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061.ヘビの記憶
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私はフェリーの甲板に立ち、水平線を眺めていた。海は鉛のように重たく、曇天の空と溶け合って境目が曖昧だった。潮風が冷たい。マフラーをきつく巻き直すと、佳奈の弾んだ声が背後から聞こえてきた。
「雫、見て! あの島よ!」
彼女が指さした方向に目をやると、小さな島が海霧の中にぼんやりと浮かんでいた。木々が密集し、岸辺には荒々しい岩肌がむき出しになっている。蛇の島と呼ばれるその場所は、佳奈が前から行きたがっていた場所だ。
「白蛇がいるんだって。島全体がパワースポットみたいなものらしいよ」
彼女は興奮気味に続けたが、私は曖昧に頷くだけだった。
蛇好きの佳奈がこの島に執着する理由は理解できた。彼女の部屋には蛇の置物や絵が飾られているし、以前も蛇の模様が入ったアクセサリーを見せてくれたことがある。ただ、私自身は蛇が特別好きでも嫌いでもない。だからこそ、彼女が誘ってくれたときも断らず、冬休みの時間を使ってここまで来たのだ。
しかし、そのフェリーの中で、私は久しく忘れていた夢を見た。
夢の中で、私は何かから逃げていた。薄暗い森の中を必死に走る。風が耳元で叫び声のように鳴り、木々の間から何かが追ってくる気配がする。足は重く、体は冷たい泥に絡め取られるように動かない。振り返ると、白い蛇が鋭い目でこちらを見ていた。その目が私を捕らえた瞬間、夢は終わる。
十歳ぐらいまで、何度も同じ夢を見ていた。その夢を思い出したのは、本当に久しぶりのことだった。
目が覚めたとき、私はフェリーの座席に座っていた。佳奈が隣で雑誌をめくっている。少しでも夢の気配を振り払おうと外を見たが、目の前にはただ冷たい海が広がるばかりだった。佳奈にはこのことを言えなかった。
そして、島に着いた。
曇天の下、私はフェリーを降り、潮風に背を押されながら一歩足を踏み出した。島に足をつけた瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。訳もわからず涙があふれる。
「どうしたの?」
佳奈が驚いた声で聞く。
「ううん……風が強くて目に入っただけ」
笑ってごまかしたが、心の中は混乱していた。体が自分のものではないように感じる。懐かしさとも違う、もっと深い感覚が私を包み込んでいた。
私たちは島を歩き始めた。道は細く、両脇には背の高い木々が生い茂っている。風が木々を揺らし、時折ザザーッという音が響いた。
途中、島の中央にある神社へと続く石段が現れた。佳奈が嬉しそうに言う。
「ここね、白蛇の神様を祀ってるらしいよ! 登ってみよう!」
私は少し迷ったが、佳奈の後を追った。石段を登るたび、足が重くなる気がした。佳奈は先に進むが、私は何度も立ち止まってしまう。振り返ると、木々の間から誰かに見られているような気がした。
神社にたどり着くと、そこには古びた拝殿がぽつんと建っていた。白い蛇を模した木彫りの像が中央に飾られている。佳奈は嬉しそうに手を合わせているが、私はその場に立ち尽くしてしまった。
像の蛇の目が、私を見つめているように感じたのだ。冷ややかで鋭い視線。夢で見た白蛇と同じ目だ。胸がざわつき、呼吸が浅くなる。
「雫、大丈夫?」
佳奈が心配そうに声をかけてきた。
「うん、大丈夫……ちょっと疲れただけ」
適当に答えてその場をやり過ごしたが、拝殿を離れると少しだけ息が楽になった。
神社を出てから島を一周する道を歩いてみた。途中、佳奈がふと立ち止まった。
「ねえ、雫。あれ……見える?」
佳奈が指さした先に目を凝らすと、木々の間に白い何かが動いているのが見えた。蛇だ。それも、普通の蛇よりずっと大きい。
「白蛇……本当にいたんだ」
佳奈は興奮して駆け出そうとしたが、私は腕をつかんで引き止めた。
「行かない方がいい」
「どうして?」
答えが出ない。ただ胸の奥で「行ってはいけない」と警告する声が響いていた。佳奈は一瞬驚いたような顔をしたが、「わかった」と言って戻ってきた。その後、白蛇は木々の間に消えた。
夕方になり、私たちはフェリー乗り場に戻った。日が沈み始め、島全体が赤黒い影に覆われる。その時だった。
背後でカサリ、と音がした。
振り返ると、さっき見た白蛇が地面を這ってこちらに近づいてきた。蛇の目は私をまっすぐに見つめている。
「雫!」
佳奈の叫び声が遠くに聞こえる。
足が動かない。体が熱くなる。涙がまたあふれる。そして――気づけば、私はその場に膝をついていた。
蛇は私の目の前で止まり、頭をもたげた。まるで私を確かめるように、その冷たい目でじっと見つめる。
「……覚えているか?」
声が聞こえた。誰のものかはわからない。でも確かに、私の心に響く声だった。
その瞬間、幼いころの記憶が蘇った。両親に連れられて訪れたこの島。蛇神の前で手を合わせたこと。そして、その夜、白蛇が夢に現れたこと……。
「あなたは……」
言葉を発する前に、蛇はするりと地面に戻り、木々の間に消えた。
佳奈が駆け寄ってきて、私の肩を揺さぶった。「大丈夫? 今の、見たよね?」
私はただ頷くだけだった。
その夜、島を離れた後も、あの蛇の目は私の心に焼き付いていた。忘れようとしても消えない。あの声が伝えようとしたことが、まだわからないまま……。
「雫、見て! あの島よ!」
彼女が指さした方向に目をやると、小さな島が海霧の中にぼんやりと浮かんでいた。木々が密集し、岸辺には荒々しい岩肌がむき出しになっている。蛇の島と呼ばれるその場所は、佳奈が前から行きたがっていた場所だ。
「白蛇がいるんだって。島全体がパワースポットみたいなものらしいよ」
彼女は興奮気味に続けたが、私は曖昧に頷くだけだった。
蛇好きの佳奈がこの島に執着する理由は理解できた。彼女の部屋には蛇の置物や絵が飾られているし、以前も蛇の模様が入ったアクセサリーを見せてくれたことがある。ただ、私自身は蛇が特別好きでも嫌いでもない。だからこそ、彼女が誘ってくれたときも断らず、冬休みの時間を使ってここまで来たのだ。
しかし、そのフェリーの中で、私は久しく忘れていた夢を見た。
夢の中で、私は何かから逃げていた。薄暗い森の中を必死に走る。風が耳元で叫び声のように鳴り、木々の間から何かが追ってくる気配がする。足は重く、体は冷たい泥に絡め取られるように動かない。振り返ると、白い蛇が鋭い目でこちらを見ていた。その目が私を捕らえた瞬間、夢は終わる。
十歳ぐらいまで、何度も同じ夢を見ていた。その夢を思い出したのは、本当に久しぶりのことだった。
目が覚めたとき、私はフェリーの座席に座っていた。佳奈が隣で雑誌をめくっている。少しでも夢の気配を振り払おうと外を見たが、目の前にはただ冷たい海が広がるばかりだった。佳奈にはこのことを言えなかった。
そして、島に着いた。
曇天の下、私はフェリーを降り、潮風に背を押されながら一歩足を踏み出した。島に足をつけた瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。訳もわからず涙があふれる。
「どうしたの?」
佳奈が驚いた声で聞く。
「ううん……風が強くて目に入っただけ」
笑ってごまかしたが、心の中は混乱していた。体が自分のものではないように感じる。懐かしさとも違う、もっと深い感覚が私を包み込んでいた。
私たちは島を歩き始めた。道は細く、両脇には背の高い木々が生い茂っている。風が木々を揺らし、時折ザザーッという音が響いた。
途中、島の中央にある神社へと続く石段が現れた。佳奈が嬉しそうに言う。
「ここね、白蛇の神様を祀ってるらしいよ! 登ってみよう!」
私は少し迷ったが、佳奈の後を追った。石段を登るたび、足が重くなる気がした。佳奈は先に進むが、私は何度も立ち止まってしまう。振り返ると、木々の間から誰かに見られているような気がした。
神社にたどり着くと、そこには古びた拝殿がぽつんと建っていた。白い蛇を模した木彫りの像が中央に飾られている。佳奈は嬉しそうに手を合わせているが、私はその場に立ち尽くしてしまった。
像の蛇の目が、私を見つめているように感じたのだ。冷ややかで鋭い視線。夢で見た白蛇と同じ目だ。胸がざわつき、呼吸が浅くなる。
「雫、大丈夫?」
佳奈が心配そうに声をかけてきた。
「うん、大丈夫……ちょっと疲れただけ」
適当に答えてその場をやり過ごしたが、拝殿を離れると少しだけ息が楽になった。
神社を出てから島を一周する道を歩いてみた。途中、佳奈がふと立ち止まった。
「ねえ、雫。あれ……見える?」
佳奈が指さした先に目を凝らすと、木々の間に白い何かが動いているのが見えた。蛇だ。それも、普通の蛇よりずっと大きい。
「白蛇……本当にいたんだ」
佳奈は興奮して駆け出そうとしたが、私は腕をつかんで引き止めた。
「行かない方がいい」
「どうして?」
答えが出ない。ただ胸の奥で「行ってはいけない」と警告する声が響いていた。佳奈は一瞬驚いたような顔をしたが、「わかった」と言って戻ってきた。その後、白蛇は木々の間に消えた。
夕方になり、私たちはフェリー乗り場に戻った。日が沈み始め、島全体が赤黒い影に覆われる。その時だった。
背後でカサリ、と音がした。
振り返ると、さっき見た白蛇が地面を這ってこちらに近づいてきた。蛇の目は私をまっすぐに見つめている。
「雫!」
佳奈の叫び声が遠くに聞こえる。
足が動かない。体が熱くなる。涙がまたあふれる。そして――気づけば、私はその場に膝をついていた。
蛇は私の目の前で止まり、頭をもたげた。まるで私を確かめるように、その冷たい目でじっと見つめる。
「……覚えているか?」
声が聞こえた。誰のものかはわからない。でも確かに、私の心に響く声だった。
その瞬間、幼いころの記憶が蘇った。両親に連れられて訪れたこの島。蛇神の前で手を合わせたこと。そして、その夜、白蛇が夢に現れたこと……。
「あなたは……」
言葉を発する前に、蛇はするりと地面に戻り、木々の間に消えた。
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