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彼女とココア

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 彼女は本当に、自分の名前も歳も、家の場所も知らないらしい。


 さっき木から落ちたときに頭を打っていたんじゃないかと問い詰めたが、それは否定される。


「あなたを見つける前から帰り道を探してたの。ここに辿り着いたのは、たまたまよ」


 たまたま、か。


 彼女と目が合ってしまったのは幸か不幸か──いやたぶん不幸だけど、偶然だったってことかよ。


 ところで何故木登りをしていたのかを聞いたところ、なんとなく、と返された。


 やっぱり変人だこの子。


 こうして話している間だって、通りすがりの人が眉を潜めてこっちを見ている。


 俺の連れだとわかってるからか、通行人の目が俺にばかり向いてるのが納得できないけど。









 そりゃこの寒空に薄手のワンピース一枚って……頭おかしいとしか思わないよな。


 こういう時は自分の上着をかけてやるのが男前なんだろうけど、おあいにく様、俺はこの子にそんな義理を感じない。


 第一、部屋着にコート羽織っただけの俺だって防寒ばっちりとは言えない服装なんだ。


 だからせめて、温かい飲み物を買ってやることにした。


 俺はいつもズボンにポーチを提げていて、発作時用の薬を常備している。


 そこに一緒にいれてあるお金を取り出して、千円札を一枚、自販機に吸い込ませた。


 ランプが点滅する。


「なに飲みたいの」


「え、なに?なに?」


「飲み物。買ってやるから」


「いいの!? じゃあ牛乳ー!」


「…っ…冷たいの駄目」


 というか牛乳なんて自販機で売ってないだろ。


「え、駄目なの?うーん、じゃあ…じゃあ…っ…。うーん、決められないわ……」


 横でうだうだ言ってる間に、俺は自分用にお茶を買った。


 それから待ってやったけど彼女は決めきらず、らちがあかないので強制的にココアのボタンを押した。


 ミルクココアだから牛乳もはいってる。





「ほら」


 手渡してやると、顔全体から幸せオーラを放ちながら両手で缶を持った。


「わたしのために選んでくれたの?」


 別に君に似合うコートを買って贈っているんじゃない。ココアだココア。およそ130円とは思えない彼女の喜びように、俺のほうはたじろぐ。


 今さらだけど、彼女は可愛かった。


 美人でもあるけど……なんというか、それよりも可愛らしという言葉が似合っていた。病院で一番人気のナースよりずっと瑞々しい女らしさは、俺をドキリとさせた。


 さらさら黒髪のおかっぱ頭。


 くりりと大きな目には愛嬌が滲んでいた。




 ……でも俺は、彼女のことが苦手みたいだ。




 なんでかって?決まってる。


 服も金も記憶もないこの状況で、まるで危機感のないこのお気楽さが鼻につく。


 どうせ今まで愛情ばかりを注がれて、辛い思いなんてひとつもせずに生きてきたんだろう。


 それを、ひしひしと感じるからだ。





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