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三、辰巳とハナ
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恵風がそよぎ、青々とした山草が踊る季節。
村人たちは山菜採りの為、山に入る。辰巳も山菜を採る為、あぜ道を歩いていると、草萌えに咲いているシロツメクサが見えた。
(もう、こんな季節か)
この季節は、このシロツメクサは、あの頃のハナを思い出す――。
◇ ◇ ◇
十年前のあの日から、辰巳とハナはいつも一緒にいた。
辰巳の他人を放っておけないという性格が、二人の縁を結んだ。
ハナは阿仁の集落で浮いていた。基、ハナの父親が集落で浮いていた。
ハナの父は横手にあった武士の家系で、自尊心が強かった。武士の時代は終わりを迎えたが、彼は今の時代を受け入れられず、引きこもり、旧友以外は誰とも交流することはなかった。それどころか、阿仁の集落に移ってからは働こうともしなかった。
ハナには年の離れた姉がいたが、奉公に出ており、いつも家に居なかった。月に一度、お金を入れるために阿仁へ帰るくらいだった。
ハナに母親は居ない。ハナを産んですぐに亡くなったとのことだ。
そういう理由で、ハナはいつも一人で遊んでいた。
「おい。何をしているんだ?」
草むらにしゃがみ込んでいたハナが振り向き見上げると、辰巳が真顔で見下ろしていた。
「……お母ちゃんごっこ……」
彼女は大きい瞳を震わせて、怯えた様子で答えた。
「母ちゃんごっこ?」
いつも一人で遊んでいる彼女のことがどうしても気になってしまい、気が付いたら辰巳は声をかけていた。そして、少し後悔をした。
――母ちゃんごっこって、何だ?
彼が当惑していることに気付いたのか、
「私ね、お母ちゃん居ないから、お母ちゃんになっているの」
そう言って、鋭利な石ころを右手に持ち、左手に持った草を叩き切りながらハナが説明をした。
「それ、俺もまぜてくれねぇか?」
まだ理解ができないが、何故か辰巳の好奇心が掻き立てられた。
ハナは俯き、何かを考え込んでいたが、パッと閃いたかのように顔を上げた。
「じゃあ、兄ちゃんは私の旦那さん! 兄ちゃんは、旦那さんごっこ!」
さっきまでの怯えていた表情が嘘のように、無垢な笑顔が返ってきた。その笑顔はさっきまであった彼の〝少しの後悔〟を真っ白に打ち消した。
「あのね、西洋の文化では、旦那さんは奥さんに指輪をあげるんだよ」
どこでそんな話を知ったのか、八歳の女の子のマセた言葉に、辰巳の方が恥ずかしくなり、先ほど打ち消した〝少しの後悔〟が顔を出す。
戸惑いながら辰巳が辺りを見回すと、緑の地面に降り積もる雪のようなシロツメクサが咲いていた。彼はそれを二本摘むと、茎を輪っかにして結び、ハナの左手親指に嵌めてあげた。
ハナは目を丸くしながら、黙って左手を眺めている。
――気に入らなかったか?
「えーと……この花は小さいが、強くて逞しいんだ。なんか、母ちゃんみたいだろ?」
無反応な彼女に耐えきれず、辰巳は言い訳がましく言葉を加えた。
すると、雪のように白い彼女の頬が桃色に染まって、満開に咲きほころんだ。
「強い指輪! 白くて、とっても綺麗!」
ようやく喜んでくれたと、ほっと胸を撫で下ろして、辰巳は笑顔になった彼女をずっと見ていた――明日も明後日も、彼は彼女の咲った顔が見たいと思った。
◇ ◇ ◇
「あら、もしかして辰巳さん?」
女性の声が聞こえ、辰巳の意識は現在に呼び戻された。白い肌で柔和な雰囲気のある女性が、山菜が入った籠を抱えて彼に向かって歩いて来る。
「ハナの……お姉さん?」
彼女はハナの長女だった。今は結婚して隣の集落に住んでいるとのこと。
「久しぶりねぇ! 五、六年ぶりかしら。逞しくなってぇ……流石マタギね。貴方、結構腕が良いって評判よ」
それは、どうも……と、彼は軽く頭を下げ、彼女に目を向けると、彼女は懐かしそうに、そして、やるせないと言った表情を浮かべていた。
「ハナも、きっと貴方の評判を聞けば喜ぶわ。……はぁ。どうしてハナばかりがこんな目に……」
突然、秘めた心に火がついたかのように長女は告げ始めた。
「ハナは、あの子は可哀想な子だった。あの子が産まれてすぐに母が死んだこともあって、父はハナを憎んでいたのよ。彼の機嫌が悪くなると、怒りの矛先はいつもあの子だったわ。それでもあの子、小さな身体でずっと耐えていたの。私の前では『私は強くて逞しいから大丈夫』って、明るく振る舞っていたわ」
長女は父を憎んでいた。
「武士の矜持なのか知らないけれど、いつまでも昔を引きずって働きもせず、なのにいつも偉そうで……」
柔和だった長女の顔が、徐々に硬くなっていくのが辰巳にはわかった。
「少しでも早く、ハナを父から離そうと、私は奉公先だった御主人様に働き口を相談している矢先だったわ。あの人、いつの間にハナの身売り話を進めていたなんて……」
『私ね、お母ちゃん居ないから、お母ちゃんになっているの』
辰巳は今になって、この言葉の意味を理解した――ハナは父親のために母親になろうとしていたのだ。
彼は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。と同時にハナの父親に対して、暴力的な衝動に駆られた。
――殴りてえ……殴りてえ、殴りてえ!
長女は気が済んだのか、落ち着いた表情に戻ると「あの頃はハナと遊んでくれて、ありがとうね」と言って、村へ帰って行った。
辰巳は血管が浮き出た手の甲で拳を握り、穿つように山へと歩き出した――。
村人たちは山菜採りの為、山に入る。辰巳も山菜を採る為、あぜ道を歩いていると、草萌えに咲いているシロツメクサが見えた。
(もう、こんな季節か)
この季節は、このシロツメクサは、あの頃のハナを思い出す――。
◇ ◇ ◇
十年前のあの日から、辰巳とハナはいつも一緒にいた。
辰巳の他人を放っておけないという性格が、二人の縁を結んだ。
ハナは阿仁の集落で浮いていた。基、ハナの父親が集落で浮いていた。
ハナの父は横手にあった武士の家系で、自尊心が強かった。武士の時代は終わりを迎えたが、彼は今の時代を受け入れられず、引きこもり、旧友以外は誰とも交流することはなかった。それどころか、阿仁の集落に移ってからは働こうともしなかった。
ハナには年の離れた姉がいたが、奉公に出ており、いつも家に居なかった。月に一度、お金を入れるために阿仁へ帰るくらいだった。
ハナに母親は居ない。ハナを産んですぐに亡くなったとのことだ。
そういう理由で、ハナはいつも一人で遊んでいた。
「おい。何をしているんだ?」
草むらにしゃがみ込んでいたハナが振り向き見上げると、辰巳が真顔で見下ろしていた。
「……お母ちゃんごっこ……」
彼女は大きい瞳を震わせて、怯えた様子で答えた。
「母ちゃんごっこ?」
いつも一人で遊んでいる彼女のことがどうしても気になってしまい、気が付いたら辰巳は声をかけていた。そして、少し後悔をした。
――母ちゃんごっこって、何だ?
彼が当惑していることに気付いたのか、
「私ね、お母ちゃん居ないから、お母ちゃんになっているの」
そう言って、鋭利な石ころを右手に持ち、左手に持った草を叩き切りながらハナが説明をした。
「それ、俺もまぜてくれねぇか?」
まだ理解ができないが、何故か辰巳の好奇心が掻き立てられた。
ハナは俯き、何かを考え込んでいたが、パッと閃いたかのように顔を上げた。
「じゃあ、兄ちゃんは私の旦那さん! 兄ちゃんは、旦那さんごっこ!」
さっきまでの怯えていた表情が嘘のように、無垢な笑顔が返ってきた。その笑顔はさっきまであった彼の〝少しの後悔〟を真っ白に打ち消した。
「あのね、西洋の文化では、旦那さんは奥さんに指輪をあげるんだよ」
どこでそんな話を知ったのか、八歳の女の子のマセた言葉に、辰巳の方が恥ずかしくなり、先ほど打ち消した〝少しの後悔〟が顔を出す。
戸惑いながら辰巳が辺りを見回すと、緑の地面に降り積もる雪のようなシロツメクサが咲いていた。彼はそれを二本摘むと、茎を輪っかにして結び、ハナの左手親指に嵌めてあげた。
ハナは目を丸くしながら、黙って左手を眺めている。
――気に入らなかったか?
「えーと……この花は小さいが、強くて逞しいんだ。なんか、母ちゃんみたいだろ?」
無反応な彼女に耐えきれず、辰巳は言い訳がましく言葉を加えた。
すると、雪のように白い彼女の頬が桃色に染まって、満開に咲きほころんだ。
「強い指輪! 白くて、とっても綺麗!」
ようやく喜んでくれたと、ほっと胸を撫で下ろして、辰巳は笑顔になった彼女をずっと見ていた――明日も明後日も、彼は彼女の咲った顔が見たいと思った。
◇ ◇ ◇
「あら、もしかして辰巳さん?」
女性の声が聞こえ、辰巳の意識は現在に呼び戻された。白い肌で柔和な雰囲気のある女性が、山菜が入った籠を抱えて彼に向かって歩いて来る。
「ハナの……お姉さん?」
彼女はハナの長女だった。今は結婚して隣の集落に住んでいるとのこと。
「久しぶりねぇ! 五、六年ぶりかしら。逞しくなってぇ……流石マタギね。貴方、結構腕が良いって評判よ」
それは、どうも……と、彼は軽く頭を下げ、彼女に目を向けると、彼女は懐かしそうに、そして、やるせないと言った表情を浮かべていた。
「ハナも、きっと貴方の評判を聞けば喜ぶわ。……はぁ。どうしてハナばかりがこんな目に……」
突然、秘めた心に火がついたかのように長女は告げ始めた。
「ハナは、あの子は可哀想な子だった。あの子が産まれてすぐに母が死んだこともあって、父はハナを憎んでいたのよ。彼の機嫌が悪くなると、怒りの矛先はいつもあの子だったわ。それでもあの子、小さな身体でずっと耐えていたの。私の前では『私は強くて逞しいから大丈夫』って、明るく振る舞っていたわ」
長女は父を憎んでいた。
「武士の矜持なのか知らないけれど、いつまでも昔を引きずって働きもせず、なのにいつも偉そうで……」
柔和だった長女の顔が、徐々に硬くなっていくのが辰巳にはわかった。
「少しでも早く、ハナを父から離そうと、私は奉公先だった御主人様に働き口を相談している矢先だったわ。あの人、いつの間にハナの身売り話を進めていたなんて……」
『私ね、お母ちゃん居ないから、お母ちゃんになっているの』
辰巳は今になって、この言葉の意味を理解した――ハナは父親のために母親になろうとしていたのだ。
彼は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。と同時にハナの父親に対して、暴力的な衝動に駆られた。
――殴りてえ……殴りてえ、殴りてえ!
長女は気が済んだのか、落ち着いた表情に戻ると「あの頃はハナと遊んでくれて、ありがとうね」と言って、村へ帰って行った。
辰巳は血管が浮き出た手の甲で拳を握り、穿つように山へと歩き出した――。
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