一年だけの契約結婚だと思っていました

村井田ユージ

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 舞踏会当日。

 あれからジェイドは、やりたくもない公務と、山積みの書類仕事に追われていた。
 心の片隅では常にサラを案じていたが、忙殺されている間に、ついに「今日」という日を迎えてしまったのだ。

「ねえ、アーロン。サラは大丈夫か? 舞踏会の準備はお前に全部任せていたけど……」

「あの……御坊ちゃま。それがですね……」

 珍しく歯切れの悪い執事の返事に、ジェイドは不審げに眉をひそめた。

 本邸を出ると、すでに馬車が用意されている。
 その前に、一人の女性が立っていた。

 綺麗に着飾り、普段の素朴な印象とはかけ離れた、豪華なドレスに身を包んだサラ。
 だが、そのドレスには見覚えがあった。

 ジェイドは記憶の糸を辿り、はっと思い出す。

「あっ。……ねえ、そのドレスってさ」

 駆け寄ったジェイドに、サラはにっこりと微笑んで答えた。

「はい。別邸のクローゼットに置かれていたものを拝借しました」

「……っ」

 ジェイドは「うっ」と呻き、思わず頭を抱えた。
 そのドレスは、かつてこの屋敷を出入りしていた愛人が置いていった私物だったのだ。

「なんでさ……アーロンに新しいドレスを用意させなかったの?」

「あ、大丈夫です! 経費で新しいドレスをおろしてもらうなんて、とんでもないですし。胸元がかなり開いたデザインしかありませんでしたが、その中でも一番高価そうなものを選んで、自分で胸を詰めて着ましたから!」

 話にならない。

 ジェイドが執事アーロンをきつく睨みつけると、それを見たサラが慌てて割って入った。

「アーロンを責めないでください、ジェイド様! すべては私のわがままです。経費を節約したかったんです」

「……は」

 ジェイドの動きが止まる。

「サラ様……やはりこれは私の落ち度です。無理にでも、新しいものをご用意すべきでした」

「いえ、私が悪いのです。アーロンの立場を考えなかった、自分の責任です」

「ちょっ、待て待て待て……!」

 いつの間にか、サラはアーロンを呼び捨てにするほど打ち解けていた。

 なぜか慌てたジェイドは、二人の間を割くようにサラの手を取り、馬車へと乗り込む。

 馬車は王宮へ向けて走り出した。

 車内のジェイドは、どこかムスッとして不機嫌そうだ。
 対するサラは、終始にこにこと微笑んでいる。

(ひえ……今日のジェイド様、目の下のクマも一段と深いですし、睨まれると迫力がありますね……)

 そんなサラの心中を知ってか知らずか、ジェイドが不意に口を開いた。

「…………ドレス」

「え?」

「…………似合ってるよ」

 一瞬、聞き間違いかと思った。

「えっ、えと……ありがとうございます!」

 頬を赤らめて礼を言うサラに、ジェイドは照れたのか、さっと視線を窓の外へ逸らす。

「……でも、そんなお下がりのドレスで良かったの?」

「あ、すみません。私、いつも誰かのお下がりしか着たことがなくて。お恥ずかしい話ですが、自分専用のドレスなんて、一度も作ったことがないんです。ジェイド様のご厚意を無下にして、アーロンの言うことも聞かなくて……本当にすみません」

 その言葉を聞いた瞬間、ジェイドは再び、刺すような視線でサラを睨みつけた。
 その迫力に、サラの肩がびくっと跳ねる。

「サラ。……俺のことも、ジェイドと呼べよ」

「へ?」

「そんなに年も違わないじゃん? 様はつけるな。ジェイド、でいい」

「あ、はい。わかりました。……ジェイド」

 形式上とはいえ夫だ。呼び捨てのほうが夫婦らしいと、自分に言い聞かせる。

「ジェイドは何歳なんですか?」

 沈黙に耐えきれず、サラは話題を振った。

「23歳。……サラは?」

「えっ、若っ! 私は20歳です」

「ふっ……自分も若いじゃん」

 意外そうに鼻で笑うジェイド。

 23歳という若さで、公爵位を賜るほどの功績。
 どれほど仕事ができる男なのだろうかと、サラは尊敬の眼差しを向けた。

「……なんでこの年で公爵になれたか、気になるっしょ?」

 見透かされたようで、サラは勢いよく頷く。

「俺は、平気で人を殺せる。……王の命令であれば、女子供なんて関係ない。誰であろうとだ」

 しん、と馬車の中が静まり返る。
 規則正しい蹄の音だけが響いた。

「……国王陛下の殺したい奴を殺して、爵位を授かった。ただそれだけだよ」

 窓の外を見つめるジェイドの横顔は、どこか寂しげで、深い孤独を湛えていた。

「……ごめん。怖がらせるつもりはなかったんだが」

「いえ、大丈夫です。私のような者に話してくださって、ありがとうございます」

 サラの微笑みに嘘はない。
 ジェイドは驚いたように彼女を見返し、さらに言葉を続けた。

「……あと、まだある」

 サラの心臓が跳ねる。

「俺はベリンガム公爵家の分家だと思って。本家は俺の親父、ドレイク・ベリンガム公爵で、長男がその後を継ぐ」

「ええ、わかりました」

「……今日はその父親と、忌々しい兄も来る。絡まれても無視してくれ。……ただ、俺の妻を演じて」

「はい! 承知しました!」

 あまりにも元気な返事に、ジェイドは思わず笑った。

「あの、聞いても良いですか?」

「何を? ……質問の内容によるかな……」

「ジェイドは、なぜ私と契約結婚をなさったのですか?」

 真剣な眼差しに、ジェイドは声を上げて笑った。

「あのさ……ふふっ。……普通、契約前に聞かない?」

「あれ、そういうものですか? 初対面でプライベートを聞くのは失礼かと……」

 この女、本当に天然なのだろうか。ジェイドは心配になった。

「……国王陛下も両親も、俺をどこかの王族や貴族令嬢と結婚させたがる。あいつらの政略結婚に巻き込まれたくなかった。だから、偽りでもいいから盾になる妻が欲しかった」

「ああ、なるほど……。あれ、でも一年で足ります?」

「……それ、契約延長の打診?」

「あ、いえ! そういう意味じゃ……! 一年で十分です!」

 顔を真っ赤にして俯くサラ。

 気づけば、馬車は王宮に到着していた。

「さあ、行こう。……期待はしてないけど、今日はしっかり『仕事』をしてもらうから……サラ」

 差し出された手を、サラは力強く取った。

 ──この任務、完璧に演じてみせます。


 初めて足を踏み入れた王家の舞踏会は、これまで経験してきた貴族たちの夜会とは、すべてが別次元だった。

 天を仰ぐほど高い天井には、数千のクリスタルが光の雫を撒き散らす巨大なシャンデリアが輝いている。
 広間にひしめくのは選りすぐりの上流階級ばかり。
 誰もが物語から抜け出してきた王子や姫君のように見え、一歩踏み出せば吸い込まれてしまいそうな夢の世界が、そこにはあった。

 だが、私は動じない。

 かつて、私だけを屋敷に置き去りにして社交界へ出かけていった両親を、恨んだこともあった。
 けれど、今はむしろ感謝したい。
 私はあの日々、孤独の中で何百、何千回と、この日のためにイメージトレーニングを重ねてきたのだ。

 優雅な佇まい。
 視線の配り方。
 指先ひとつに至るまでの柔らかな動き──。

 今の自分は、完璧な「高貴なる公爵夫人」を演じきれる。

 会場に足を踏み入れた瞬間、サラの纏う空気は一変した。

 見たこともないほど気品に満ちた美女の登場に、会場は一気にざわめき立つ。
 今宵は、ジェイド・ベリンガム公爵夫人のお披露目という特別な夜。
 その主役にふさわしい輝きを放つサラを、隣に立つジェイドは呆然と見つめた。

(……え、何この子。いきなり別人になったみたいだ。
 没落寸前の伯爵令嬢じゃなかったのか?
 ……一瞬で、俺よりずっと高貴な生まれの令嬢に見える)

 サラの圧倒的なオーラに、戦場の死神と恐れられたジェイドでさえ気圧される。
 自分が彼女の「付け足し」であるかのような錯覚に陥り、言いようのない居心地の悪さを覚えていた──その時だった。

「おい、ジェイド!」

 背後から飛んできた不躾な声に、ジェイドの表情が瞬時に凍りついた。
 三白眼の瞳には、先ほどまでの困惑が消え、ナイフのような冷徹な光が宿る。

 振り返ると、そこにはジェイドとよく似た、だが傲慢さを隠そうともしない男──兄のルークが立っていた。

「お前、本当に結婚したんだな。親への報告もなしに、一体どんな女を拾ってきたんだか」

 ジェイドが言葉を返すより早く、サラが静かに、しかし凛とした所作で夫の前へ進み出た。

「お兄様でいらっしゃいますか?
 ご挨拶が遅れましたこと、深くお詫び申し上げます。
 ……サラと申します。以後、お見知り置きを」

 サラはルークの前で、この上なく可憐で、麗しい乙女を演じてみせた。
 高飛車な男ほど、こうした慎ましやかで気品ある女性に弱い。

 案の定、ルークは鼻の下を伸ばし、サラの手を取ると、恭しくその甲に口づけを落とした。

「……うちの弟には、勿体ないほどの淑女だ。
 ルーク・ベリンガムです。よろしく、義妹殿」

 ジェイドは低く舌打ちすると、兄の手から奪い取るようにサラを引き寄せた。

「兄上。国王陛下にご挨拶があるので、これで。
 ……行くぞ、サラ」

 サラの腰に強く手を回し、その場を強引に立ち去る。
 ジェイドの横顔には、隠しきれない怒りが滲んでいた。

「…………なんの真似だ。あんな糞兄貴に、媚びなんて売るな」

「あ、……ごめんなさい」

 サラはしゅんと肩を落とした。
 彼の期待通りに「妻」を演じられなかったのだろうか。

 その後の国王陛下への謁見は、非の打ちどころがないほど完璧だった。
 最大の難所を終えると、次々と挨拶に訪れる貴族たちの対応に追われる。

 サラは平気だったが、人混みを嫌うジェイドの顔には、徐々に疲労の色が濃くなっていく。

「ジェイド、私たちも一曲踊りませんか?」

 これ以上、彼を群衆に晒してはいけない。
 サラは救い出すように、彼の手を引いた。

 だが、ジェイドは立ち止まり、ひどく落ち込んだ表情で吐き出した。

「…………ごめん。俺、踊れないんだ」

 驚くサラに、彼は自嘲気味に続ける。

「……ほとんど戦場にいたから。
 ダンスなんて、習ったこともない」

「そっか。……ふふ。でも大丈夫ですよ」

 俯くジェイドの懐へ、サラはそっと飛び込んだ。

「!! ……な、何……どういうことだよ、これ……」

「しっ。この手を握って。
 こっちは、私の腰に。
 ……そう、それでいいんです」

 流れてきたのは、銀鈴の音のように優しく、柔らかな旋律。

 サラはジェイドの体に密着し、その広い胸に頭を預けた。

「ステップなんて関係ありません。
 私を抱きしめるように、曲に合わせて揺れていればいいの。
 ……こうやって、二人だけの世界を見せつけるんです。

 私たちは愛し合っている夫婦。
 優雅なダンスなんて、必要ありません」

 完璧なステップを競い合う会場の片隅で、ゆったりと寄り添い揺れる二人の姿は、かえって異彩を放った。

「見て。あのお二人、なんて素敵なのかしら」

「若くして、あんなに慈しみ合っているなんて……」

「ジェイド・ベリンガム公爵は、相当な愛妻家のようね」

 賞賛と羨望の入り混じった囁きが聞こえてくる。

 ジェイドは耳まで真っ赤にし、サラの耳元で抗議した。

「サラ……やっぱり、俺たち注目されてるんだけど」

「この曲が終わるまで、我慢です」

 もうどうにでもなれ。

 ジェイドは腹をくくり、サラの細い腰を強く引き寄せた。

 夢のような時間が過ぎ、やがて曲は終わりを告げる。

 サラはジェイドの顔を覗き込み、彼の頬にそっと手を添えて引き寄せた。
 彼はそれが何を意味するのか、直感で理解した。

 ──夏の夜の夢のように。
 優しく、けれど確かな熱を帯びた、唇の重なり。

 会場の淑女たちから、溜息混じりの歓声が漏れる。

(か、完璧だわ……!)

 サラは心の中で、全力のガッツポーズを決めた。

 さあ、このまま逃げるように帰りましょう──。

 そう合図を送ろうと目を開けると、自分を仰ぎ見るジェイドの瞳には、演技とは思えないほど切実な熱が揺らめいていた。

 ジェイドは無言のまま、サラの手をきつく握りしめる。
 呼び止める貴族たちの声をすべて無視し、彼はサラを連れて夜の静寂へと歩き出した。

 二人は夜風を切り裂くように馬車へ乗り込み、熱狂の渦をあとにした。


 帰り道の馬車の中は、再びしんと静まり返った。
 夜の静寂に、規則正しい蹄の音だけが虚しく響く。
 隣に座るジェイドは、あれからずっと無言のままだ。

 サラは気が気ではなかった。果たして自分は、彼の期待通りの「妻」を演じられたのだろうか。もしかして、やりすぎたのでは──?

 不安に押しつぶされそうになり、彼女はぎゅっと目を閉じると、重たい沈黙を自ら切り裂いた。

「あ、あの、今日の仕事の出来はどうだったでしょうか?」

 ……返事がない。
 恐る恐る目を開け、ジェイドの顔を覗き込んだ。

「……!」

 怒っているのかと思ったが、違った。
 どうしてか、彼は泣き出しそうなほど悲しそうな目をしていたのだ。

「あ、あれ、……ダメだったでしょうか?」

「あ……いや、……違う。ダメじゃない。……完璧だった。ありがとう……」

 彼はそれだけを絞り出すように言うと、屋敷に到着するまで、二度と口を開かなかった。

 この胸がざわつくような気まずさは何だろう。
 あのキスが、そんなに不快だったのか。

 サラは反省の色を顔に滲ませながら馬車を降り、逃げるように別邸へ戻ろうとした。

「待って!」

 背後から、ジェイドの切実な声が引き止める。

「…………あのさ」

 彼は視線を泳がせ、何かを必死に言い出そうとしている。
 サラは足を止め、見上げるようにして彼の言葉を待った。

「……ダンス、教えてよ」

「え?」

「あと、明日から飯……一緒に食べない?」

「へ?」

「……いや、つか、……本邸においでよ」

「んん?」

 言い募るごとに、ジェイドの顔が耳の付け根まで真っ赤に染まっていく。

「クソッ」

 彼は恥ずかしさを誤魔化すように毒づくと、早口に言い捨てた。

「考えておいて! ……今日はありがとう。お、おやすみなさい……」

 ジェイドは脱兎のごとく背を向けると、足早に本邸へと消えていった。

「おやすみなさい、ジェイド……」

 一人残されたサラは呆然と立ち尽くした。

 私は恋愛経験はない。けれど、これはもしかすると、いや、もしかしなくても──。
 じわじわと熱が伝染し、自分の顔も赤くなっていくのがわかった。

 慌てて部屋に戻り、縋るように契約書を開く。

『感情的関係を期待しない』

 この一行を、穴が開くほど凝視する。
 そうだ。彼の感情なんて期待してはいけない。

 今夜のことは、彼が舞踏会の熱にあてられ、雰囲気に流されてしまっただけなのだ。

 自分に言い聞かせるように、無理やり目を閉じて眠りについた。

 
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