一年だけの契約結婚だと思っていました

村井田ユージ

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「えーと、確認するけど──これは愛のない結婚だから」

 そう言って、ジェイド・ベリンガム公爵は一通の契約書を差し出した。
 ひどく面倒くさそうに、長い指で無造作に一行を叩く。

『契約期間:一年』

 その文字を見た瞬間、私は心の底からほっと息をついた。

「ええ、承知しています。一年だけ“妻”を務めればいいのですね」

「その間、社交は最低限。感情的な関係も不要。」

「結構です。私も、それを望んでいますから」

 即答した私を、彼は一瞬だけ訝しげに見た。
 だがすぐに興味を失ったように、視線を外す。

「そ。話のわかるお嬢さんで良かったよ。えーと、名前……なんだっけ?」

「サラ・エヴァンスです」

「あ、そうそう。……サラだったよね。じゃ、そー言う事なんで。明日から嫁いで来て」

「じゃあ、またね」と軽い口ぶりで言い残し、公爵はひらひらと手を振って去って行った。

「ふむふむ……。噂通りの癖のある男ね。まあ、いいわ」

 サラは手元の契約書をもう一度見つめ、人知れずニヤリと笑う。

 ・本契約は一年間
 ・互いに私生活へ干渉しない
 ・社交は最低限
 (必要に応じて対応すること)
 ・肉体関係は持たない
 ・感情的関係を期待しない
 ・契約終了後、速やかに離縁する
 ・報酬額は十年分の生活費

 ──この結婚で、安らぐのは自分だけだ。

 浪費家の家族を養い、家のすべてを切り盛りしてきた私にとって、これは最高に条件のいい「退職金付きの休暇」である。

 私は伯爵令嬢の身分でありながら、実家では使用人同然の扱いを受けてきた。
 湯水のように金を使う父と母、そして弟。エヴァンス伯爵家の崩壊は、もはや時間の問題だった。

 帳簿の管理から屋敷の雑務、庭の手入れ、使用人の采配まで──。
 私は幼い頃から、家を回すために休みなく働かされてきたのだ。

 いい加減この家を見限り、着の身着のままで逃げ出そうと決めた、その矢先。
 舞い込んできたのが、ベリンガム公爵からの、とんでもない契約結婚の話だった。

 両親は、この結婚が取引であることなど露ほども知らない。
 私は一年間、公爵夫人という肩書きを淡々とこなしたあと、離縁と同時にエヴァンス伯爵令嬢という呪わしい立場からも解放されるのだ。

 やっと、やっと──長年思い描いてきた「自由」が手に入る。

「やったー! しかも、一年間何もしなくて良いのね!」

 自室で小躍りしながら、数少ない荷物をトランクに詰め込んだ。
 目指すは、労働から完全に解放された生活──ベリンガム公爵邸での一年間だ。

 ジェイド・ベリンガム公爵。
 彼は次男の身でありながら、自らの力で公爵家の当主に上り詰めた男である。

 数年前の戦争での功績を王に認められ、爵位を賜ったという。
 巷では「戦場の死神」などと恐ろしい異名で呼ばれているらしい。

 けれど、先ほど会った彼は、屈強な英雄というより──
 どこか頼りなく、常に眠たそうで顔色の悪い男だった。

 むしろ、死神に取り憑かれているのは彼の方ではないかと心配になるほどだ。

 移動中の馬車でそんな失礼なことを考えているうちに、ベリンガム公爵邸へと到着した。

「わっ……なにこれ?」

 目の前に現れたのは、まるで城のような壮麗な邸宅だった。

 圧倒されながら足を踏み入れると、出迎えてくれたのは年配の執事と、数人の使用人だけだった。

「よくぞお越しになられました。サラ様は、あちらの別邸へとご案内いたします」

「あの、その前にジェイド様とご両親にご挨拶を……」

 社交上の礼儀としてそう口にすると、執事は少し意外そうな顔をして答えた。

「こちらの邸宅には、ジェイド様お一人しかお住まいではございません。ご両親とは別宅でして。この邸は、国王陛下が閣下の功績を称えてお贈りになったものなのです」

「おおお……」

 私は改めて、彼の立場の大きさを思い知った。

「こちらの別邸は、サラ様がお一人で自由にお使いください」

 そう言い残し、執事は担当のメイドを一人付けて去って行った。

「おおお……。別邸を、丸ごと一人で……?」

 掃除も、料理も、経理も、家族の愚痴を聞く必要もない。
 今日から一年間、この広い場所で、誰にも縛られず、何もせずに過ごせるのだ。

「……神様からのご褒美でしょうか」

 こうして、幸せなおひとり様を満喫する、優雅な公爵夫人の一年間が幕を開けたのだった。



 翌日。

 私は「何もしない」ということが、これほどまでに苦痛だとは思わなかった。
 骨の髄まで染み込んでしまった悲しき社畜根性。
 何かしていないと、自分の存在価値が消えてしまうのではないかと、どうにも落ち着かない。

「く、……手が震えるわ」

 まるで重度の禁断症状でも起こしたかのように、心がざわついて仕方がなかった。
 ふと、窓の外に目を向ける。そこには春の穏やかな陽光と、優しくそよぐ風がある。

「そうだわ……」

 今日一日は、庭で寝転がってみよう。
 本気で「何もしない」を完遂してみせるのだ。

「メイドさん。これからは私の食事の準備だけで結構です。あなたのお仕事は、それだけ。早速、今日のお昼ご飯はそこに置いといてちょうだい」

 困惑するメイドを置き去りにして、外へ飛び出した。
 そして、手入れの行き届いた芝生の上に、思い切り大の字になって寝転がってみる。

「ううう……。太陽の光が、ここまで眩しいものだったなんて……」

 眉間に皺を寄せ、まるで拷問に耐えるかのような苦渋の表情。
 そんな奇妙な公爵夫人の姿を、遠巻きに使用人たちが訝しげに眺めていた。


 一方その頃、本邸の執務室。

 年配の執事アーロンは、面倒くさそうに書類の山と格闘している主人に声をかけた。

「御坊ちゃま。昨日、サラ様がお越しになりまして」

「『御坊ちゃま』ってやめてよ。俺、もう子供じゃないんだし……」

 ジェイドは顔を上げず、気だるげにペンを動かす。

「あ、つい。失礼いたしました、ジェイド様。サラ様にご挨拶を……」

「あー……。なんかお前から様付けされるのも慣れないから、もう『御坊ちゃま』でいいや。勝手にして」

「……左様ですか。畏まりました、御坊ちゃま」

 主人の気難しさに動じることなく、アーロンは淡々と報告を続けようとするが、なかなか核心に触れられない。

「あー……。あの子。来てるんだっけ、えーと、あの子なんだっけ」

「サラ様でございますか?」

「あ、そうそう、サラ。……どう? 上手くやってる?」

 その問いに、アーロンは一瞬だけ言葉を詰まらせ、困惑した表情を浮かべた。

「それが……サラ様は一日中、庭で大の字になって寝ておられるようです」

「…………へぇ。……え、なんか、変わった子じゃん」

 大したリアクションは見せなかったものの、ジェイドは書類を書く手を一瞬止めた。
 もっと野心に満ちた、鼻につく女を想像していたのだが。

「まあ、いいか」とすぐに思考を放棄すると、彼は再びやる気のなさそうな視線を書類仕事へと戻した。



 ※



 それから数日。

 私は「何もしない」という名の拷問に耐え続け、ようやく超人的な忍耐力が身につき始めていた。

「ふふふ。今日は寝着のまま、一日中ベッドから出ないわよ! できるわサラ! あなたならやれる!」

 トイレと入浴以外のすべての時間を、ベッドの上で過ごした。
 本を読んで目が疲れたら、そのまま意識を手放す。

 何度眠っただろうか。

 この屋敷に来てから、長年の睡眠不足は完全に解消された。
 というより、一日の半分以上を眠って過ごしている。

 そのおかげで、荒れていた肌や髪には艶が戻り、驚くほど健康な体を手に入れていた。

 そして月日が経ち、私の心身はようやく「何もしない」生活に適応し始めたのだった。

「うふふ~。今日は室内庭園でお茶をしながら読書でもしようかしら」

 自分でティーセットを運び、準備を進める。

 この屋敷に来てから、私は誰一人として身の回りの世話を頼まなかった。
「自分にできることを誰かにさせてはならない」
 それだけは、どれほど怠惰な生活に慣れても、どうしても拭いきれない社畜時代の騎士道精神だった。

 優雅に一人きりのティータイムを楽しんでいると、様子を見に来た執事のアーロンが姿を現した。
 彼は毎日欠かさず、私の予定を確認しに来る。

 私は彼が口を開く前に、誇らしげに答えた。

「今日も、何もしない一日です。何の予定もございません。ええ、この後は外の庭でお昼寝でもしようかと思います」

「……左様ですか。お茶をお楽しみのところ、失礼いたしました」

 アーロンはほんのわずかに驚いた表情を見せたが、すぐに熟練の無表情へと戻った。
 そして、何とも言えない複雑な余韻を残し、静かに去っていった。




 執事のアーロンは本邸へ戻り、いつものようにジェイドへサラの近況を報告する。

「サラ様は今日も何もしないご予定のようです。……あ、この後は庭で昼寝をするとおっしゃっていました」

 書類の山に埋もれ、黙々とペンを走らせていたジェイドだったが、不意にその手を止めた。

「……ねえ。サラって子、大丈夫かな」

 いつもなら聞き流すはずの報告に、ジェイドが珍しく反応を示す。

「ここに来て、どのくらいになった? ……本当、あの子、何もしてないよな」

 ようやく主人が妻に意識を向けたことに、アーロンは安堵を隠さず静かに答えた。

「御坊ちゃま、サラ様がこちらにお越しになってから、もう二ヶ月は経ちますよ。まだ一度も顔を見に行っておられないようですが……仮にも公爵夫人なのですから、一度会いに行かれては?」

 サラは何度か挨拶のため本邸を訪れていたが、そのたびにジェイドは不在、あるいは「面倒だから」と取り次がせなかった。

「……庭で昼寝してるんだっけ」

 ジェイドはふと窓の外へ視線を向ける。
 そこには、吸い込まれそうなほど青く澄んだ初夏の空から、柔らかな陽射しが溢れていた。

 重い腰を上げ、彼は気だるげな足取りで別邸へと向かう。

(……あの子、毎日毎日、本当に何もしてないみたいだけど。退屈すぎて死んだりしないのか?)

 そんな失礼な心配を抱えながら庭へ辿り着くと、案の定、サラは芝生の上で大の字になって熟睡していた。

「……マジか。すげーな」

 思わず独り言が漏れる。
 だが、彼女はぴくりとも動かない。

 ジェイドは何気なくその隣に腰を下ろした。
 見上げた空は、絵に描いたように澄み渡っている。

 眩しすぎる太陽に目を細め、彼はサラと同じように芝生の上へと体を倒した。

 心地よい風と、遠くでさえずる鳥の声。
 ここには、かつての血生臭い戦場も、自分を狙う刺客もいない。

(……案外、庭での昼寝も悪くないな)

 ジェイドが目を閉じた、その時。

「う~ん……」

 隣でサラが大きく伸びをした。
 無防備に伸ばされた手が、彼の頬に触れる。

「あれ?」

「……こんにちは。俺の奥さん」

「!!!!」

 サラは跳ね起き、「うおっ」と可愛げのない声を漏らした。
 それを見て、ジェイドの口角がほんのわずかに上がる。

「じぇ、ジェイド様……! ご無沙汰しております!」

「うん、久しぶり。……元気そうだね」

「はい! 仰せの通り『何もしない』を徹底しております!」

「いや、何かしてても良いよ? 俺そんなこと言ったっけ?……趣味とか特技とか、やりたいことないの?」

「何もございません」

 清々しいほどの即答だった。

 あまりの潔さに一瞬言葉を失ったジェイドだったが、すぐにいつもの気だるげな表情に戻り、一通の手紙を差し出した。

「今週、王家が開催する舞踏会に来るように言われている。……家族も国王陛下も、俺が結婚した事を疑っているんだ。一度も君を連れて社交界に出てないからな」

 ひらりと落とされた金縁の招待状を、サラは恭しく拾い上げる。

「……そーいう事なんで。契約書に書いてある通り、これは必須な対応だからよろしくね」

 それだけ言い残し、ジェイドは再びふらりと去って行った。

「……んん。これは……待ちに待った、『仕事』?」

 ごくりと唾を飲み込んだ。

 何もしない生活には慣れた。
 けれど、やはり心の奥底では飢えていたのだ。

 久しぶりに与えられた「任務」に、心の奥底で眠っていた社畜の魂が、じわりと目を覚ました。


 執務室に戻ったジェイドは、椅子に深く沈み込んだ。

「………ねえ、アーロン。あの子、契約が切れたら生きていけるのかな?」

 執事アーロンは、珍しく他人の身の上を案じる主人に、思わず目を見開いた。

 ふと、政略結婚で16歳にして他家へ嫁がされた、大切な妹の姿が脳裏をよぎる。
 兄である自分を慕ってくれた、優しい妹だった。

 だが彼女は、長男の政略によって、名家の老いた男に奪われるように嫁がされた。
 その先で、苦労を重ねている。

 あの時、自分は何もできなかった。
 家族を殺したいほど憎んだ記憶は、今も消えない。

 そんな、どうしようもなく不憫だった妹の姿が、
 なぜか、何もできずに庭に転がっているサラと重なったのだ。

「あー。でも、十年間は遊んで暮らせる生活費を保証するって書いたし、そんなに心配しなくてもいいか」

「それは、既にサラ様のご家族が受け取りましたよ?」

「…………え? なにそれ」

「お忘れですか? 契約結婚の話を嗅ぎつけたご家族が、連日『報酬を渡せ』と追いかけてきたではありませんか。御坊ちゃまが『面倒だから全額渡してしまえ』とご命令されたのですが」

「えーー……。俺、そんなこと言ったかな。……あー、全然覚えてないわ」

 主従揃って、はぁ、と深いため息をつく。

「………あれ。じゃあ、あの子。契約が終わった後、どうするんだ?」

 自分の無関心のせいで、妻の「退職金」が家族に横領されている。
 この国では一度離縁した女は肩身が狭い。再婚は名家か、よほどの縁がない限り難しい。

 その事実を知ったジェイドの顔に、初めてほんのわずか「面倒ごと」では済まされない焦りの色が浮かんだ。



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