一年だけの契約結婚だと思っていました

村井田ユージ

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 しかし、翌朝からのジェイドの対応は、明らかに変わった。

「おはようございます」

「……おはようございます。ジェイド」

 早朝、誰よりも早くジェイド本人が訪ねてきた。

 サラはだらしない寝巻き姿を晒してしまったが、彼は眉ひとつ動かさない。

「朝飯、一緒に食べよう。持って来た……部屋入れてよ」

「……仰せのままに」

 まだ夢を見ているのではないだろうか。
 最高権力者であるはずの雇用主が、私の狭い部屋でパンを齧っている。

「……ねえ。やっぱり俺の部屋来てよ。使ってない寝室あるし。毎朝、こっち来るの面倒だわ」

「……ふぁい」

 あまりの豹変ぶりに思考が追いつかず、私は行儀悪くパンを頬張ったまま返事をしてしまった。

 その日のうちに、私の荷物は本邸の、それもジェイドの寝室の隣へと移された。

 新しい部屋で、再び契約書を眺める。
 これは『互いに私生活へ干渉しない』という条項に違反していないだろうか。

 うーんと唸るが、同意してしまったのは自分だ。今さら契約書を突きつけて拒否する勇気も出ない。

 そっと隣の書斎を覗くと、山のような書類と戦っているジェイドと目が合った。
 その視線は──獲物を狙う肉食獣そのものだった。

 私は慌てて自分の部屋へ逃げ込み、扉を閉めた。

「うーん……今日も『何もしない』を完遂できるかしら」

 ふかふかの大きなベッドに大の字になってみる。
 別邸も豪華だったが、ここはさらに上をいく極楽。

 だが──。

「………………」

 三分と持たなかった。

「だぁああ! 無理無理無理無理! 扉一枚挟んだ向こうで主人があんなに必死に働いているのに、私だけ昼寝なんて! そんな鬼畜な所業、社畜の誇りが許さないわ!」

 勢いよく部屋を飛び出した。

 ジェイドは羽ペンを置き、突然現れた私に目を丸くする。

「……サラ? どうした。あー……これからの予定、聞いてもいい?」

「え、えと……これから、外でお昼寝をします!」

「そ。……おやすみ、俺の奥さん」

 彼はふっと柔らかく笑った。

 その顔のクマを直視できず、私は逃げるように庭へ向かった。

 木陰に横たわり、眩しい初夏の光を眺める。

 けれど、頭の中は隣の部屋でペンを動かす顔色の悪いジェイドでいっぱいだった。

「やっぱり……少しだけでも手伝おうかしら。何もしないなんて、私には毒だわ」

 起き上がろうとした、その時だった。

「ちょっと、そこのあなた」

 凛とした、けれど棘のある声。

 振り返ると、そこには目を引くような美女が立っていた。

 大きく胸元の開いたドレスを纏い、私を使用人と決めつけたような不遜な笑みを浮かべている。

「あなた、使用人? 別邸に私が置いていった荷物を取りたいの。案内しなさい」

 そのドレスの趣味、そして尊大な態度。

 私は直感した。

 彼女こそが、昨日拝借した「お下がりドレス」の本来の持ち主だと。

「はい、承知いたしました。……申し遅れましたが、私は使用人ではなく、現在こちらで公爵夫人を務めておりますサラと申します」

 礼儀正しく頭を下げると、美女は「は?」と顔を引き攣らせた。

「あなた……昨夜ジェイドの隣にいた女? あまりに地味で気づかなかったわ。私はオペラ歌手のキャロライン。ジェイドの恋人だった女よ」

 彼女は私を露骨に侮蔑し、自分がどれほどジェイドに愛されていたかを語り始めた。
 あのドレスも、彼に買わせたものの一つなのだという。

「まあ、オペラ歌手の方! 立ち話もなんなので、歩きながらお話ししましょう。あちらに素敵なドレスが沢山残っていましたよ」

 攻撃的な言葉をすべて聞き流し、淡々と彼女を別邸へ案内した。

 キャロラインは拍子抜けしたようにサラを見下した。

「彼って趣味が変わったのかしら。可哀想に」

 嘲笑も耳に入らず、意識はただ一つの問題に集中する──

(この人がドレスを全部持っていったら……舞踏会用の仕事着がなくなる!)

 別邸の部屋に入ると、キャロラインは豹変した。
 余裕ぶった笑みを消し、苛立ちを隠そうともせず睨みつける。

「ささ、こちらがキャロライン様の置き去りにされたドレス達でございます」

「ふん、昨日あなたが着たドレスも全部持って行くから、馬車に運んで」

「今、手配しますね。……あの、こんなことを申し上げるのも恐縮ですが、昨日のドレスだけは置いていってはくれませんか?」

「はあ? 何言ってるのよ、私の物よ。渡さないわ」

 サラは食い下がった。

「そこをなんとか! 私、あのドレスしか舞踏会に着て行くものが無いんです……! 美しいオペラ歌手のキャロライン様、どうか可哀想な私にお慈悲を……!」

「嫌よ! あんたが着たドレスが美しすぎると噂になってるのよ! おかげで私が『自分の物だ』と言っても、誰も信じてくれなくて、本当嫌になるわ!」

 その時だった。

 バンッ! と扉が勢いよく開いた。

 そこにはジェイドが護衛を引き連れて立っていた。

 二人のやり取りを聞いていたのか、彼は怒りに震えていた。

「不法侵入だ。あの女を摘み出せ! 置いてあるドレスも全部くれてやれ!」

 キャロラインは二人がかりで拘束され、引きずられるように退場させられる。

「きゃあ!……ジェイド! 恋人だった私にこんな仕打ちは酷いわよ!」

「うるせー。気安く呼ぶな」

 喚き散らすキャロラインを、ジェイドは冷たい目で見下ろしていた。

 サラは不安そうに二人を見つめる。

「サラ、後で話がある。本邸で待っていろ」

 ジェイドはキャロラインを追い出すため、彼女を連れて行ってしまった。

 サラは独り、静かになった部屋に残される。

(どうしましょう……私、社交界へ着て行くドレスが一枚も無いわ……!)

 経費節約に成功したと思ったら、大失敗だった。
 申し訳ないけれど、ジェイドにドレスを用意してもらわないと、公爵夫人としての「仕事」ができない。

 お願いするのがあまりにも心苦しく、サラはしょんぼりと肩を落とした。


 その頃、外ではジェイドがキャロラインを冷たく突き放していた。

「ジェイド! ねえ、ジェイドったら! あんな物乞いみたいな女のどこが良いのよ?」

「黙れ、気安く呼ぶな。俺はお前の名前も覚えていない。もうこの家の敷居をまたぐな。次来たら、タダで済むと思うなよ」

「ひ、酷いわ……ジェイド」

 捨て台詞を吐いてジェイドは背を向ける。

「アーロン、二度と部外者をこの敷地に入れるな。この家の警備はどうなっている」

「申し訳ございません。今後このようなことがないよう徹底させます」

「くそ、サラの元に戻ってなんて言えばいいんだよ……。あんな女に酷い目に遭わせた……」

 ジェイドは、自分の管理が甘かったせいで、サラに醜い諍いを見せてしまったことに酷く落ち込んでいた。

 そんな主人の気持ちを察して、執事のアーロンが静かに言う。

「サラ様は今、ドレスが一枚も無く大変困惑しておいでです。今こそ、御坊ちゃまの手で新しいドレスを用意して差し上げてはいかがでしょうか。あの方なら、きっとお喜びになりますよ」

 しばらくして、ジェイドがサラの待つ部屋へ戻ってきた。

「サラ! これから街に行って、好きなだけドレスを買ってやる!」

 その言葉に、サラの顔がぱあぁと明るくなった。

 まさかジェイドの方からドレスを買ってあげると言ってくれるなんて。
 自分から頼む心苦しさが消え、思わず身を乗り出す。

「ありがとうございます!
お言葉に甘えて、最高に機能的で頑丈な──
……あ、いえ、素敵なドレスを選ばせていただきます!」

「…………うん、そうして」

 その嬉しそうな笑顔に、ジェイドは思わず耳まで真っ赤になりそうで、顔を背けた。

(アーロンの言った通りだな。サラがこんなにも喜ぶなんて……)

 すぐに馬車を手配させる。
 こうして二人は、街へと向かうことになった。








 ガタゴトと揺れる馬車の中、隣に座るジェイドは、先ほどから死んだ魚のような目で窓の外を凝視していた。
 その横顔には、書類仕事で溜まったものとは質の違う、どす黒い疲労の色が滲んでいる。

(……嫌われただろうか。あんな女との諍いを見せてしまった。挙句の果てに、俺が以前あのドレスを買い与えたことまで、バラされてしまった……)

 ジェイドの心臓は、戦場にいる時よりも激しく警鐘を鳴らしていた。

 サラはきっと、俺のことを「女癖の悪い、派手好きの男」だと思ったに違いない。彼女のような清廉で、規律正しい女性からすれば、あんな派手なタイプは対極にいる存在だ。

 軽蔑されただろうか。

 もう、朝食を一緒に食べてはくれないだろうか。

 ……いや、それは困る。


 そんな彼の絶望的な妄想を知る由もないサラは、膝の上で指を折りながら、これからの「公爵夫人」としての戦略を練っている。

「ジェイド様」

「っ……!」

 びくりと肩を揺らす。

「な、なに。もしかして怒っている?」

「へ?いいえ。……あ、すみません。はあのような、華やかで情熱的な女性がタイプなのだなと思いまして」

「……え?」

「キャロライン様、とても素敵でした。
私はあんなに胸元の開いたドレスを着こなす自信はありませんが……
でも、ご安心ください。公爵夫人の名に恥じぬよう、精一杯、それ相応に見えるドレスを頑張って選びますから!」

 にこりと、プロフェッショナルな微笑みを向ける。
 だが、ジェイドは今にも泣きそうな顔で絶句した。

「……違う。タイプなんて、あんなの……あれは、その、昔の気の迷いで……」

「お気になさらず。雇用主の過去の趣味嗜好まで口出しするほど、私は野暮ではありません」

「…………いや、頼む。そこは、野暮になってくれ、サラ」

 ジェイドは片手で顔を覆い、深すぎる溜息をついた。
 嫌われるよりもタチが悪い。彼女の中で、自分は「そういう趣味の男」として完全に分類されてしまったのだ。

「ドレスは、一番高いやつを買う。

……いや、全部買う」

「えっ、いえ、予算というものが──」

「いいから! 俺に……俺に、挽回させてくれ……!」

 切実すぎる、ほとんど悲鳴のような訴えに、「は、はあ……」と圧倒されるしかなかった。

 そうして到着した、王都で最も高級な仕立屋『ブルー・ローズ』。
馬車の扉が開くやいなや、私は店へと駆け込み、「挽回したい」という雇用主ボスの期待に応えるべく、身を乗り出して店員さんに詰め寄った。

「一番頑丈で、泥跳ねが目立たず、かつ十五時間は立ちっぱなしでもシワにならない生地はどれですか!?」

「は、はい……? 泥跳ね、でございますか……?」

 困惑する店員さんを余所に、棚に並ぶ高価なシルクやレースを、私は真剣な目で検分していく。

「このレースは華やかですが、階段を駆け上がった時にヒールで引っ掛けそうですね。却下です。

こちらのベルベットは重厚で素敵ですが、夜会の給仕を手伝う際に袖が邪魔になりそう……。

もっとこう、可動域が広くて、いざという時に全力疾走できる設計のものはございませんか!」

「サラ、落ち着け。お前は公爵夫人として出席するんだぞ。全力疾走する予定なんてない」

 横からジェイドが呆れたように口を挟むが、譲れない。

「何をおっしゃいますか。不測の事態に備えるのが有能な被雇用者の務めです。この『防汚加工済み』のウール生地なら、万が一ワインをこぼされても、さっと拭けば業務に戻れます!」

 「これこそが理想の制服!」とばかりに地味なグレーの生地を指差した。

 しかし、ジェイドの顔色が変わる。

 彼はサラの肩をがっしりと掴むと、強引に店の一番奥にあるVIPルームへ連れて行った。

「仕事着を選んでるんじゃない。……俺の隣に立つための服を選べって言ってるんだ」

 ジェイドが指し示したのは、夜空のような深い紺色の最高級シルクに、彼の瞳と同じ色のサファイアが散りばめられた、溜息が出るほど美しいドレスだった。

「……これを。サラに着てほしい」

「えっ、でもこれ、おいくら……ひゃっ、私の十年分の生活費が吹き飛びます!」

「気にするな。サラが言うところの『必要経費』だ。……似合うと思う。俺の、好みなんだ」

 「俺の好み」という破壊力抜群の言葉に、社畜脳がショートした。

 最高権力者の個人的な要望。  
 それは業務命令よりも重い。

 真っ赤になって「は、拝承いたしました……」と頷くしかなかった。



 買い物の後、疲れたサラを、ジェイドは街で一番人気のカフェへと連れて行った。

「少し、休憩しよう」

「休憩なんて……給料泥棒みたいで落ち着きません」

 ぶつぶつ言う前に、宝石のように輝くイチゴのタルトが運ばれてきた。

 一口食べた瞬間、脳内に幸福の鐘が鳴り響いた。

「んんん……! 美味しい……! こんなに甘くてふわふわなもの、この世に存在したんですね……!」

 あまりの美味しさに、思わず頬が緩む。

 ふと視線を感じて顔を上げると、ジェイドがフォークを持ったまま固まっている。

(なんだよその顔。反則だ。マジで、可愛すぎるだろ……)

「……ジェイド?」

「…………っ。おい、店員さん。この棚にある菓子、全部包んで。あと、この店で一番日持ちするやつを箱詰めにして屋敷に届けて下さい」

「えええ!? そんなに食べきれません!」

「いいんだよ。サラがそんな顔で食うなら……いくらでも出す」

 ジェイドは顔を赤くしながら、次から次へと皿にクッキーやマカロンを積み上げていく。

 それはまるで、餌付けを楽しむ飼い主のようだった。



 帰り道、馬車の中は溢れんばかりの買い物袋で埋め尽くされていた。

「……あんなにたくさん、本当によろしいのですか? ドレスだけでなく、靴も帽子もお菓子まで……」

「……ああ。サラが喜んでたから、それでいい」

 ジェイドは窓の外を向いたまま、ぶっきらぼうに答える。

 膝の上に置かれた、あのサファイアのドレスが入った箱をそっと撫でた。

「ありがとうございます。次の夜会では、この『最高級の装備』で完璧にまた夫人役をこなしてみせます」

「……サラ。あのドレス、早く見たい」

「ええ、もちろん夜会当日には──」

「そうじゃなくて」

 ジェイドが不意にこちらを向き、真剣な眼差しを向ける。

「……夜会じゃなくて」

 一瞬、言葉を切る。

「俺の前で、最初に着て」

「へ?」

 ……しまった、という顔をして、ジェイドはすぐ窓の外を向いた。

「いや、なんでもない。忘れてくれ」

 彼の横顔が夕陽に照らされ、ほんのり赤くなっているのを、見逃さなかった。

 「俺の前だけで」?

 その言葉の意味をどう解釈したらいいかわからず、ただ速くなる鼓動を抑えるのに必死だった。



 車内に流れる沈黙に耐えかねて、先ほどから気になっていたことを口にした。

「ジェイド……あの……」

「なに?」

「お仕事、まだ終わってないですよね? お疲れではないですか」

「え? ああ……まあ。書類の山がなかなか減らない」

 少し疲れたように笑う彼を見て、「社畜の血」が騒ぎ出した。

 美味しいお菓子をたっぷり食べさせてもらい、高価なドレスまで買っていただいたのだ。

 このまま何もしないで眠りにつくなんて、そんな給料泥棒のような真似、到底できない!

「何かお手伝いはできませんか? 早く終えたら、その分たっぷり時間が取れます。そうすれば……このドレスを着て、ダンスの練習もできますよ」

「………数字強い? 
教えれば多分、サラにも出来ると思う」

 ついに「何もしない」という口約束を破ってしまった。

 だが、これは厳密には規約違反ではないはず。そう自分に言い聞かせる。



 屋敷に戻り、ジェイドの書斎で隣に座った。

「複雑な領地経営の帳簿だけど、教えれば多分、サラにもできると思う」

 インクの香りが漂う中で、帳簿の付け方や予算の計算方法など、一通りの説明を受けた。

「ここは少しややこしいんだけど……わかるかな」

 気遣うようにこちらを見るジェイドに、一度だけ頷く。

 そして、おもむろにペンを取った。

「承知いたしました。……お任せください、旦那様」

 悲しいかな、有能すぎる彼女のペン先は止まらない。

 エヴァンス家という底なし沼の家計を十年も支え続けてきたサラにとって、この程度の計算は赤子の手をひねるようなものだった。

 サラは、ジェイドが数日がかりで片付けるはずだった書類の半分を、
鼻歌でも歌いそうな勢いで片付けてしまった。

 ジェイドはその光景を見つめながら、思う。


(……マジか。俺の奥さん、有能すぎるだろ)



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