36 / 160
036.影の隣人
しおりを挟む
日々の暮らしは平穏そのものだった。いや、そう「思い込んでいた」と言った方が正しいのかもしれない。
私は小さなアパートに一人で住んでいる。駅から徒歩十分、築三十年以上の古い建物だが、どこか落ち着く雰囲気が気に入っていた。
ここでの生活も三年目を迎え、近隣住民とも適度な距離を保ちながら過ごしている。だが、ある時から、どうにも拭えない違和感が胸を締めつけるようになった。
それは、隣の部屋が空室だと知った時から始まった。
最初にその事実を知ったのは、管理人のおばさんとの会話からだった。週末、郵便受けにたまったチラシを整理していると、彼女が通りかかり、軽く挨拶を交わした。
「いつも綺麗にしてくれてありがとうね」
彼女は柔らかい笑顔でそう言いながら、ふと思い出したようにこう付け加えた。
「そうそう、隣の部屋ね、もう二年以上も空いてるんだけど、何か困ったことない? 音とか匂いとか」
「……空いてる?」
私は一瞬言葉に詰まった。隣からは確かに生活音が聞こえることがあったからだ。深夜、誰かが歩く足音や、かすかな話し声。テレビの音も時折漏れ聞こえてきたような気がしていた。
「ええ、空いてるのよ。あの部屋、ちょっと縁起が悪いって言うのかね、前の住人が突然出て行ってから誰も借りてくれなくて」
管理人は苦笑しながらそう言ったが、私の胸には妙な寒気が走った。では、私が聞いていた音は何だったのだろう?
その晩、私は隣の部屋について考えながらベッドに横たわった。空室のはずの部屋から聞こえる物音……。気のせいかもしれないと自分に言い聞かせたが、どうしても頭から離れなかった。
時計の針が深夜二時を指す頃、隣の部屋から微かな音がした。それは足音だった。重いブーツのような、低い響きを伴う音。
「またか……」
私は布団の中で身を縮めながら耳を澄ませた。音は部屋の中を行ったり来たりしているようだった。しばらくすると、今度は何かが壁を叩くような音が響いた。
「空室のはずじゃないのか……」
思わず声に出してしまった。恐怖心がじわじわと湧き上がり、全身に冷たい汗がにじむ。それでも気になって仕方がなくなり、私は意を決してベッドから起き上がった。
廊下に出ると、隣の部屋のドアの前に立ち尽くした。ノブに手を伸ばすが、指先が震えてなかなか掴めない。
「誰かいますか?」
ドアに向かってそう声をかけた。返事はない。ただ、ドアの向こうから微かな気配を感じた。息を潜め、耳を近づけると、何かがささやくような音が聞こえた。
「……こっち……」
「誰だ……?」
私は一歩後ずさった。ささやきはそれ以上続かず、再び静寂が訪れた。しかし、ドアの隙間から何かがこちらを覗いているような気がしてならなかった。
翌日、管理人にもう一度確認したが、隣の部屋が空室であることに変わりはなかった。それどころか、管理人は不思議そうにこう言った。
「……おかしいわね。鍵はずっと貸し出されてないはずよ」
その言葉を聞いた時、背筋が凍った。
それから、隣の部屋を避けるように生活する日々が続いた。だが、物音は相変わらず聞こえ、次第にそれは私の生活を侵食し始めた。
ある晩、私は限界を迎えた。どうしても隣の部屋の正体を確かめなければならないと思ったのだ。
工具箱からドライバーを取り出し、隣の部屋のドアをこじ開ける覚悟を決めた。深夜、誰にも見られないように気をつけながら廊下に出た。
ドアの前で息を整え、工具を差し込んで鍵をこじ開ける。
カチリ。
鍵が外れる音がした瞬間、ドアが勝手に開いた。
中は驚くほど散らかっていた。家具や日用品がそのまま放置され、埃が薄く積もっている。空室のはずの部屋に、こんな生活の痕跡が残っているなんて……。
私は奥に進み、リビングの真ん中に立ち止まった。その時、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、そこには誰もいない。ただ、薄暗い廊下の奥から、微かなささやき声が響いていた。
「……ここは……私の場所……」
私は全身が凍りついたように動けなくなった。その声は間違いなく、私の声だった。
この出来事以来、私は自分の住む部屋が誰のものなのか、わからなくなった。そして、隣の部屋の住人が誰なのかも。
「ここは誰の場所なんだろう」
その問いだけが頭を巡る。そして、夜が訪れるたび、隣の部屋からの音はより鮮明に、より近く感じられるようになった。
私は果たして、まだ「ここ」にいるのだろうか。それとも既に、隣の部屋の住人になってしまったのだろうか……。
私は小さなアパートに一人で住んでいる。駅から徒歩十分、築三十年以上の古い建物だが、どこか落ち着く雰囲気が気に入っていた。
ここでの生活も三年目を迎え、近隣住民とも適度な距離を保ちながら過ごしている。だが、ある時から、どうにも拭えない違和感が胸を締めつけるようになった。
それは、隣の部屋が空室だと知った時から始まった。
最初にその事実を知ったのは、管理人のおばさんとの会話からだった。週末、郵便受けにたまったチラシを整理していると、彼女が通りかかり、軽く挨拶を交わした。
「いつも綺麗にしてくれてありがとうね」
彼女は柔らかい笑顔でそう言いながら、ふと思い出したようにこう付け加えた。
「そうそう、隣の部屋ね、もう二年以上も空いてるんだけど、何か困ったことない? 音とか匂いとか」
「……空いてる?」
私は一瞬言葉に詰まった。隣からは確かに生活音が聞こえることがあったからだ。深夜、誰かが歩く足音や、かすかな話し声。テレビの音も時折漏れ聞こえてきたような気がしていた。
「ええ、空いてるのよ。あの部屋、ちょっと縁起が悪いって言うのかね、前の住人が突然出て行ってから誰も借りてくれなくて」
管理人は苦笑しながらそう言ったが、私の胸には妙な寒気が走った。では、私が聞いていた音は何だったのだろう?
その晩、私は隣の部屋について考えながらベッドに横たわった。空室のはずの部屋から聞こえる物音……。気のせいかもしれないと自分に言い聞かせたが、どうしても頭から離れなかった。
時計の針が深夜二時を指す頃、隣の部屋から微かな音がした。それは足音だった。重いブーツのような、低い響きを伴う音。
「またか……」
私は布団の中で身を縮めながら耳を澄ませた。音は部屋の中を行ったり来たりしているようだった。しばらくすると、今度は何かが壁を叩くような音が響いた。
「空室のはずじゃないのか……」
思わず声に出してしまった。恐怖心がじわじわと湧き上がり、全身に冷たい汗がにじむ。それでも気になって仕方がなくなり、私は意を決してベッドから起き上がった。
廊下に出ると、隣の部屋のドアの前に立ち尽くした。ノブに手を伸ばすが、指先が震えてなかなか掴めない。
「誰かいますか?」
ドアに向かってそう声をかけた。返事はない。ただ、ドアの向こうから微かな気配を感じた。息を潜め、耳を近づけると、何かがささやくような音が聞こえた。
「……こっち……」
「誰だ……?」
私は一歩後ずさった。ささやきはそれ以上続かず、再び静寂が訪れた。しかし、ドアの隙間から何かがこちらを覗いているような気がしてならなかった。
翌日、管理人にもう一度確認したが、隣の部屋が空室であることに変わりはなかった。それどころか、管理人は不思議そうにこう言った。
「……おかしいわね。鍵はずっと貸し出されてないはずよ」
その言葉を聞いた時、背筋が凍った。
それから、隣の部屋を避けるように生活する日々が続いた。だが、物音は相変わらず聞こえ、次第にそれは私の生活を侵食し始めた。
ある晩、私は限界を迎えた。どうしても隣の部屋の正体を確かめなければならないと思ったのだ。
工具箱からドライバーを取り出し、隣の部屋のドアをこじ開ける覚悟を決めた。深夜、誰にも見られないように気をつけながら廊下に出た。
ドアの前で息を整え、工具を差し込んで鍵をこじ開ける。
カチリ。
鍵が外れる音がした瞬間、ドアが勝手に開いた。
中は驚くほど散らかっていた。家具や日用品がそのまま放置され、埃が薄く積もっている。空室のはずの部屋に、こんな生活の痕跡が残っているなんて……。
私は奥に進み、リビングの真ん中に立ち止まった。その時、背後から足音が聞こえた。
振り返ると、そこには誰もいない。ただ、薄暗い廊下の奥から、微かなささやき声が響いていた。
「……ここは……私の場所……」
私は全身が凍りついたように動けなくなった。その声は間違いなく、私の声だった。
この出来事以来、私は自分の住む部屋が誰のものなのか、わからなくなった。そして、隣の部屋の住人が誰なのかも。
「ここは誰の場所なんだろう」
その問いだけが頭を巡る。そして、夜が訪れるたび、隣の部屋からの音はより鮮明に、より近く感じられるようになった。
私は果たして、まだ「ここ」にいるのだろうか。それとも既に、隣の部屋の住人になってしまったのだろうか……。
0
あなたにおすすめの小説
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
それなりに怖い話。
只野誠
ホラー
これは創作です。
実際に起きた出来事はございません。創作です。事実ではございません。創作です創作です創作です。
本当に、実際に起きた話ではございません。
なので、安心して読むことができます。
オムニバス形式なので、どの章から読んでも問題ありません。
不定期に章を追加していきます。
2025/12/25:『がんじつのおおあめ』の章を追加。2026/1/1の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/24:『おおみそか』の章を追加。2025/12/31の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/23:『みこし』の章を追加。2025/12/30の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/22:『かれんだー』の章を追加。2025/12/29の朝4時頃より公開開始予定。
2025/12/21:『おつきさまがみている』の章を追加。2025/12/28の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/20:『にんぎょう』の章を追加。2025/12/27の朝8時頃より公開開始予定。
2025/12/19:『ひるさがり』の章を追加。2025/12/26の朝4時頃より公開開始予定。
※こちらの作品は、小説家になろう、カクヨム、アルファポリスで同時に掲載しています。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる