カフェオレはありますか?:second

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 久々に忙しない朝に笑いが溢れる。光臣を手放そうとしない母親から奪って、学校の支度をさせる幸慈の姿は立派な兄そのもので、自分の支度も同時進行で進める所はさすがだ。仕事に行かなければいけない時間になっても、母親は光臣の世話をやきたがって、髪の毛を未だに櫛でとかしている。照れ臭くも嬉しそうな光臣の姿に、俺は嬉しくて目を細めて笑う。光臣の苦労を知っているからこそ、目の前の光景が嬉しくて仕方がない。荷物の再確認を終えた幸慈は、弁当箱を配り始める。母親はそれを受け取って、渋々といった表情で櫛を幸慈に渡す。光臣は手渡された弁当箱の存在を見つめたまま動かない。家族が自分のために、といった経験がない光臣にとっては、手の上の弁当箱が特別な物として目に映っているに違いない。未来の弁当箱を鞄に入れた幸慈は、最後の弁当箱を俺に差し出す。まさか自分の分まで用意してもらえるとは思ってなかった俺は、らしくもなくはしゃいで幸慈に抱き付いた。母親が楽しそうに笑う姿に、照れ臭そうにする幸慈にお礼を言って、弁当箱を鞄に入れる。家を出ないと間に合わないギリギリの時間になった母親は、幸慈と光臣に、そして何故か俺も含めて順番に軽いチークキスをして、小さな幸せがたくさんありますように、と、願い事を言って微笑んだ。玄関のドアの向こうへ居なくなった姿に息を吐く。触れた頬がむず痒い。幸慈が優しいのは、母親の影響だと知った。光臣も学校までどれくらいの時間がかかるか解らないから、早めに家を出ると言ってきたので、俺も一緒に出る為に荷物を持つ。自転車を使って構わないと言った幸慈の言葉に甘えて、行きは光臣を途中まで後ろに乗せて行くことにした。時間は光臣が自分で測ると張り切ってるから、事故に遭わない事だけ気にすれば問題ないだろう。自転車は当然通学登録してないから、学校の敷地内には停められない。近くの駐輪場を利用するしかないけど、この時間なら問題なく停めれるはず。玄関を出る時に、光臣の手の中にある弁当箱に口許が緩む。いつまでもそのままな気がした俺は、光臣のショルダーバッグに崩れないように中身の位置を整えてからファスナーを閉める。両手に持ったままだと、葵が自分にくれるのかもって勘違いする危険があるからな。幸慈に見送られながら自転車をこぎ始めた俺は、前かごの鞄が大きく揺れる度に弁当箱の中身が崩れないかと心配した。昨日一緒に作ったから、崩れる物は入ってないって解ってるけど、やっぱり見た目も死守したい。弁当にとって見た目は大事だからな。
「ゆっくり寝れたか?」
「緊張し過ぎたお陰か、疲れが勝って寝れた感じかな」
「はははっ、ベッタリだったもんな」
「幸慈が覚悟するようにって何度も言ってた意味が解ったよ」
「俺も。でも、良かった」
 緊張が全面に出た顔合わせだったら気まずいなって思ってたけど、あの二人にはそんなの微塵も存在してなかった。つーか、幸慈の母親のはしゃぎっぷりにこっちが身構えた位だ。あの母親だから、幸慈が冷静沈着に育ったのかもな。
「優しい人だね。嫌われないように頑張らないと」
「頑張るなよ」
「え?」
「頑張る以前に自覚しろって。と、赤信号か」
 赤信号で止まった俺は、振り向いて光臣を見る。
「めちゃくちゃ愛されてんじゃん。頑張る必要ねぇよ」
 俺の言葉に光臣は少し俯いて、頬を染める。
「そう、かな」
「そうだ。だから、嫌われないように、とか、考えんなよな。あの二人は光臣の家族で、あの家が帰る場所なんだからさ。遠慮なんて、向こうは求めてない」
「家族」
「なんなら、わがまま言いまくって欲しそうだったぜ」
「それは、言い過ぎじゃないかな」
 言い過ぎなもんかよ。
「なぁ、光臣」
「何?」
「小さな幸せどころか、でっかい幸せ手に入れたな」
「っ、うん!」
 言い過ぎなんて言うな。欲しくても手に入らないって諦めていた存在と場所が、両手を広げて目の前にあるんだぞ。甘えも怒りもわがままも全部ぶつけろ。産まれてくる腹を間違えたなら、やっと産声を上げたばかりなんだ。命懸けで泣き喚け。あの二人は、それを待ってる。絶対に。
 光臣の学校が遠目に見えてきた所で、目の前の道を塞がれてゆっくりとブレーキをかける。止まった事を不思議に思った光臣は前を覗き、あぁ、と、納得して自転車を降りた。間に合うかと聞くと、光臣は携帯で時間を確認する。全然余裕だと返事が帰ってきて安心した。送ると言った手前、間に合いませんでした、は無責任過ぎるからな。
「おはよー、光臣」
 俺が最初から居ないみたいに横を素通りする葵に息を吐く。光臣中心なのは良いけど、そんなんじゃ大事な事を見落とすぞ。
「お、おはよう、ございます」
「鞄ちょーだい」
「だ、駄目!」
 いつもは強引に葵の手に持っていかれる荷物も、光臣が拒否したことで触られる事すらなかった。
「光臣?」
 今までにない言葉に葵は困惑の表情を浮かべる。
「い、今は駄目。絶対駄目、です」
 弁当箱の存在を知っている俺は、その言葉の意味を理解出来るが、葵には当然伝わらない。今日は光臣にとっては大事なスタートラインみたいなものだ。簡単に今までと同じ事を選ぶ訳にはいかないといった意志が感じられた。俺はそんな光臣の頭を左手で撫でて、強く頷く。
「頑張れ、光臣。下を向かず、前を見てさえいれば、必ず見つかる」
「うん。ありがとう、雅」
 その言葉の今を受け止めた光臣は強く頷いた。それからすぐに心配そうな顔をして俺を見てきた姿に首を傾げる。
「あのさ」
「ん?」
「ここから雅の学校、遠くない?間に合うの?」
「あー、全然余裕(正直ギリだ)」
「そ、そう。なら良いけど」
「じゃ、俺行くわ。葵、後宜しく。じゃーなー光臣ー」
「うん。ありがとう。じゃーねー」
 手を振って余裕な演技をして自転車をこぎ出す。光臣の姿が見えなくなったのを確認して、スピードを上げて急いで学校へ向かう。しまいには、鞄が揺れる度に遅刻しても良いから無事に弁当を食べたいと思うくらいにまで、前かごが気になって仕方がなかった。学校に一番近い駐輪場に自転車を停めた俺は、学校の正門ではなく、一般科校舎側のブロック塀を乗り越えて登校する。正門よりも下駄箱に近く登りやすいと知ってからは、よく利用するようになった。今日みたいな日は特に。門の横で急かす教師も居ないし、一石二鳥。
「遅かったな」
 何でコイツは行く先々に居るんだよ。朝から会いたくねぇっての。
「五分前か。話す時間ねぇな」
「無くて結構」
 暢気に時計を見る大和の横を通りすぎると、いきなり右腕を引っ張られて、左足が宙に止まる。
「幸慈と同じ匂いがする」
 警察犬かよオマエは。
「色々あったんだ。厄除けの御守りがここまで効かないとは知らなかった」
 溜め息混じりに言うと、呆れた様に大和が息を吐く。
「雅と幸慈のコンビは何しても巻き込まれんのな。覚えとくわ」
 俺の頭を左手でポンポンとした大和は、手を離して特進科の校舎へと歩き出す。何をしに来たんだアイツは。てか、何で俺がここを使ってるって知ってたんだよ。気軽に使えなくなるじゃねぇか。不満を抱えてたせいか、鞄を気にしながら下駄箱へと走り出す俺の姿を、大和が不機嫌に見てるなんて気付かなかった。
「雅ー!後三分!」
「時間稼ぎしとけ!」
「無理だよ!」
 窓から叫ぶ薫の声に返事をしながら下駄箱へと駆け込んだ俺は、外靴を脱いで上履きと交換した後、履く時間を省き、それを手に持ったまま靴下で廊下を走り、階段を駆け上がる。教師の小言も適当に返事をして聞き流す。耳に届いたチャイムと同時にドアに手を伸ばしたが、靴下のせいでブレーキが効かず、そのまま廊下に背中から盛大に滑りけた。
「いってぇ!」
 廊下に響いた俺の声に教室のドアが開いて薫が顔を出す。
「おはよう、雅」
「てぇー。はよー、薫」
 薫の後ろに呆れた顔をした担任の早実はやみ康二こうじが俺を見て息を吐き、教室に入るように手招きする。
「努力に免じて今回は遅刻を見逃してやるから早く入れ」
みのるちゃん優しい!」
「雅、上履きは?」
「……あれ?」
 薫の言葉に上履きを持ってない事に気付いた俺は周りを見回す。階段付近に落ちてるのを見付けて取りに行くも、俺がそれを手に取る前に、予想してなかった人物に拾われた。
「楽しそうじゃねぇか」
 オマエの校舎はこっちじゃねぇだろ。
「大和だ。何しにしたの?」
 小走りで近付いてきた薫も、何で大和がいるのか解らないらしい。
「ホームルームはどうした?」
 実ちゃんが大和に聞くと、その言葉を待ってましたと言わんばかりの態度で、階段の死角から女が姿を現した。
「どうした?理事の姪に向かって、その言葉遣いは間違っているのではありませんか?それに、ホームルームなんてものは十五分前に終了しています」
「間違ってねぇだろ。生徒と教師なんだから。それに、理事の姪ってだけでアンタが偉い訳じゃねぇし。親戚の脛を囓ってないと生きれないとか、お先真っ暗じゃん。それに、この時間にホームルームをやるように決めたのは学校だろ。それを自分達の勝手なルールで早くに終わらせたからって、他のクラスに押し掛けて良い理由にはならないし、それくらいの礼儀、ランドセル背負ってる子供でも守れるっての」
 頭を軽く叩かれたと思って振り向いたら、実ちゃんに軽く睨まれた。
「白井、言い過ぎだ」
「良いじゃん。実ちゃんの事悪く言ったから言い返しただけだし」
 不貞腐れる俺の言葉を正当化するように、クラスの連中が実ちゃんの後ろに集まって、そうだそうだ、やら、もっと言え、といった後押しする言葉を男女共に投げてくる。実ちゃんはそれに息を吐き、教室に入るように言う。それに従ってブツブツ文句を言いながら教室に戻るのは実ちゃんの教育の賜物だ。
「あー、居た居た」
 暢気な言葉が聞こえて階段へ目を向けると、千秋が最後の一段を登り終えて足を止めた。
「千秋!」
 薫の姿を確認すると、千秋は薫だけに微笑む。それに頬を染めてキュンキュンしてる薫に溜め息を溢すと、大和がしゃがみこんで俺の左足首掴んで軽く持ち上げた。
「何だよ」
「穴開いてんぞ」
「へ?」
 言われて左足の裏を見ると、確かに穴が開いていた。
「まだ新しい方だったのに」
「雅の靴下って、よく穴あくよね。ワゴンでまとめ売りしてるのばっかり買うからじゃない?」
「ワゴンを馬鹿にしてるとワゴンに泣くぞ」
「泣かないよ」
 薫といつものくだらない話をしてると、俺の左足に上履きを履かせる大和の行動に、言葉が止まる。
「え、何?何か良いことあった?」
「どっちかってーと逆だな」
 逆?嫌なことあったら人に靴を履かすのか。変な性格だな。
「神川様がそこまでなさる必要はありません!」
 神川様!?どの時代の人間だよ。
「うるせぇよ」
「ですが」
「女の子には優しくしろって兄貴が言ってたぞ」
 左足を下ろすと、今度は右足を持ち上げられた。
「雅以外にとか面倒だろ」
「いや、上履きくらい自分で履けるって」
「千秋達はどうしてここに来たの?」
 気がつけば千秋の腕に頬擦りをしている薫の姿に頭を抱えた。学校では遠慮してるとか言ってるヤツの行動じゃねぇ。
「俺は忘れ物を届けにね」
 そう言って、千秋は何枚かのプリントを揺らして見せる。
「それ何?」
 薫の言葉を待ってましたと言わんばかりに、女は腕を組んで偉そうな姿勢を作る。
「決闘を申込みに参りましたの」
「「決闘?」」
 何が何だか。訳がわからない俺と薫は顔を見合わせる。千秋は薫に持っていたプリントを手渡す。それ、俺にもくれ。
「私が負けたら神川様の事は諦めますわ」
「……はぁ。あー、えっと……何?」
 頭が付いていかねぇ。何で大和が絡んでくんだよ。
「私情は挟むな」
 転んだときに付いた制服の汚れを大和が払い落としながら苛立った声を出す。それに女は気まずい表情をしたが、後に引けないのか軽く咳払いをして気持ちを立て直し強気の姿勢を取り戻した。
「で、では、そちらが負けたらあの教師を学校から追い出します」
「は?」
 俺の苛立ちに賛同するように教室のドアが勢いよく開いて、実ちゃんの言葉を無視して俺の後ろにクラスメイトが群れを作る。
「これくらいのスリルは必要でしょ?」
 上等だ、このアマ。喧嘩売ったこと後悔させてやる。
「オッホン。今年の交流試合に付いて説明します」
 これが交流って態度かよ。プリントを読む薫の説明に皆が耳を傾ける。
「毎年二学年の恒例行事として行われている交流試合ですが、今年は五月十四日に行うことに決定致しました。くじ引きで決まりました組分けをお知らせします。特進科A組と一般科二組、団体戦。特進科B組と一般科三組、個人戦。特進科C組と普通科一組、団体戦。競技は各クラス代表者が話し合いで決める事。時間と場所は競技によって後日決定します。以上、説明終わり」
「よく読めたね。偉い偉い」
「えへへ。もっと褒めて良いよー」
 バカ二人は放っておこう。
「競技はピアノなんていかが?お互いに三曲ずつ弾いて、観客の方に投票してもらった点数で勝敗を決めましょう。それ以前に、弾ける方はいらっしゃるかしら?」
 よりによってピアノかよ。スポーツを選んでこないのは、個人戦だからこその特徴だな。スポーツでなければならない、と、記載されていないのを逆手にとって、自分の得意な分野で挑む。そうすれば負けることはない。よくある考えだ。つーか、一方的にルールを押し付けてくるのは気に食わねぇ。互いに話し合って決めろって言葉はガン無視かよ。
「私が受けるわ。ピアノ習ってるし、コンクールだって入賞経験あるもの」
 岩井いわいの言葉に、皆が顔を見合わせる。普通の流れなら、このまま岩井に決まるんだろうな。
「入賞?可愛らしい。私、優勝したことしかないの。入賞で喜べる人の気持ちを知りたいわ」
 女の言葉に、岩井が目付きを鋭くする。
「何よその言い方!」
「これだから特進科は嫌いなんだよ!」
「女じゃなかったら殴ってやるのに!」
 口々に不満を言って騒ぎ立てるクラスメイトを他の教師が駆けつけいさめに来た。それに対して反発するクラスメイトをクスクスと笑う女に、実ちゃん以外の教師は誰も目を向けない。一緒に来た大和すら無関心でそこにいる。言葉は人を簡単に傷付けるし殺しもする事を、何で誰もこの女に教えないんだ。
「うるせぇ」
 少し声を張って口にするだけで、クラスメイトは口を閉じて俺の動向に注目する。
「人の努力を軽んじる言葉は反吐へどが出るほど嫌いだし、自分テメェのものさしで物事を決めつけるのも、他人面で目を背けるのも、全てが気に入らねぇ」
「ふふっ、たかだかピアノで大袈裟ですこと」
 笑う女は右手で口元を隠して笑う。俺はその右手を掴んで女を見下ろす。それこそ、殺したい位に。そうだな。たかだかピアノだ。でも、俺にとっては違う。
「たかだかをなめんじゃねぇ。俺がテメェに敗北を教えてやるよ」
「雅」
 大和の声に手を離して女に背を向ける。俺が教室へ入るのに続いて、クラスメイトも足を動かす。
「(雅ってば、また元カレの事でスイッチ入っちゃったよ)俺も教室戻るね」
「うん」
「雅が揺れてばかりなのは大和が不甲斐ないからだよ」
「ま、事実だわな」
「またお昼にね」
「うん!」
 教室に最後に入ってきた薫から改めてプリントを受け取った俺は、内容を読み直す。確かに薫が言った内容はあってる。クラスメイトが俺の席の周りに集まって勝つための策があるのか、と、聞きに来る。実ちゃんが他の先生に頭を下げ終え教室に入ってきた。
「オマエ等、連休明け早々問題は止めろ」
「勝つぜ。実ちゃん」
「は?」
「あんなヤツに、ぜってー負けねぇ」
「でも、彼女のピアノは確かに凄いわ。コンクールで何度も聴いてるから解る」
 優勝してる位ならそれも当然だ。
「なぁ、今からでも岩井に代わってもらおうぜ」
「いや、俺が出る。これは変わらねぇ。それに、岩井はコンクール近いんだから、そっちに集中しろ」
「え、何で知ってるの?」
「風の噂」
 そう言って、風の噂の本人である岩井の彼氏の六藤むとうにさりげなく視線を向けて、直ぐに戻す。
「なるべく相手の情報をバレずに集めてくれ」
「それなら新聞部が力になるぜ」
 確かに木谷きたに達新聞部なら情報集めやすいかもな。インタビューという名目で、俺達よりも立ち回りやすいかもしれない。
「でも、生徒の投票で決める、なんて持ち掛けてくる位だ。何か約束事を取り付けて事前に票を集めてる可能性もある」
 六藤の言葉に短く息を吐いた俺は、窓から身を乗り出して千秋を見送る薫の方へ顔を向ける。
「その可能性は、薫の友人に協力してもらえると助かるんだけど。薫ー、極秘で頼めたりする?」
 俺の質問に薫は満面の笑みで振り向いた。
「任せてよ!」
「薫にそんなすごい友達いるの?今度紹介してよ」
「駄目ー」
「ケチー」
 河内かわうちの頼みをすぐに断った薫の心境が手に取るように解る。
「後は選曲か。岩井、コンクールの映像あるか?」
「えぇ、あるわ。今日は無理だけど、明日直ぐに渡せるから安心して」
「相手は岩井を知っててピアノを選んできたんじゃないか?」
 とうとう実ちゃんまで会議に参加してきた。俺は実ちゃんの言葉に内心賛同する。ピアノでの勝負を吹っ掛ければ、コンクールでよく見る今井が選手として立候補すると踏んでいたに違いない。そして、自分はいつも今井の上の成績でコンクールを勝ち取ってきた。
「でも、私の事は知らないって感じの言い方だったわ」
「あの子、私と同じ演劇部なの。もしかしたら、そう思わせる為の演技かも。他のクラスの子に事情を説明して、部内で変な動きがないか監視してみる」
 立川たちがわの言葉に頷いて、他クラスに協力を仰ぎすぎると、そこからボロが出やすくなるから注意する様にだけ言っておく。木谷にも新聞部の部員に気を付けるよう声を掛けてくれと頼む。
「なぁ、雅。俺達にも何か出来ることないか?」
「私達にも何かやらせて。何もせず本番を待つなんて辛いわ」
 岡部おかべ村武むらたけの言葉に、皆が頷く。出来ること、か。あまり良い役割じゃないけど、言うだけ言ってみるかな。
「俺が苦戦してる感じの噂をさりげなく流してくれ。今井に代わってもらうべきだ、ともな」
 俺の提案に、皆は渋い顔をする。相手に少しでも隙を作らせて、練習の手を抜く位の余裕を持たせられれば、こっちの勝率がかなり高くなると伝えた。少し考えてから、岡部は小さく頷く。
「相手に隙を作らせるためだもんな。解った。気乗りしないけど、俺等にやれることなら何でもやってやる」
「ありがとな。それと、噂は少しずつ広げてくれ。当日が近付くに連れて、大きくしていく感じで」
 練習を始めて、すぐにクラスメイトが駄目だと噂を流すのはおかしい。練習を重ねて数日経っても成果が無い、と解った段階で流す方が違和感は最小限に抑えられる。
浅井あさい、吹奏楽だったよな?」
「えぇ」
「噂の出だしを頼みたい」
「えっ!?」
 俺の言葉に浅井は驚きの声を上げる。
「確かに出来の良し悪しは、吹奏楽が言った方が現実味があるな」
「もー、実ちゃんに言われたら逃げれないじゃない。でも一人は嫌だから、部活の子に前もって頼みたいんだけど」
「わざとらしさが出なければ問題ない。後で誰に頼んだかだけ教えてくれ。それから、誰か特進科に友達居たりするか?」
 俺の質問にポツリポツリと手が上がる。 
「悪いけど、友達の言動の中で、違和感を感じるような事があれば教えてくれ。アイツが正々堂々って言葉を知ってるとは思えないからな。必要以上の圧力を掛けられているなら、個人戦そのものを考えるように申請しねぇと」
「じゃ、俺は雅の為に練習場所を用意してあげよう」
「薫、太っ腹じゃん」
「実ちゃんの首がかかってるからね」
「あのやり取りマジなの?転職先探さないと」
 実ちゃんの言葉にクラスメイトがブーイングをかます。それを両手を叩いて止めさせた。張り詰めた空気に口角が上がる。
「よっしゃ」
 勝ちは見えた。
「実ちゃん、宜しく」
「OK」
 実ちゃんは強く笑って俺達を見つめる。
「俺達なら勝てる。締めてくぞ」
 実ちゃんは手を一度叩いて、会議の終わりを告げる。皆がその場でハイタッチをして、互いの気持ちを鼓舞し信頼を確かめ、勝利を誓い合う。各自が席に付くと同時に授業開始のチャイムがなり、実ちゃんは教室を出ていく。さっきの騒動の事で一時間目の授業は数分遅れで始まった。
 俺が立候補したことで、アイツの計画は崩れて最初から練り直すはず。俺の選曲や、どれ程のレベルまで弾けるのかを調べてくる事を考えると、学校での練習は避けた方が良い。でも、弾く場所があっても指導者が居ないのは厳しいな。触れてない期間がある分、不利なのは確か。場所は薫が千秋に頼むはず。でも、そこから先はどうする。教えてくれる人のつてはどこにも……幸慈。幸慈もピアノが弾ける。もしかしたら、一時的でも頼めるかもしれない。
『何でそんなに覚えるのが早いんですかね?先生の顔を立てるって言葉は知ってますか?』
 不貞腐れた先生の顔を思い出して緩む口元を左手で隠す。知ってるよ。でも、その顔が見たくて頑張ったんだよ、先生。たかがピアノを、馬鹿みたいにさ。窓からの風に、机の上のプリントが飛ばされて、拾う為に席を立つ。他にも飛ばされる何枚かのプリントが混ざって、自分のを探すのに時間が掛かった。机に置いた先から飛ぶプリントに皆が笑う。仕方なく窓を閉める為に手を伸ばすと、飛行機雲が長く続いていた。届くだろうか。雲と空の向こう、見えない空想の世界まで。一目でも、一夜の夢でも会えたらと。そう願って止まない惨めな自分に熱が冷める。ドアを閉める音に、現実の冷たさを思い出す。なぁ、幸慈。この気持ちは、どこに逃がせば良いのかな。


 待ち遠しかった昼休みを迎え、薫が何かを言いたそうな顔をしている事には、一切気付かない振りをして、鞄を持って教室を出る。いつもと違う弁当箱を鞄から持ち出したら、薫に何言われるか解ったもんじゃねぇ。それが幸慈からってバレたら、千秋が来る前に速攻取られる。駆け足で階段を上って、屋上へ真っ直ぐに向かう。いつも考え事をするときは必ず屋上に行く。馬鹿みたいに広い空を見れば、どんな悩みもちっぽけに感じるからだ。屋上のドアを開けて、建物の中へと吹き込んでくる風に目を閉じる。風の中に涼しさを感じて、まだ夏ではない季節の心地よさに、空を見上げて息を吐く。ドアをくぐって、左側のフェンスに背中を預けて座る。鞄から取り出した弁当箱を包む布巾の結び目をほどき、中を見て安堵の息を吐く。派手に転んだりしたから心配だったけど、中身は無事にあるべき場所へと収まっていた。弁当箱の中身を見て、ミニトマトがあったはずの場所に、人参のグラッセが入っていて頬が緩む。それを箸で掴んで、少し眺める。いつ作ったんだかな。サラダもポテトじゃなくてカボチャだし。本当、敵わねぇ。人参を一口食べて、絶妙な甘さに気持ちが和んだ。
「美味っ」
 薫がいたら絶対に取られてたな。それに、弁当箱も大きめのやつを選んでくれたから、おかずも多めに入ってる。うずらの卵が多くても問題ないのはこの為か。うずらの卵入り肉団子を食べて、肉そのものに味がしっかり付いてることに驚く。茜には勿体無いのも良く解る。俺は携帯を取り出して未来に電話をかけた。幸慈は携帯を持ってないから、連絡を取るには未来を間に挟むしかない。数コールで未来の声が聞こえた。
「やっほー。今大丈夫か?」
『やっほー。平気だよ。どうしたの?』
「幸慈に話があってさ」
『解った。ちょっと待ってね』
 幸慈と代わってもらうだけなのに、電話の向こうは一大事と言わんばかりに騒がしい。茜が騒いでるのだけは良く解る。待ってる間にカボチャサラダを完食した。
『もしもし』
「お、大丈夫か?」
『問題ない。今廊下に出たから少しは静かだと思うが』
「茜はどうよ?」
『聞くな。予想通りというかそれ以上と言うか』
 幸慈の言葉に乾いた笑いしか出てこねぇ。昨日の話でもあったけど、やっぱりと言うか、何と言うか。
「弁当ありがとうな。好きなもんばっかで美味くて幸せだわ」
『大袈裟だな。薫に取られてないか?』
「取られないように避難した」
『ふっ、何だそれ。ちょっ、おいっ、いきなり引っ付くなっ。未来っ、檜山どうにかしろっ』
 電話越しの騒動も今日だけは懐かしい気がする。この懐かしさが、これからは変わっていくんだな。光臣が幸慈の家族になって、環境も少しずつ変わって、慣れて、今度はそれが懐かしい物になる。俺は、いつまで想っていられるだろうか。
『悪いな』
 少し疲れた感じの幸慈の声に苦笑する。
「幸慈ロスの反動はすげぇな」
『笑い事じゃない。何かあったのか?』
「あー、実は……」
 俺は朝の出来事を話して、幸慈にピアノを教えてくれる人の心当たりはないかと聞いた。
『バァに頼んでみるか』
「バァ?」
『祖母だ。バァって呼ばないと怒るんだよ。今でも週に一度はピアノ教室を開いてるし、訪問で教えたりもしてるから頼んでみる。光臣も紹介したいからな』
「マジで!助かる!」
 まさかの返事にガッツポーズをした。これで触れてない期間もチャラに出来るくらいに練習すれば、勝ったも同然。待ってろよバカ女。テメェの鼻をへし折る準備は出来たぜ。
「あ、弁当箱と自転車返すの夕方とか夜でも良いか?」
『構わない。例の件、母さんも光臣も楽しみにしてる』
「お、じゃあ負けらんねぇな。新多木崎家に勝利を捧げるよ」
『ははっ、期待してる、てっ、だから抱き付いてくるなっ。悪いっ、また連絡する。未来っ、助けろ!』
『待って!ミーちゃん早まんないで!』
 茜の必死な声に吹き出して笑う。それを、笑いすぎた、と幸慈に怒られた。
「ははっ、悪い。じゃあな」
 切れた電話の静けさが少し寂しいと思うことが増えた。それが良いか悪いかは解らない。空になった弁当箱を鞄にしまって、フェンスに寄りかかって目を閉じる。風が気持ちいい。夏になれば、この風も嫌に感じるんだろうな。でも、夏の空は好きだな。先生に似合うあの空が、俺は好きだ。近付いてくる足音と気配に目を開けて、その出所に視線を向ける。
「起きてたか」
 幸慈が茜で苦労するなら、俺は俺で苦労するわけか。フェンスから背中を離して前屈みになって息を吐く。
「何かご用でしょうか?特進科の神川大和さん」
 眉間に皺を作った大和は、軽く息を吐き出す。
「嫌な言い方すんじゃねぇよ」
「間違ってねぇし」
「じゃあ、一般科の白井雅に用があって来ました」
「俺は義理人情で、さん、付けたのに」
「時代劇かよ」
 大和は左手に持ってたシュークリームを俺に差し出す。確実に甘党扱いされてんな。それを受け取ると、大和は俺の前に座り込んで盛大に息を吐く。いやいや、不幸を俺の前で振り撒くなよ。ただでさえ面倒に巻き込まれやすくなってんのに。
「神川さん、飯は?」
「それ止めろ」
「んだよ。つまんねぇ」
 俺はシュークリームの袋を開けて一口噛る。お、チョコチップが入ってんじゃん。少し苦めだけどクリームの甘さと比例して丁度良い。
「面白かったんか?」
「ちょっとな」
「ちょっとかよ。それどうだ?」
「チョコチップが入ってて美味い」
「そりゃ良かった」
 小さく笑って、俺の頭を左手で撫でる大和の手は、珍しくぎこちなかった。それが、何だか不釣り合いに思えて仕方がない。
「機嫌取りするくらいなら、最初から面倒事を連れてくんなよ」
「それは悪かった」
 黙ってただけのくせに、妙に反省してるのが不気味で仕方がない。そもそも、何であの女と一緒に来たんだ?大和の性格からして、面倒だから行かねぇ、とか言いそうなのに。
「ピアノ弾くんか?」
 大和の言葉に軽く身構える。
「スパイか?」
「ちげぇよ」
 シュークリームを半分食べると、チョコクリームが出てきて驚いた俺は、改めてパッケージを見る。ダブルクリーム、と書いてあるのを見つけて、なるほど、と、頷く。
「どうした?」
「チョコクリームが入ってる。ホイップとカスタードは解るけど、チョコは初めて食べた。シュークリームも努力しないといけない時代になったんだな」
 しみじみとシュークリームを口に含む。
「何目線だよ。本当、飽きねぇな」
「シュークリームに飽きるとかあんの?あー、大和は甘いの嫌いだから解んねぇか」
「(雅の事だっての)」
 この言い方だと俺が甘いの好きみたいに聞こえるな。最後の一口を無理矢理口に含むとチョコが口の中全体に広がって、息をするのが勿体無くなる。
「食えなくはねぇぜ」
 手にクリームが付いてない事を確認する俺の顎を、大和は右手で掴んで、唇の右端を軽く噛んできた。
「ん?」
 その行動の意味が解らない俺は、鼻が触れる距離に居る相手に、どうしたのかと聞く。
「クリーム付いてた」
 肌に触れる息が少し擽ったい。
「そうか。て、いや、もう少しまともな教えか……」
 言葉が続かなかった。確実に意思を持って口を塞いできた大和は、俺の開いた口の隙間を狙って、舌を送り込む。直ぐに突き放そうとした腕ごと抱き締めてきた大和の力に困惑する。全然押し返せねぇ。頭を反らして逃げようにもフェンスが邪魔でそれも出来ない。その間も口内を走る舌が酸素を奪う。溜まる唾液を何度も飲み込んでは、薄くなる酸素欲しさに鼻で必死に呼吸をする。
「はぁ、雅」
 腕が自由になった俺は、反射的に右腕を全力で振った。息を整えて冷静になった俺は、頭を抱える大和に気付いて驚く。
「どうした!?頭でも打ったか!?」
「たった今遠慮なく打たれたわ」
「マジか。幸慈にお母さんが働いてる病院紹介してもらうか?」
「(自分が殴った自覚無しかよ)」
「ボールは無いし、何だろうな」
 首を傾げながら、大和が痛めたであろう場所に触れる。直ぐに冷やすほどではないだろうけど、痛みが続くなら病院も行った方が良いかもな。普通に受け答えしてるし、意識もハッキリしてるから脳震盪のうしんとうは心配ないか。
「ま、腫れたら冷やしとけ」
 適当に判断した素振りの言葉を言って、痛めた場所を軽く突っつく。
「で、神川様は何であの女を止めなかったんだ?ピーチクパーチク煩くて鼓膜破けるかと思った」
「今のはわざとだろ」
「悪いと思うなら壊すもん持ってこい」
「今回はシュークリームで我慢しろ」
 俺にデコピンをして楽しそうに笑う大和は、ふっ、と、寂しげに目を細めた。
「雅が」
 俺?
「弾いてくれるんじゃねぇかって。当て馬でも何でも、俺がいたら、感情的になって、弾くって言ってくれる気がしてよ」
 言ったさ。えぇ、えぇ、言いましたとも。全てお見通しですか。そうですか。大和がとことん気に食わねぇヤツだと再認識した瞬間だった。不機嫌にしてきた張本人は、俺の右手を両手で包んで、そっと俺を見つめる。大和の弱さを見ているような気がして、突き放せなかった。
「リクエストして良いか?」
「リクエストって、個人戦の?」
「あぁ」
「……スパイじゃないなら」
 俺の疑う視線に大和は軽く笑って口を開く。
「愛の讃歌」
 大和からのリクエストは意外な曲だった。
「もし、雅の中に少しでも俺が居るなら、それを弾いてほしい」
 弾くかどうかを俺に任せられたような気持ちになって、眉をしかめる。
「それ、リクエストだよな?」
「一応な。弾いても弾かなくても諦めるつもりはねぇ。でも知りてぇんだよ。雅の中に、俺の居場所が有るのかをさ」
「無かったら、シュークリーム貰わねぇし」
「恋人として言ってんだよ」
 知ってる。オマエが俺を本気で想ってくれてる事は、ちゃんと解ってるさ。それでも、俺の中のどこかが揺れることはない。キスをされても、平常心で居られる。それが答え。それに、つい比べちまうんだよ。先生への気持ちと、大和への気持ちを。全然違うんだ。同じか、それ以上じゃないと、俺は怖くて、あそこから出られない。暗いホテルの一室。そこが、今も俺の恋人。出たいと思った事すらないのに、そこに明かりが点くなんて、別の誰かが居るなんて、考えたくもない。
「弾くよ。せっかくのリクエストだし。選曲悩んでたから、リクエストはありがたい。んー、後二曲か、どうすっかな」
「本当に解ってんのか?」
 解ってる。でも、それに向き合う資格はない。
「ラ・カンパネラは入れた方が良いよな。多分」
「マジか(難易度最高に高いやつだぞ、それ)」
「知らない曲よりかは、聞き覚えのある曲が良いよな」
「可愛くキラキラ星でも弾いてろ」
 負けろと言ってるようにしか聞こえねぇ言葉は無視した。いや、でもキラキラ星か。
「変奏曲」
「あ?」
 俺は立ち上がって左手を腰に当てて、右手を胸の前まで上げガッツポーズを作る。
「ふっふっふっ、勝ちは目前。あの女の鼻を木っ端微塵にへし折ってくれるわ。はっはっはっ」
「悪役感パネェな(まぁ、楽しそうだから良いか)」
「つーか、密偵位しろよ。まぁ、あの女が気に入ってるなら……」
「不気味な事言うんじゃねぇよ」
 不気味って。
「最後まで言わせろよ。つまんねぇな」
「月光、G線上のアリアのどっちかは弾くだろうよ」
 月光か。多分弾くなら第三楽章だろうな。でも、今回は難易度が高ければ良いってもんじゃない。どれだけ観客の心を掴めるかが鍵になってくる。平等な票が存在すればだけど。考え事を遮るように、バンッと音を立てて屋上のドアが開く。それを見て、誰が来たのかと思えば、会いたくないブッチギリ一位の煩い女だった。
「見つけましたよ、白井雅」
 フルネーム呼びかよ。俺の近くに座る大和の姿を認識した女は、驚いた後、悔しそうな顔をした。まだ勝負してねぇのに、負けたみたいな顔をされるのはどうなんだ。いやまぁ、大和に関しては女の失恋は決定事項だけど。
「神川様、何故その男と御一緒なのですか?今回の対戦相手ですわよ」
「個人戦だろ。俺には関係ねぇよ」
 鞄を持とうと手を伸ばすと、先に大和が鞄を掴んで立ち上がる。
「神川様の優しさに漬け込むのはお止め頂けます?」
 悪者俺かよ。矛先向ける相手が居ないからって、俺は止めてほしい。この女、本当に大和が好きなんだな。そして、俺が嫌い。
「どこが良いんだ」
「聞こえてんぞ」
 つい漏れた本音に、大和はちょっと不機嫌になった。愛想笑いだけ向けとこう。
「どうして貴方みたいな人に、私が。神川様の事がお好きでないのなら、今すぐお渡し頂きます」
 身勝手な言葉に息を吐く。なんか、茜の元婚約者を思い出すな。
「命は物じゃねぇ」
 俺の言葉に、女は微かに言葉をつまらせたものの、すぐに喋りだす。
「今回の勝負、私が勝ったら神川様とのご縁を切っていただきます。それは変わりません」
 何で俺だけに言うかねぇ。切った所で、オマエを選ぶ事は無いのに。それでもまだ、どこかで期待しちゃってんだろうな。可哀想。叶わないものを期待し続ける姿は、正直同情する。
「それは、どっちかってーと、大和に言った方が良いぞ」
「だな。付きまとってんの俺だし」
「自覚あったのか」
 驚いて大和を見ると当然の様に頷かれた。
「おしゃべりも大概になさい」
 原因誰だよ。この場を荒してんの一人なんだけど。
「まともな恋一つしたことのない貴方に、好きなんて気持ちは解らないでしょうね」
 女の言葉に眉をしかめる。何でテメェにそんな事を決めつけられねぇといけねぇんだよ。俺は女の前まで足を動かして、戸惑いの混ざった顔を見下ろす。
「まともって何?誰が決めんの?好きとか嫌いに理由って必要?」
「ひ、必要ですわ。好きだから、証明出来る気持ちがあります」
 何をどう証明すんの?本気になったら、気持ちに名前なんてつけられねぇっての。そんな簡単なものじゃねぇんだよ。本気ってのは。
「ふーん。アンタこそ、死にたくなるほど誰かを愛した事あんの?」
「え?」
 予想してなかった言葉に、女はアホな顔をする。
「アンタの好きは、俺には駄々っ子の恋真似にしか見えねぇよ」
 言われた事が恥ずかしかったのか、顔を赤くして睨み付けてきた。怖くもなんともねぇってんだよ。
「私の何を知ってますの!?何も知りもしないくせに偉そうに!」
 さっきまで自分で口走ってた言葉のくせに、言われるのは嫌ですってか。ガキだな。
「はっ、じゃあ、アンタは俺の何を知ってんの?」
 どちらも互いの事を何も知らない。自分の感情と物差しだけで、物事を喋っていたことに気付いた女の間抜けな面を鼻で笑う。どこで生まれて、育って、誰を好きになって、恋をして、愛を知って来たのか。俺だけのモノ全てを、知ったように言う女を殺せたら、どんな気分になるんだろう。
「知らねぇのに上から物言うなよ」
 右手を動かして女の首に当たるか当たらないかの所で止める。
「壊したくなんだろ」
「ひっ!」
 青ざめた顔をした女は、足を震わせてその場にしゃがみ込む。興醒きょうざめした俺は、ドアの向こうで様子を見守っていた、特進科のクラス連中に視線を向ける。怯えた視線を向けてくる姿に、息を吐いて大和を見ると、暢気に欠伸をしていた。特進科って退屈そう。
「大和ー、ストレス溜まったー」
「溜まんの早いなぁ。プリンか?」
 近付いてきた大和は、俺を宥めるように頭を撫でて、ドアの所に居るクラスメイトを睨んで道を開けさせる。プリンだけだと解消は無理だな。
「それと、肉まんと餡まんと唐揚げとー、ピザまんってあったっけ?」
「購買で直接言え。覚えらんねぇわ」
「いっそ学食にするか」
「ははっ、マジか」
「ど、どうしてっ」
 まだ何かを言おうとする女の根性には感心する。大和はその根性に免じて足を止めて振り向く。興味が無い俺は、何を食べるのか考えることに専念する。
「どうして、そんなにも、その男が良いのですか?女の私ではなく、その男が良いのですか!?」
 大和は学食のメニューを呟く俺の腰を引き寄せて女を見る。
「欲しいか、欲しくないか。それだけだ」
 単純明快で解りやすい。大和に引き寄せられたまま階段を下りる。歩き難い。学食がある階に付いて盛大に息を吐く俺を、大和は肩を揺らして笑う。幸慈は嫌われる原因が解らないと悩むが、俺の場合は心当たりが多すぎて悩む。現にまた嫌われた。別に好かれたい訳じゃないけど。今回は相手の自業自得が蒔いた種だし、俺の事が嫌いってのが前提での事だから、気にする必要すらない。でも、これが他の方へと向けられたら。そう考えるだけでストレスが溜まる。
「いやー、面白かったわー」
「面白くねぇ」
 腰に回ったままの大和の手を叩いて外させる。学食に向かう途中も、特進科の生徒が居るのが珍しいせいで、色んなところから飛んでくる視線に息を吐く。
「放課後の予定は?」
「ビッチリ埋まってる」
「練習か?」
「それ以外の大事なやつ。付いてきたらリクエスト弾かないからな」
「脅しかよ」
「マジの話」
 学食に入ると、食べ終わった生徒がポツリポツリと残って談笑してる位だった。食券の機械の前で足を止めて、何を食べようかと悩んで居ると、仲良くしてる学食のおばちゃんに呼ばれてカウンターまで近寄る。
「雅ちゃん、お腹の空腹具合は?」
「チョーペコペコ」
「カレーが結構余ってるの。頼んでくれたら大サービスするわよ。カツ付きで」
「マジ!?道子ちゃん愛してる!」
「まぁ、嬉しい。どんぶりで用意しちゃう!」
 スキップしそうな姿を、頬杖を付いてニコニコしながら見てると、大和がカレーの食券を一枚持って俺の隣に並ぶ。
「軽い愛だな」
 呆れた顔で食券をカウンターに置く大和の言葉に眉をしかめる。
「大事なコミュニケーションだろ。俺と話すことで大変な仕事の中でも、気晴らしになるならいくらでも言うっての」
「(俺には遊びでも言わねぇくせに)後二十分で食えんの?どんぶりカツカレー」
「カレーは飲み物って伝説知らねぇの?」
「伝説だろ」
「ふっふっふっ、本物だと証明してやるよ」
「そりゃ、楽しみだわ」
 カウンターに置かれたどんぶりカツカレーを、大和が近くのテーブルへ運ぶ。俺は道子ちゃんと投げキッスを送りあってから、カウンター横に置かれているレンゲを取って、大和の後を追う様に歩く。テーブルに座ると、大和がスプーンと箸のどちらを使うか聞いてきたので、レンゲを見せる。肩をすくめた大和は右隣に座り頬杖を付いて、俺が食べ始めるのを待つ。
「道子ちゃーん、いただきまーす」
「召し上がれー」
 レンゲにカレーを掬って一口頬張る。カレー独特のスパイスを控え目にするかわりに食べやすく、胃にも響かない軽さがお気に入りだ。入学した時は毎日食べてたのを思い出す。
「美味っ」
「(可愛い)」
 カツを半分食べてカレーが三分の二減った所で、薫が千秋を連れて食堂に駆け込んで来た。俺の姿を確認した薫は険しい顔で俺の所へ近付いてくる。
「ちょっと雅!携帯に何度電話したと……うわ、何この化け物カレー」
 顔を青ざめて後退りする薫を無視してカレーを口に運ぶ。
「(マジで飲み物見たいに食ってる)」
「しばらくカレー見たくないかも」
 そう言って薫は千秋に抱き付く。薫の言葉に、千秋は珍しく困った顔をした。
「今日、ドライカレーにしようと思ってたんだけど」
 夜の献立の心配か。
「食べる!千秋のは別腹だもん!」
「俺も薫は別腹」
 今の言い回しは何か妙な気がするけど、気にしない事にしよう。カツをたいらげた俺を、大和は感心したような顔で見てくる。カレーを食い終わってから感心しろよ。
「二人はどうしたんだ?」
「そうだ!雅、あの女と喧嘩した?」
 説明が面倒で大和から言うようにジェスチャーで伝える。
「したぜ。俺と雅が一緒に居るのが気に入らなかったみてぇで、色々突っ掛かってきたから言い負かしただけだ。雅が」
 最後の俺の所だけ力入れて言うの止めろ。
「はぁー、それか」
 項垂れる薫の姿に、俺と大和は顔を見合わせる。大した事してねぇんだけど、何をそんなに悩む必要があるんだ?
「予約したばかりの練習場所が急に使えなくなったんだよ。防音環境も整ってたから練習場所には持ってこいだったんだけど。それで、圧力をかけられるような事をしたんじゃないかって思ってさ。案の定みたいだね」
 千秋の言葉に笑いが漏れる。
「ははっ、ちっせー女」
 言い負かされたからって反撃がそれかよ。ダッセー。つい笑いが溢れた俺を見て薫は呆れて息を吐く。
「後八分」
「余裕余裕」
「みてーだな」
「このカップル暢気過ぎる」
 ご飯を食べきって、どんぶりを持ち上げ、残りのルーを飲み干し息を吐く。道子ちゃんの愛情のお陰でストレスも減ったし、美味い物食べて気分上昇。
「練習場所なら心当たりが有るからそっち行ってみる。他に圧力を掛けてないか調べられそうか?」
「出来るよ。薫の為だしね」
「はぁー、良い男」
 頬を染めて呟く薫の言葉に、千秋は満足したように微笑む。大和は俺の口元を紙ナプキンで拭いた後、食器を持って立ち上がった。俺は道子ちゃんにお礼を言うべく、慌てて立ち上がって大和を追いかける。
「道子ちゃーん。ごちそうさまー」
「はーい。お粗末さまー」
 道子ちゃんと少しコミュニケーションを取ってから席に戻ると、大和が俺の鞄を持ってドアの方へ歩き出していた。
「おい、鞄!」
 鞄の持ち手に手を伸ばすも、大和はヒラヒラとそれをかわして、俺の教室へと足を動かす。大和を教室に連れていくのって不味くねぇかな。朝の騒動の時居たし。まぁ、俺と薫の顔見知りって感じで認識はされてるけど。
「ピアノどこで練習するつもり?」
「そのうち解るよ」
「そのうちって、説明が面倒なだけじゃん」
 バレたか。まぁ、昨日の事を言う必要はないけど、幸慈の名前を出すと色々面倒な気がするから言いたくないだけ。光臣は大丈夫だろうか。葵相手にどこまで意志を通せるかが、これから先の選択肢において大切になってくるのは確かだ。たくさんの小さな幸せ、か。朝言われた事を思い出す。恥ずかし気もなく言えてしまう笑顔が凄いと思った。光臣の得られなかった愛を、あの母親なら真っ直ぐに注いでくれるだろう。葵からの物とは違う、母親の愛を。俺はどうだろう。小さな幸せそれを、いくつ見付けられるかな。一つを見付けることすら出来ないのに。窓の向こうの空は、夏にはまだ少し早い顔をして俺達を見下ろす。梅雨が開ければ、また、いつかの夏が俺にまとわりつく。それが待ち遠しい。下ばかりを向いていると、幸せのきっかけを見落とすらしいが、上ばかりを見るのが正解とも思えなくて、見おとした物はないかと、過去うしろを振り返る。何かを見つけたい。でも、何か、が、何であってほしいのか解らない。タラレバを並べる気にもなれなくて息を吐く。少し膨れた腹のお陰か、眠気が欠伸を誘った。午後の授業は、ほとんど夢の中だな。
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