カフェオレはありますか?

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 恋は甘酸っぱいものだと決まっているらしい。


ーカフェオレはありますか?ー


 世間ではG・Wと呼ばれる金色の連休が終わり、五月病と呼ばれる病を引きずった学生に混じりながらコンビニで買い物を終えた僕は肩から下げた鞄を抱え直し外へと足を向ける。店を出る時に入ってくる人と肩が軽くぶつかった僕は、すいません、と、謝って少しずれた眼鏡を右手の中指で直して学校へと続く道を歩き始めた。
 学校に着いて下駄箱から上履きを取り出して靴を履き替えていると、学校が少しざわついている気がしたが、休み明けという事もあって気が緩んでいる生徒がほとんどだから当然の事だと自己解決して教室へ向かう。
 廊下に生徒が多かったのと部活生徒が朝練をしてる事もあり、教室にはあまり人は居なかった。
 窓側から二列目の後ろから二つ数えた所にある自分の机に鞄を置いて荷物を机の中に移す。鞄の持ち手を机の横のフックに掛けて、本を取り出し栞が挟んであるページを開き読み始める。
 本を読んでいると、いつもより少し遅い時間に登校してきていた幼馴染の香山こうやま未来みきが僕の前にやってきた。
 未来は保育園の頃からふわふわしたクリーム色の猫っ毛と女の子のような見た目のせいで周りから軽い苛めを受ける事が頻繁にあって、そういうのが嫌いな僕は片っ端から殴っていっては相手を泣かせた。当然その度に叱られたが、未来だけは僕の手を取り、ありがとう、と、言って泣くものだから、僕は未来から離れられなくなってしまってからは今日まで良好な関係が続いている。
 今となっては僕、多木崎たきざき幸慈ゆきじの一番の良き理解者となった未来は、背を丸め158という男子高校生にしては小さい身長を更に低くして僕を見下ろしてきた。
 未だに幼さを残す顔色は良いものではなく、僕は眉を顰め読んでいた本に栞を挟んで閉じ、少し下がった眼鏡を中指で元に戻し未来と向き合う。
「何事?」
「ど、どうしよう幸慈」
「何も知らない僕に向かっていきなり解決策を求めるなよ」
「そ、そうなんだけどさ」
 未来はキョロキョロと辺りを見回してから僕の耳元に口を寄せてボソッと言った。
「か、鹿沼かぬま秋谷あきやくんと付き合うことになった」
 鹿沼秋谷。
 どこかで聞いたような名前に腕を組んで入学してからの記憶を辿り出した僕は、ようやく一つの答えに着地した。
「それって、僕の後ろの席で不良のトップの一人として君臨してるとか色々と物騒寄りな噂がたちこめているだけでなく、入学してからずっと授業をサボって学生としての義務を放棄している鹿沼秋谷?」
 僕が確認するように聞き返すと、未来は首が取れるのではないかと思うほどブンブンと縦に何度も頷いた。
「あ、でも授業には高確率で出てるよ」
 気が付かなかった。
「で?」
「きょ、今日の朝、告白されて、それで……」
 男から?とは聞かなかった。
 男子校にとってそんなことは質問しても無駄だと認識しているからだ。未来に頼まれて何度も告白現場にこっそり付き添って行った事か。まぁ、僕自身も何回か告白はされたけど、その場ですぐに悩まずに断るせいか、高校でも冷めた人間だと影で言われ始めた。
「あっそ」
「……それだけ?」
「頼もしいボディーガードができて良かったな」
「他人事みたいに言うなー」
 未来は僕にとってたった一人の友人だから本気で困っているなら相手が鹿沼だろうと誰だろうと助けてやりたいと思う。でも、今回はいつもと少し違う感じがする。そもそも、断るつもりなら必ず僕に相談をしてきただろう事を考えると、今回はかなり悩んだと捉えていいだろう。
 付き合う事になった後になっても悩む位なら、友達からにすれば良かったのに。まぁ、何を助言したところで手遅れに代わりはない。
 項垂れながら僕の隣りの窓側にある自分の席につく幼馴染みを尻目に、自分の鞄から弁当箱を取り出し未来の机の上に置く。それを見た未来の顔は笑顔に変わった。未来が笑うと周りに花が咲いているように空気が明るくなる。
「ありがとう。いつも助かってるよ」
「別にいいよ。暇だし」
 当然この学校にも購買はある。だが高校入学後の授業初日に一緒に購買へ行った際、未来は男子生徒で混雑する購買に一歩も入ることが出来ず、結局僕が未来の分も買う結果となった。その次の日、前日の結果をふまえ、購買で買うのは無理だろうと思った僕は、毎朝母さんの弁当を作るついでに未来の弁当を作って行く事にした。その結果、泣きながら感謝されたのを境に毎日弁当を作って持ってくるのが日課になり、今では家の台所には未来用の弁当箱が常備されている。因みに、自分の分の弁当は作らない。
「で、今日から昼は別々でいいのか?」
「何で?」
 質問の意味がわからないという風に首を傾げる未来に呆れながら、僕は自分の後ろの席を指差す。未来は質問の意味を理解したらしく、両手を胸の前でブンブンと振った。
「だ、大丈夫!約束はしてないから!」
 してないなら迎えにくるだろ。あぁ、でも、授業に出るなら迎えも何もないか。
「もし、誘いに来られたら一人で行けよ」
「何で!?」
「恋人同士の邪魔は良くないだろ」
「こっ!!」
 僕の言葉に、初心な未来は顔を赤くした。その表情は鹿沼のこと好きなんじゃないかと思わせるには充分だった。
 だったら何を悩んでるんだ?
「で、でも……」
「頼むから、僕を面倒事に巻き込んでくれるなよ」
「了解しました!」
 僕が声のトーンを落として言うと、未来は背筋を伸ばして元気に返事をした。
 その場に未来が居ても、他の奴と過ごさないといけないのは僕にとって大きなストレスでしかない。未来もそれを知ってくれているから無理強いはしてこなかった。
 未来は今からどうしようと悩んでいるが、やればできる子だから大丈夫だろう。
 そんなこんなで話をしているうちにチャイムが鳴り担任が教室に入ってきた。担任はいつも通り適当に出席を取って何か連絡を言っている。
 H.Rがいつもより長いというだけで気が重い。
「つーわけで、明日から一週間購買が休みになるからなー」
 担任の一言によって教室にブーイングが飛び交った。廊下からも聞こえると言うことは他のクラスも同じ状況だろう。まぁ、いつもコンビニで昼を買っている僕には関係のない事だ。
「幸慈はコンビニだけど、暫くはお店混むかもね」
「一週間位なら辛抱するさ」
「自分の分の弁当も作ってくればいいのに」
「自分のために作るのが面倒なんだよ」
「変なのー」
 え、普通じゃないのか?
 僕達が小声で話してる間にH.Rは終わったらしく、皆いそいそと体操服に着替え始めていた。
 そういえば、一時間目って体育だったな。
 僕と未来はロッカーから体操服の入った袋を取り出し、机に戻って着替え始める。五月の終わりとはいえ肌寒さが残っている事を考えた僕は上だけジャージを着てから、隣で着替える未来に視線を向けた。どうやら上下ともジャージを着るらしい。
 グラウンドに出るとクラスの奴はすでに整列していた。
 体育教師が短気で一度キレると面倒だと言うことを最初の授業で学んでいるからこその行動だろう。僕と未来もその列に並び教師が来るのを待った。
 始業開始のチャイムと同時に来た体育教師が告げた今日の授業内容は、終業のチャイムがなるまでひたすらグラウンドを走る、というもので、未来を含めクラスメイトの顔色はそれを聞いて悪くなっていく。訳もなくひたすら同じコースを走る事を考えれば当然の反応だろうな。にしても、この大人は人が苦しんでいる姿を見るのが好きなんだろうか。もしそうならなんて悪趣味の持ち主だ。
 開始の笛を合図に走り出した僕達は45分間をどうやって乗り切ろうかと苦悩を強いられた。
 最初からゆっくり走り出した生徒はさっそく罵声を浴びせられていた。罵声を浴びせてる暇があるなら手本で一緒に走れよと思うが、見るからにメタボを主張している体格には無理な相談だろう。自分が出来ないことを生徒に押し付けるのは最低な教師の良い例だな。これが保護者の耳に入らないのが不思議だ。PTAは名ばかりの集団だと言うのが良く解った。
 まぁ、年老いた人からすれば学校に行けるだけでも有難いとか、昔はこんな教育が当たり前だったとか頭が痛くなる説教をしてくるに決まってる。
「はぁー、ふぅー」
 走り始めてから十五分は経った頃だろうか。
 周りに目を向けると、皆のペースは徐々にではあるが目に見えて悪くなってきていた。
 隣りを走る未来は昔から運動を苦手としているが、きっちりとペース配分を考えて走ればどうにか大丈夫だろう。ま、さっき僕に合わせて走れってこっそり耳打ちしたから何とかなってるんだけど、この状況をいつまで体育教師が許すかが問題だな。最後まで目をつけられないと良いが。
「テメェらっ、何喋ってやがる!昼休みなくされてぇのか!」
 まぁ、今のところ別の奴らに注意がいっているらしい。
「ふぅー、はぁー……うわっ!」
「未来っ」
 何とか転びそうになる未来の体を支えたが、ヤバイと気付いたときにはすでに遅かった。
「テメェらっ!何サボってやがる!」
「す、すいません!」
 教師はイラついた顔で僕と未来の前に立ちはだかった。
 この顔は完全にキレてんな。躓いたくらいでいちいちキレないでいただきたいものだ。
「テメェらは昼休み抜きだ」
 まだ一時間目だというのに昼休み抜き宣言はどうなんだろう。昼休み終わるまで走ってろ、と言うなら体育が四時間目の日に言ってほしい。今日みたいに一時間目の時に言われても色々と中途半端過ぎて面倒だ。
「そ、そんなぁ」
 教師の言葉を聞いただけで未来の目に涙が滲み出した。未来は本当に昼休みが無くなると思ったらしい。そんな事はさせないのに。さて、未だに一方的に話を続けるメタボをどう黙らせようか。
 未来はメタボの迫力に堪えられなくなり始めたらしく、俺の右腕にしがみついてきた。それがメタボの癪に触り、男の癖に情けないと指を指す始末。やばいなー、僕の方がキレそう。
「ちょっと躓いただけなんです!ちゃんと走りますから!」
「んな言い訳聞いてねぇんだよ!」
 正当な理由だろうが。キャンキャン犬みたいに吠えやがって。
「男の癖になよなよとみっともないヤツだなぁ!」
 あぁ、うるさい。もう限界。
「そんなのっ……て」
 未来が言い終わる前に体育教師は腹を抱えるようにしてグラウンドに蹲る。
「ゆ、幸慈」
 僕を見上げる未来の口元は引きつっていた。僕が体育教師の腹を勢いよく蹴り飛ばしたんだから当然の反応だろう。手は出していないと証明する為に短パンのポケットに両手をしまった。
「ぐぅ、多木崎ぃ、教師にこんなことして、ただで済むと思ってんのかぁ!」
 うるせぇ。
「先生こそ、マラソンの途中で前に立ったりしないで下さい。それじゃ、蹴られようが踏まれようが文句は言えませんよ」
「き、貴様ぁ」
 生徒を名前ではなく、貴様、と、呼ぶのは教師としていただけない。
「僕が自分を保っている間に避難したほうがいいですよ」
 僕の言葉に苦虫を噛み潰したような顔をした男は腹を抱えて立ち上がり胸倉を掴んできた。その形相ぎょうそうが可笑しくて鼻で笑うと、胸ぐらを掴む拳が震えだす。
「何を笑ってやがる」
「みっともないのはどっちだって話ですよ」
 もう一度蹴ってやろうと思って右足を軽く上げると、それと同時にどこからか拍手の音が聞こえてきたので蹴るのを止めた。近づいて来る音の出所が校舎の方からだと解って、その方向に視線を向ける。向けた先には知らない学生が二人居て、こっちに向かって歩いてくる事だけは理解できた。
 一人はショートの赤い髪をワックスで軽く後ろに流していて黒い目は鋭い。もう一人はセミロングの髪を金に染め、目はカラコンを使っているのか緑だった。二人とも、憎いくらいに背が高い。僕も低い方ではないが、それでも高いと思うほどの身長差だ。てか、誰だアイツ等。
「か、鹿沼君」
 未来の言葉が耳に届いた頃には、僕のジャージから教師の手は離れていた。ジャージの掴まれてた場所を手で払って軽く整えて息を吐く。さっきまであんだけ偉そうにしてたのに、不良二人が現れただけで顔面蒼白になるとか、どんだけだらしないんだ。本当、みっともないのはどっちだろうな。
「わっ!!」
 隣から聞こえた声に目を向ければ幼馴染が不良に米俵の様に担がれていた。行動から察するに赤い髪の不良が鹿沼秋谷か。あの目に恐怖を感じずにきちんと向き合ったのかと思うと、未来の成長を感じて心がジーンとした。親の気持ちとかこんな感じだろうか。
「授業中だぞ!」
 未来が言うには鹿沼秋谷の授業出席頻度は高いらしいが、全く記憶に無い。他人に興味がないと、あれだけ目立つ人間も認識しないのか、と、自分の視野の狭さに感心する。
 教師のプライドを奮い立たせ、授業に戻れ、と言う体育教師を一瞥した鹿沼の目は鋭く、一目で苛立っているのが解った。恋人が皆の前で侮辱染みた事を言われれば怒るのは当然。怒らなければ僕が殴りかかってただろうし。
「怪我したら保健室だろうが」
 保線室に連れて行ってくれるらしい。それは有難いと思って賛同する様に頷く。
 今のやり取りで命の危機でも感じたのか、校舎に向かう後姿に対して体育教師が再び声をかけることは無かった。一分もないやり取りの中で急に老けた体育教師に呆れて息を吐く。
「未来の制服は教室だからなー」
 僕の言葉に鹿沼は空いてる方の手を肩まで上げて軽く動かす。未来の事を本当に大切に想っている様でなにより。躓いただけで怪我はしてないと思うが、僕と一緒に走り続けるよりは彼氏と一緒に居たほうが良いだろう。
 視線を前に戻すと、そこに体育教師の姿は無く、代わりに金髪の不良が立っていた。
「キミ面白いねー」
 その顔は、とても楽しそうに笑っていた。
 僕は家族と未来以外の人間と親しくなるつもりは無く、お約束のごとく不良の横を通り過ぎて授業に戻る。僕が走り出した事で、周りの生徒もポツリポツリと走り出す。
「待ってよー」
 なんで付いて来るんだ。オマエも早く保健室行けよ。来るなと言う意味を込めて走るスピードを速めて、前を走っていた五人を追い抜く。
「ちょっとー、無視はよくないよー」
 追いかけてくる足音と声に、僕は構うことなく更にスピードを速める。それでも付いてくる姿は流石と言うべきかなんと言うべきか。そんな状況下で、今更ながら制服で体育に参加する人間っているんだな、と、暢気に思ってしまった。
 今日の夜ご飯はどうしようか。明日の弁当にも使えるものでないと不便だよな。そんなこと思って走っているうちに授業の終了を告げるチャイムが響く。
 僕はクラスの奴らが教室に戻る中、体育教師に当然のように呼び出されて放課後のプール掃除を言いつけられた。未来にも伝えておけと言われたけど、保健室に行くのも面倒だ。まぁ、教室には帰って来るだろうから、その時に言えばいいか。問題は、未だにニコニコしながら後ろを歩く不良。
 下駄箱で靴を履き替える時も教室へ向かう時も何故か僕の周りにクレーターが出来たかのように人が離れていった。教師を蹴った位でこんな反応が返ってくるとは思えない。何が原因か解らないまま教室に戻った僕は、机の上に置いてある制服に着替え始めた。
「きゃー、大胆」
 僕が短パンを脱ぐと不良は女子の真似をするように茶化してきた。それから着替えを進める度にふざけた口調で喋る不良に苛立ちながらも怒ったら負けだと思い無視を決め込んだ。
「俺、ここまで無視されたの初めて」
「日頃の行いだな」
「あ、おかえりー」
 聞き覚えのある声に視線を向けると鹿沼が立っていて、その隣には体操着の入っているであろう袋を抱えた未来がいた。どうやら保健室で着替えたらしい。
「授業大丈夫だった?」
 心配そうに聞いてくる未来に小さく頷くことで答えた。
「放課後プール掃除だって」
「えぇ!」
 そらそういう反応にもなるだろう。
 プールは水泳部の奴らしか使わないし、時期的に言えばまだかなり速い。つまりは、今日掃除しても意味がないと言うことだ。
 僕はワイシャツのボタンを止めながら、母さんに帰りが遅くなることを連絡しないといけないのが面倒だと思い溜め息を吐いた。面倒だが何も言わなかったら説教を長時間くらう事になってしまう。
「手伝うか?」
 それは有難い。
「だ、大丈夫!」
 そこは言葉に甘えてほしかった。恋人の申し出を正義感で断った未来に内心で肩を落とす。
「そ、それに、悪いのは俺だし」
 悪いというのは躓いたことを言っているのだろう。鹿沼は落ち込む未来の頭を撫でた。鹿沼の手が動く度、ふわふわしている未来の癖毛が揺れる。綿毛みたいだな、と、いつも思う。
「誰も悪くない」
「うぅー、でもー」
「悪くない。掃除だって本当はする必要はない。未来は優しすぎるんだ」
 鹿沼の言葉に同意するようにして頷く僕を見て、ようやく罪悪感が薄れたのか、未来は顔を上げて少し笑った。
 それに安心した僕はベストを着て上着を羽織る。少しずれた眼鏡を中指で直しネクタイをしようとブレザーのポケットに手を入れたが目的の物は無く、無いと解っていながらも他のポケットに手を入れると、小さな封筒がブレザーの内ポケットから出てきた。
「ネクタイは?」
「今はいい。無駄に走ったから息苦しいんだ」
 僕は封筒を内ポケットに戻し、袋に体操着を入れロッカーにしまう。それと同時にチャイムが鳴り教室のドアが開いて教師が入ってきた。
 この日の二時間目にして初めて僕の後ろと未来の後ろの席は埋まったのだと認識して思う事が一つ。僕が認識する中で、今日初めてめでたくクラス全員が揃ったかもしれない、と。だが、喜ばしいはずのクラスメイトの顔色は悪く、教師は噛み噛みで授業をするという謎の現象が起こる事となった。お陰で内容が全く頭に入らない。授業を諦めて教科書を閉じ、机にしまっていた本を取り出してしおりを挟んだページを開き読み始めた。横から未来が何か言っているようだったが、そんなの知ったことではない。
「た、多木崎。先生の授業はそんなに退屈かな?」
「はい、退屈です。そんなに噛んでばかりだと頭に入りません」
 シンッと静まり返った教室の空気をぶち破ったのは一人の笑い声だった。
「ブッ、あははははははっ、ひー、はははっ、もう最高!つか、多木崎って言うんだね、キミ(この子が多木崎くんね。噂通りだわ)」
 だったら何だって言うんだ。ゲラゲラと笑う声が耳障りだと言うように息を吐き、本を片手に席を立つ。
「廊下に立ってます」
 そう言って教師の返事を待たずに教室から出る。廊下に出て教室側の壁に寄りかかって読書を再開する。読み褪せた手の中の本を見て、深呼吸をするように瞬きをしてから、ゆっくりページを開く。この本も何回目だろうか。
「なーに読んでんの?」
 なんでオマエまで廊下に来るんだ。呼んでない来客に眉をしかめ息を吐くが、苛立ちはまとわりついたまま消えてはくれない。
「んー、俺は何で多木崎くんに避けられてるのかなー?」
 気安く名前を呼ぶな。親しげに話しかけるな。そんな事を許可していないし、未来の彼氏の友人だからと言って親しくしなければいけない決まりもない。
「多木崎くんってー、見た目によらずクレイジーだよねー」
 だったら何だ。クレイジーの何が悪い。文句があるなら関わるな。
「何、殺してほしいの?」
 男を睨み付けると、細められた目の前の瞳は無感情に揺れ、その口元は綻ぶ。
「はっ、俺を殺せるとでも思っ……へぇー」
 男が喋り終わる前に、僕はブレザーのポケットに入れていた折りたたみナイフの先端をそいつの首元に当てる。驚いたような顔をした男は、次の瞬間には面白いものを見つけたと言わんばかりの笑顔を向けてきた。自分自身、狂っていると言う自覚はある。でも、コイツも別の意味で狂っているのかもしれない。でなければ、こんな顔はしないだろう。
「常にナイフを持っていないといけない理由って何?」
 そう言ってナイフの刃先を右手で摘まむ姿は、無言で僕を知りたいと伝えてくる。
「関係ないだろ。二度と話しかけるな」
 僕はナイフをしまって本に視線を落とす。それからチャイムが鳴るのと同時に本を読み終わるまで、男は黙って僕の隣に立ち続けた。その理由すら、興味がない。
 授業が終わったのを確認して教室に戻り、僕は未来に軽く怒られながらもノートを借りれる事になった。
「未来ちゃん聞いてよー」
 未来の事を名前で呼びながら、最初から親しかったみたいに話しかける姿から離れるように席に付く。
「気安く呼ぶな」
「えー、じゃあ……ミーちゃん聞いてよー」
「み、ミーちゃんって俺のこと?」
 困惑気味な未来に構わず男は話を続ける。相手を思いやれない自分勝手なヤツだ、と、認識するのに時間はかからなかった。
「なんかー、多木崎くんにスゲー嫌われてるんだよねー。何で?」
 それは未来に聞くことではないと思う。僕に聞かれても嫌だが。
「だから、日頃の行いだろ」
「日頃の行いって言うけど、秋谷だって俺と同じことしてきたじゃん。なのに自分はちゃっかり恋人作っちゃってさ」
「こ、こいっ」
 男の言葉に未来は顔を真っ赤にした。まぁ、僕と違って箱入り息子みたいなもんだから当然の反応か。未来が恋人の友人にからかわれている間に席に、僕はブレザーのポケットから携帯を取り出しメール画面を開く。
 確か、母さんは今日十八時に仕事が終わるんだったよな。二人でプール清掃となると、未来を家に送る頃には暗くなってるから、夜飯は外で食べた方が良いかもしれない。確か冷蔵庫に弁当のおかずの残りと冷凍しといたご飯があったな。鍋に昨日の味噌汁が残ってるから、母さん一人分なら丁度いいだろう。考えが纏まった僕はメールを作成して母さんに送信して携帯をポケットにしまった。
「……じ、幸慈ってばっ!」
「何?」
「何じゃないよー、さっきから呼んでるのに」
「誰が?」
「俺が!」
「「ブッ」」
 後ろを振り向くと不良二人が腹を抱え肩を震わせていた。不良が笑っただけでクラスが少しざわついた事に息を吐く。そこまで大層な光景ではないだろうに。そんな中で未来は顔を赤くしながら僕を睨んだが全然怖くない。
「で、何?」
「もぉー、それはこっちの台詞だよ。どうして檜山くんの事を無視してるの?」
「誰それ」
「えっ!俺のこと知らないの!?(予想外過ぎる。学校の連中は皆俺の事知ってると思ってたのに。新鮮過ぎ)」
 どうやら騒がしい男の名前らしい。前のめりに聞いてくる男の顔を押し返し眉をしかめ未来を見る。
「不必要だろ」
「ブッ」
 僕の言葉に鹿沼は再び笑い出す。その横で金髪は目を見開いたまま固まっていた。未来は額に左手を当てて溜め息を吐く。
「もぉ、またそれ?そんなんだから入学してから未だに友達できないんだよ!」
「別に困らないし」
「むぅー」
 頬を膨らまして睨んでくるが効果は全く無い。膨らんだ未来の頬を突いて遊んでいると、鹿沼からの視線がどんどん痛くなり始めたから止めた。
「簡単に言えば俺を必要な人間として認識してもらえれば良いってことだよね」
 あり得ない解釈に吐き気がする。
「相変わらずポジティブだな」
「俺だったら絶対凹んでる……檜山くんの精神って逞しいんだね」
「ヒーくんって呼んでね、ミーちゃん」
 どうやら厄介なのに懐かれたらしい。
 まぁ、誰に懐かれようが僕が僕で無くなるわけではないし、檜山とかいう男もそのうち飽きるだろう。
 勝手に自己解決した僕は未来から借りたノートを広げ自分のノートに写す為にペンを取って、一度内容に目を通す。昨日予習した分と解釈は同じだな。
 未来のノートはとても見やすくて、黒板に書いてなくても教師の言葉の中から大事だと思ったものをきちんと聞き取ってノートの隅に書き綴ってあるからかなり助かる。そしてそのノートを見ながら更に見やすく書き写すのが僕だ。僕のノートを参考に勉強をするのが未来のテスト対策となっている為に手を抜けない。
「うわっ、ミーちゃんのノートめっちゃキレー」
「そ、そんなことないよ。幸慈の方が字も綺麗だし見やすいよ」
「いや、俺とあかねには不可能なことだ。もっと胸を張っていい」
「あ、ありがとう」
 照れながら俯く未来の頭を撫でながらバレない程度に髪で遊ぶ様子から察するに、鹿沼はふわふわの髪が気に入ったらしい。
「ちょっとー、俺のこと放置?つか、下の名前で呼ぶなって何度言えばわかるんだよ!」
「ほ、放置なんてしてないよっ」
「うるせぇ」
 鹿沼の意見に内心頷きながら、静かにならない現状に苛立ちが募る。
「な、名前で呼ばれるの嫌いなんだね」
「女の子みたいで好きじゃないんだ。ミーちゃんは似合うけど、俺には似合わないでしょ」
 それ、未来が女みたいって意味に聞こえるが、俺だけだろうか。
「そうかな」
「そうなの」
 止まないコミュニケーションのおかげで集中できない。ノートに書き写しても頭に入らなければ意味がないのに。仕方がないから、今は写すことに集中して昼休みにでも教科書と見比べながら勉強する事にしよう。
 当然の如く一時間分のノートは短い休み時間では写しきることは出来ず、実習となった四時間目にようやく写し終えた。
 ノートを未来に返そうと隣に目を向けると、自習課題と睨めっこの最中で息を吐く。課題の事を忘れていた。内容に目を通すと、明らかに高校一年生よりも上に向けた問題ばかりが並んでいて眉をしかめる。未来には無理だな。やれば出来る子だが、数学だけは何をしても出来ない。テストではいつも僕の勉強時間を全部投げ出してようやく赤点を回避出来るくらいなんだから重症だ。そんな未来に解ける問題ではないのは一目瞭然。
「未来、ノートありがとう」
「どういたしまして」
 ノートを渡すついでにプリントに視線を落とすと、予想通り全問不正解だった。だが、無理矢理に答えを導き出している。目の前の答案に眩暈がした僕は自分の机を未来の机にくっつけた。
「幸慈?」
 未来は僕の行動が理解できないのか不思議そうに首を傾げた。
「首を傾げている場合じゃない。どの公式を使ってどう解いてこの答えになったのか説明しろ」
「?えーっと、これは……」
 未来の説明を聞いているうちに眩暈を通り越して頭痛がしてきた。
「よ、よくその公式で答えを導き出そうとしたな」
「?答えならちゃんと導き出してあるよ」
「普通はその公式じゃこの問題は解けない」
 僕の言葉を理解したのか未来の顔がどんどん青ざめていき、急いで消しゴムをかけだした。
「ミーちゃんって勉強苦手なの?」
「数学だけズバ抜けて駄目なだけだよ!」
 いまのは威張るところじゃない。
「喋ってないで手を動かせ。プール清掃だけでなく補習まで追加されたら一週間弁当抜きだからな」
「が、頑張る!頑張るからそれだけは嫌だー」
 だから、僕にしがみ付いて懇願してる暇があるなら手を動かせ。
「弁当?未来は弁当なのか?」
「えっと、あの、初日に購買に行ったんだけど全然買えなくて」
「食べなかったのか?」
 過去の事だというのに未来が食べれなかったかもしれないというだけで鹿沼は真剣に心配しだした。思い出話に花を咲かせるのは後にしてもらいたい。
「幸慈が買ってくれたから大丈夫だった。それで、次の日から幸慈が俺の弁当作ってきてくれるようになって」
「えー!!なにそれー!いいなー、俺も食べたーい!ミーちゃん今日のご飯交換しよー」
 オマエ等、自習といえども今は授業中だぞ。少学一年生でも大人しく授業を受ける事が出来るというのに、何故この高校一年生にはそれが出来ないんだ。
「二人は購買なの?」
「あぁ」
「じゃあ、明日からはコンビニ?」
「「何でコンビニ?」」
 未来の質問に二人は不思議そうな表情をした。そうか、この二人は朝居なかったから購買が休みになることを知らないのは当然か。
「明日から一週間購買はお休みなんだよ」
「「は?」」
 予想通りの反応に僕は息を吐いた。
 けれど、金髪のやからは何を思ったのか急に立ち上がって拳を握り締め満面の笑みで僕を見る。嫌な予感しかしない。
「それこそ好都合!多木崎くん、俺の分の弁当も作って!」
 なぜそうなる。立ち直りの早い馬鹿の提案に僕は無視を決め込んだ。立ち直るほど落ち込んですらないか。
「わー、ピクニックみたいで楽しそう。幸慈もしたいよね!」
 なんで賛同してんだ。僕がやりたい前提で話題をふってくるのは止めてほしいと何度も言っているのに、未来は懲りずにそれを続ける。僕の為と思ってしていると解るが、他の人と繋がって欲しいと思う未来の気持ちが見える度に、息苦しさが増して辛くなる。
「全然」
「「なんでー!?」」
 オマエ等、生き別れの兄弟なんじゃないのか?と言いたい気持ちを簡単に飲み込んで、僕は三人を無視したまま自分の課題プリントにペンを走らせる。なんだ、簡単じゃないか。引っ掛けもあるのではないかと思ったが、それはなくあっさりと課題を終わらせてしまった。時計に目を移し時間を確認する。どうやら十五分で問題を解き終わったようだ。周りを見回して他の生徒も簡単に解いているのかと様子を観察したが、僕以外プリントが終わった奴がいないらしい。そんなに難しいものだったろうか。教卓の上には提出箱と書かれたダンボールが置いてあるため、僕はプリントを片手に席を立ちダンボールに入れようと前に向かう。プリントを出そうとしたら教卓の目の前に座る奴と目が合った。その目には、まさか解けたのか?、と、プリントを写させてくれ、の二つの意味があると察したが、僕は無料で他人を助けるほど親切じゃない。
「五百円」
 そう言って僕が手を差し出すと慌てたように財布から五百円を取り出す。そのやりとりを聞いた他の奴も財布を出し始め、中には割り勘しようと仲間同士話す声も聞こえた。
「ちゃんと提出しとけよ」
「わかってるって!マジ助かる!多木崎って良い奴だな」
「嫌な奴です」
「は?」
 プリントを見せたくらいで調子に乗るな。
 席に戻ると未来と不良二人以外の奴が金を持ってきた。中には当然割り勘の奴もいたけど。まぁ、これで昼飯代はしばらく余裕だな。
「もー、無料で見せてあげればいいのに」
「断る」
「友達はお金じゃ買えないんだよ」
「必要ない。それに一時的なら人の心は買えるさ。今のが良い証拠」
「ピコーン!閃いた!」
 また煩いのが喋り始めたと思ったら、僕の席の前に来て顔を近付けてきた。
「材料費俺が払うからー、べんとー作って」
 断る。僕はそっぽを向く事で拒否した。
「未来、俺のプリント写せ」
「そ、そんな悪いよ!」
「S大レベルの課題を押し付ける教師が悪い。だから遠慮しなくていい」
「S大!?」
 鹿沼の言葉にどうりでクラスの奴が困ってた訳だと理解した。高校一年になったばかりの生徒にどんな問題出してんだよ数学教師、と、ぼやく声が聞こえて同情した。三年の進級組みと間違えてるんじゃないのか。それより、そんな問題を無理やり公式に当てはめて間違っていても答えを導き出した未来はある意味凄いのでは。
「多木崎くーん、聞いてるのー?」
 聞いてない。目の前の男を無視して席を立った僕は潤った財布をポケットに入れ、古文の教科書と写し終わった自分のノートを持って教室を出た。
 目的地は購買、と普通なら言うところだが、三時間目の今、購買はやっていない。今の僕の目的は購買の隣にある自販機。この学校の素晴らしいところはおにぎりやパンが自販機で売っているという事だ。当然購買の方が種類は多いが未来のように購買に行きたくても行けない生徒には有難がられている。まぁ、未来はその自販機にも近寄れなかったけどな。
 この学校の素晴らしいところが自販機なら、そうでないところは無駄に広い敷地だ。未だに行ったところがない場所があるくらいに広いこの学校は、創設者が生徒達に不憫な思いをさせないようにとの親切心でこの広さになったとか見学に来たときに言っていた。どれほど施設を整えても使う人間が愚かなら意味がないと何故悟れなかったのか不思議でしかない。プールの場所すら把握してないのに掃除までしなければいけないのは胸くそ悪い話だ。
 購買の前に貼られている貼り紙に目を止めて息を吐く。文化祭、の文字が僕にストレスを与える。この学校は昔体育祭で大きな喧嘩が起きてから、危険なことは避けるようにと体育祭が廃止となった。その反動で文化祭には恐ろしい程の力の入れようだと、去年の学校見学で見せてもらった映像に流れていた光景に頭を抱えたのを思い出す。休みたい。項垂れながらいつも使う自販機の前まで足を動かすと、新作、と、シールの貼ってあるパンを見つけた。こんなクリームを塗り込んだだけの物の何が美味しいのか解らない。財布から大量にある五百円玉を一枚取り出し投入口にいれ適当にパンを買い、別の自販機でお茶を買って教室ではない目的地へ向かう。どうせ食べないで終わるパンを形だけでも買うのは、未来に小言を言われるからであって、それがなければこんな無駄な買い物はしない。
 窓の外は五月特有の空模様で、これから梅雨に向かって動き出すのだと思うと足が重くなる。古傷が痛むとは上手く言ったものだ。嫌でも来るなら、早く去ってくれる事を願うしかない。逃げ場のない暑さの方が、痛くなくて楽だ。
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