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一輪の花
しおりを挟む目の前には、真っ黒に塗りつぶされたキャンバスが寂しげにそこに立っていた。黒で統一されたその絵は、吸い込まれそうなほど深い夜の色で見ていて気持ちが悪いものだった。私はその絵から目を背けた。ふと、そこでその絵に使われていただろう絵の具を見つけた。そこには、白の絵の具を避けるように黒の絵の具がぐちゃぐちゃに掻き回され乾いていた。彼は、何を考えながらこの絵を描いたのだろう。もうこの絵に続きはないのだろうか。そんなのはあんまりではないのだろうか。せっかく描いたのに、花でも人でも描いたらいいのに。それならと思い、私は近くにあった筆をとった。筆は洗ったばかりなのか少し湿っていた。白の絵の具を先端に少しつけると、キャンバスの真ん中に花を一輪描いた。真っ黒の夜の中で小さな光を灯した気分になった。背後から玄関の扉が開く音がした。彼が買い物から帰ってきたのだ。私は筆を置いて、彼を迎えるために扉に近づいた。彼が部屋に入ってきた瞬間、冷たい空気が私を横切った。外は寒かったのだろう。彼の鼻先が赤くなっていた。
「おかえり。」
彼に向かって言うと、前髪で見えないが少し微笑んでくれた気がした。
「ただいま。」
そう私に返してくれた。私がどうしようもなく温かい気持ちになっていると、彼はさきほどまで真っ黒だったキャンバスを見て固まった。そして、強張った口調で訪ねてきた。
「これ、君がやったの。」
彼は少しずつキャンバスに近づいていった。
キャンバスの前に辿り着くとゆっくりと乾いた黒い部分を撫でた。
「うん。綺麗でしょう。」
少し誇らしぐに私が言うと、彼はなんとも言えない顔でこちらを見たがすぐに視線を戻し溜め息を吐いた。
「この絵は僕の自画像だったんだ。」
彼はそう言ってもう一度黒い部分を撫でた。
「でも、真っ黒だったよ。自画像なら人が描かれているはずだよ。それに、自画像は絶対に描かないって言ってたじゃない。」
私はそう言いながら彼に近づいてキャンバスを覗き込んだ。そこには、決して上手くはないが私が描いた白い花がいた。
「うん。確かに言った。でもこれは、自画像だ。僕の心なんだ。」
彼はもう一度さきほどよりしっかりと強い口調で言った。でも、これが彼の心だと言うなら彼は大分ネガティブな人なのだろうか。心が病んじゃった系の人なのだろうか。それは、大変だ。
「精神科に行きますか。」
少し首を傾げて聞いてみれば、彼は驚いた後苦笑した。
「いや、いいよ。確かに病んでしまっているのかもしれないけれど、これは芸術家の特性みたいなものだから。心配しなくていいよ。」
そう言って私の頭を優しく撫でた。彼はまだ外の冷たい空気を纏っていたけれど、その手だけは温かく感じた。
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