餅太郎の恐怖箱【一話完結 短編集】

坂本餅太郎

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038.いらない子

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 雨が降り続いていた。静まり返った住宅街に、家の窓から漏れる明かりがぽつんと浮かび上がっている。その家に住む中年の夫婦、浩二と真由美は、この数日奇妙な出来事に悩まされていた。  

「また物が勝手に動いたのよ……」  

 夕食の片付けをしながら、真由美は不安そうに言った。  

「気のせいだろう」  

 浩二はそう言って軽く笑うが、その笑顔にはどこかぎこちなさがあった。彼も気づいていたのだ。家の中で起きている異常な現象を。  


 最初に気づいたのは、真由美だった。キッチンの包丁が何の前触れもなく床に落ちたのが始まりだった。続いて、夜中にテレビが勝手についたり、家具の位置が微妙にずれていたりした。  

「気味が悪いわね……」  

 真由美が浩二に相談すると、彼は不機嫌そうに言った。  

「そんなことにいちいちビビるなよ。ただの偶然だ」  

 しかし、浩二自身も気がかりだった。二階の子供部屋から、小さな足音が聞こえるようになったのだ。  

 彼らには子供がいなかった。いや、正確には「いなくなった」のだ。  


 十年以上前、浩二と真由美には子供がいた。だが、その子供は生まれたときから体が弱く、二人の期待に応えられる存在ではなかった。育児の負担や経済的な問題に苛立ち、二人はその子供を「いらない子」と呼ぶようになった。  

「こんな子、いなければよかったのに」  

 真由美がそう呟いた日、浩二は黙って頷いていた。  

 その後、子供はある晩、急に姿を消した。警察には「事故だった」と説明したが、二人だけが知っている真実があった。  


 その晩、家の中で何かが変わり始めた。  

 真由美が夜中に目を覚ますと、枕元に小さな人影が立っていた。ぼんやりとした輪郭のそれは、かつての息子の姿に似ているように見えた。  

「お母さん……」  

 か細い声が耳元で囁いた。その瞬間、真由美は全身に鳥肌が立った。  

「浩二さん! 起きて!」  

 悲鳴をあげて夫を叩き起こしたが、彼が目を覚ましたときには何もなかった。  

「お前、疲れてるんだよ」  

 浩二はそう言って取り合わなかったが、その翌日、彼自身も奇妙な体験をすることになった。  


 深夜、浩二が寝室からトイレに向かおうと廊下を歩いていると、背後で子供の笑い声がした。  

「……誰だ?」  

 振り返ったが、そこには誰もいない。だが、明らかに聞こえたのだ。息子の声が。  

「お父さん、どうして僕を捨てたの?」  

 その問いかけは浩二の心臓を凍らせた。  


 それからというもの、家の中の異常はエスカレートしていった。朝起きると壁に赤い文字で「いらない子」と書かれている。物音がする方向を振り返ると、誰かが走り去る小さな影が見える。  

 二人は次第に疑心暗鬼に陥り、互いを責めるようになった。  

「お前があの子を――」  

「あなたも同罪よ!」  

 喧嘩が絶えない中、真由美がついに限界を迎えた。  

「もう無理……この家を出ましょう!」  

 だが浩二は首を横に振り、諦めたように言った。

「逃げても無駄だろう。あの子は俺たちをどこまでも追いかけてくる」  


 その言葉通り、現象はますます激しくなった。ある日、浩二が出勤前に靴を履こうとすると、中にびっしりと詰まった虫が這い出してきた。真由美が振り返ると、鏡に映った自分の後ろに、息子の顔が浮かんでいた。  

「どうして……僕を捨てたの?」  

 二人はもはや狂気に近い状態に追い込まれていた。  


 そしてある晩、ついに決定的な出来事が起きた。  

 深夜、突然家中の電気が消え、どこからともなく鈴の音が響き渡った。浩二と真由美が怯えながらリビングに集まると、そこに息子の姿が立っていた。  

「お父さん、お母さん……」  

 その声は哀しげでありながら、どこか怒りに満ちていた。  

「僕のこと、いらない子だと思ってたんだよね」  

 二人は何も言えなかった。否定する言葉すら浮かばなかった。  

 息子の姿は次第に崩れ始め、闇に溶け込んでいった。だが、その場に残されたのは、赤黒く染まった小さな手形だった。  


 翌朝、近所の住民が不審に思い、その家を訪ねたときには、二人の姿はどこにもなかった。ただ、リビングの床に「いらない子」という文字が繰り返し書かれていただけだった。  

 それ以降、その家は誰も住むことがなく、荒れ果てたままとなっている。近所では、「あの家に近づくと、子供の声が聞こえる」と囁かれているという。  
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