほ、本当ですか!?」
「悲しい事に幸慈はこういう時、嘘吐かないからね(俺の命懸けの牽制も意味無しって感じ)」
 俺の右肩に顎を乗せる檜山は、目の前の事が何故か不満らしい。残酷、と先に言ったのは檜山の方じゃないか。
「この手紙は君ではなく、その子の気持ちだろ。君から受け取るわけにはいかない」
「……た、確かに。じゃ、じゃあ、ちゃんと伝えます!だから、受け取って下さい!宜しくお願いします!失礼しました!」
 礼儀正しく頭を下げた生徒は、廊下を走って自分の教室へ向かった。今日はずっと慌ただしいのだろうか。出来れば少しゆっくりしたいものだ。
「幸慈にしては優しいね」
 檜山の後ろから顔を出した未来の言葉に息を吐く。
「おかげさまで」
 そう言って未来の額を右手の人指し指で軽く突いて、止めていた足を動かす。
「ミーちゃん!今の何!?」
「ん?んー、ナーイショッ。待ってよ幸慈ー」
 俺の隣に並んだ未来は、今回の作戦を楽しんでいるらしく、いたずらっ子の様に笑っていた。
「幸慈の改心に繋がるとは思ってなかったなぁ」
 しゃくに触る言い方に、右手で乱暴に未来の頭を撫でる。
「わわわ」
「改心言うな。手渡し限定なら良いか、と思っただけだ。それに、あそこで断ったら僕の方が悪者じゃないか」
「ははっ、確かに」
 笑い事じゃない。後ろが静かということは、檜山と鹿沼は付いてきてないな。
「鹿沼付いてきてないぞ」
「ん?あっ!」
 後ろを確認して、鹿沼が付いてきてないと解った未来は、一大事と言わんばかりの勢いで左手を高く上げ鹿沼を呼ぶ。恋人に名前を呼ばれた鹿沼は、檜山に向けていた顔を弾かれたように未来へ向けた。
「秋谷くん!早く!秋谷くんが解説してくれないと感想文書けないんだよ!」
 安堵に似た表情を浮かべた鹿沼は、早足に近付いて未来の隣に立つ。鹿沼もあんな顔をするんだな。
「悪い」
 そう言って、鹿沼は乱れた未来の髪を直す。
「前回までのは解るか?」
「それが、最初から解ってなくて」
「そうか」
 今日含めて後二回で最後だって前回の授業で言ってたから、今日を抜いて次回で終わりか。鹿沼に相談してると決め付けていたが、もっと早くに気にかけるべきだったな。
「ごめんね。もっと早くに相談すれば良かったよね」
「いや、気がつかない俺も悪かったから、お互い様だ。そうだな、この作品は、二つのギャングがあって……」
 いつも通り二人並んで歩き出した姿を見て、檜山が来ないことに気が付いた。全く、いつまで拗ねてるんだか。
「早くしろ。一緒に観るんだろ」
 振り返って檜山を呼ぶと不満な視線とぶつかった。
「……うん」
「なら早くしろ。置いてくぞ、茜くん」
 改めて檜山を呼ぶと、不満そうな顔が少し驚いたものに変わって、最後には笑顔で俺の傍に駆け寄ってきた。何がそんなに嬉しいのやら。
「これからも茜が良いなぁ」
 そんな事で笑顔になったのか?
「調子に乗るな」
「えー。まぁ、我慢しますか。幸慈って字幕無くても平気そうだよね」
「困りはしないが、実際の発音と翻訳を同時に見聞き出来るから勉強にはなる」
「内容は理解出来なくても有意義そうでなによりです」
 そうでもしなければ時間が長く感じて仕方がない。長く愛される素晴らしい作品だと、世間的に認められていると知っていても、愛と死が同じ作品に存在しているだけで、体の内側が冷えきっていく感覚がして嫌になる。
「えっ!そんなに仲悪いの!」
「そうだな。まぁ、昔は日本も……」
 昔は、ではなく、今も、の間違いだろ。試合中選手やサポーターが喧嘩すれば、それが大きくなって周りに広がる。誰が傷付いたとか、命を落としたとか、一日一つニュースになる位には、問題が起きてる事を思えば、法律は変わっても人の根っこは変わらないと諦めがつく。そう、どんなに罪を償ったと口で言ったところで、失った物や傷が元通りにならないのと同じ。感想文を書く価値もない。強いて言えば、檜山にメッセージカードを渡すよりかは遥かにマシってだけだ。渡さなければいけない事に変わりはないから、比べるだけ無駄か。音楽室に入ると、自由席にもかかわらず、俺達が毎回座ってる席と、その周りだけ空いていた。他に座る場所もないので、いつもの席に座るが、何で毎回同じ場所が空いているんだろうか。疑問を抱きながら、響くチャイムの音に眉をしかめる。くだらない愛憎劇の始まりだ。
 何事もなく終わった一日に息を吐き、鞄に教科書を入れる俺の視界に、昼休みに届いたラブレターが写る。震えながら届いたそれを受け取った俺は、気持ちに応えられない事への謝罪と、好きになってくれた事への感謝を伝える事しか出来なかった。それでも、相手は瞳を潤ませながら笑い、ありがとうございます、と、言って去っていった姿に、微かながらも罪悪感を抱く。そして、今までそんなものを感じもしなかったのに、と、頭を少し掻いた。全員が同じだけ、同じ人から愛されるなんて無理に決まってる。ラブレターを檜山がすぐに奪おうとしてきたが、それをかわして鞄にしまうと、納得がいかないのか未来に不満を愚痴り始めた。すぐ鹿沼に、未来を困らせるな、と、叱られていたが、俺は最後まで無視を決め込んだ。残酷と言ったり、不満を口にしたりと意見がコロコロ変わるな。そんな相手に渡すカードの存在が、俺の鞄を何倍も重くする。未来は放課後に近付くに連れ、俺に話し掛けてくる回数が多くなった。おかげで鹿沼から未来を怒らせたのではないか、と、相談されたくらいだ。リュックをプレゼントしてもらったと、嬉しそうに話していた事を伝えると、他に欲しがっているものはないかと聞いてくる始末。未来がいつも通りに振る舞ってくれないおかげで、俺への負担が増え続けている。ようやくそれも終わるのかと思うと、安堵の息が溢れそうだ。
「よーし、幸慈帰ろう!」
 元気よく立ち上がった檜山に俺は長めの息を吐く。
「何で放課後の方が元気なんだよ」
 鹿沼の言葉に内心頷く。
「これが愛妻弁当の力だよ!」
 檜山の当然のような返事に項垂れた。
「つまみ食い弁当だろ」
「鹿沼上手いこと言うな」
 確かに勝手に弁当箱に詰めてたわけだから、つまみ食い、ではなく、盗み食い、でも良い位だ。
「嘘でも愛妻にしてよ!」
「嘘でも嫌だ」
 こんなやり取りをしているのに、何故俺は檜山と恋人だ、などと噂が立っているのか理解に苦しむ。落ち込む檜山を放って立ち上がり、鞄を肩に掛け未来を見る。リュックを背負って、準備万端、と言って頷く。それに頷き返して椅子を机の下にしまうと、檜山が俺の鞄の持ち手を掴んだ。
「まさか俺を置いて帰ろうなんて思ってないよね?」
 そもそもバイトがあるんだから一緒に帰るのもおかしいだろ。まさか、最終日だからってバイト先まで付いてくるつもりだったのか?
「今日は先約があるんだよ」
「は?」
 すぐに機嫌を悪くするのは止めてほしい。
「鬼ごっこだよ!ヒーくん!」
「鬼ごっこ?」
 未来の言葉に檜山は首を傾げる。苛立ちをぶつけられるのはいつも俺だけだ。何か不公平だな。
「せっかくだ。鹿沼もたまには鬼をやれ」
「え、俺も?」
 最初はに落ちない顔をしていた鹿沼だが、笑顔で仕切る未来に負けて首を縦に動かした。
「今から二十分かー。長いよー」
 檜山が机に突っ伏すのを見て、携帯でタイマーをセットする。タイマーの画面にしたまま、携帯を自分の机に置く。すぐに捕まるのも面白くないし、GPSは遠ざけておかないとな。バイト先で捕まるのは確定してるが、それは皆も同じだろうから深くは考えないようにしよう。俺はネクタイを取って机に突っ伏す檜山の頭の上へ雑に置く。それを手に取った檜山は、俺の机の上の携帯に気が付いて、不機嫌を丸出しにして眉間にシワを作る。
「怒らせたいの?」
 不機嫌なのに怖さを感じさせない鬼の姿に苦笑しながら、檜山の眉間にデコピンをして鞄を持ち直す。
「頑張れよ。赤鬼さん」
「上等。すぐに捕まえてあげるよ」
「それは楽しみだ」
 タイマーのスタートボタンを押して教室を出た俺と未来は、こんなにも作戦が上手くいくとは思ってなかったせいか、顔を見合わせて苦笑する。階段を下りて下駄箱に着いて時間を確認すると、二分経ったところだった。まだ時間に余裕は有りそうだな。鞄から手紙とメッセージカードをそれぞれ取り出した後、見慣れた靴の上に置く。出来るなら置かずに帰りたい。カードを取り返そうとする俺の右手を未来が両手で掴み、諦めるように言ってくる。盛大に項垂れる俺の頭を未来が慣れたように右手で撫でてきた。
「よしっ!行こっ、幸慈!」
 呼ばれて靴を履き替えた俺は、未来に右手を引かれ駐輪場まで走る。自転車の鍵を取り出して乗りやすいところまで動かし、未来はリュックを前かごに入れてサドルに座る。俺は当たり前のように後ろに座って未来の体に腕を回す。昔から二人乗りする時は未来が決まって前に座る。一回前に乗った事もあるが、すぐに不向きと判断してからは、これが決まった光景だ。校門に向かう間も不安は付きまとっていて、未来に確認する為に口を開く。
「大丈夫だよな?」
「何が?」
「その……告白って思われないよな?」
 今更な事を聞く自分が嫌だったが、他に聞くタイミングがあるとも思えなかった。
「……ははっ、大丈夫だよ」
 少しの間が気になった俺は、少しムキになって聞き直す。
「大丈夫って言ったな?大丈夫なんだな?」
「はははっ!」
「笑うな!こっちは真剣なんだ!」
「大好きなくせにー」
「違う!」
 何でそうなるんだ、と、抗議しても未来は聞く耳を持ってはくれなかった。カードに何て書いたのか聞かれて、少し戸惑いはしたが、誰にも言わない、と、言った未来の言葉を信じて内容を口にする。それを聞いた未来は、告白にはならない、と、改めて言い切った。それに安心した俺は、大袈裟に溜め息を吐き出し未来の右肩に額を乗せる。もう二度とカードなんて書きたくない。そう言うと、未来はラブレターなら書くのかと聞いてきた。絶対に嫌だと伝えると、また笑われる。こんな風に話すのは久しぶりだな。自転車に乗って学校を出る俺と未来の姿を、檜山と鹿沼が見ていたなんて気が付く事もなく、集合先のバイトへと自転車は進み続けた。
 この鬼ごっこ作戦が成功したと解ったのは、光臣が息を切らせてバイト先の入り口を入って、俺達に笑顔を向けた時だ。皆でハイタッチをして、光臣の成功を喜んでいた。バイト中だから一緒に喜ぶことは出来なかったが、注文の度にかわす微かな会話に口元がほころんでいる自分に驚く。けれど、こういう変化なら悪くはないかもしれない、と、少し思う。全く、らしくないな。さて、オーナーから出た打ち上げ許可の開始時間まで、最後の仕事を頑張りますか。
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