餅太郎の恐怖箱【一話完結 短編集】

坂本餅太郎

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085.見えない同居人

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 新しい家に引っ越してきたのは、季節が少しだけ春に傾き始めた頃だった。築浅のアパートで、家賃も手頃。日当たりも良く、駅からも近い。内見のときから「ここだ」と直感したし、実際、入居初日は何の不満もなかった。

 ただ、ひとつだけ――風呂場を除いては。

 最初に違和感を覚えたのは、シャワーを浴びているときだった。壁に取り付けられた鏡の向こうから、誰かに見られているような気がした。もちろん、そこには私しかいない。背後を振り返っても、白いタイルと曇ったガラス扉が映るだけ。気のせいだと思い、シャワーを止めてそのまま忘れた。

 しかし、それは序章に過ぎなかった。

 二度目は夜遅く、仕事から帰ってきた日。湯船にお湯を張り、のんびり浸かっていたときだった。不意に、カン……という乾いた音が風呂場のドアから聞こえた。まるで、誰かが指の関節で軽くノックしたような音だった。心臓が跳ねる。けれど、この家にいるのは私だけ。友人も恋人もいないし、家族は遠方だ。

「……気のせい、だよね」

 自分に言い聞かせてみても、耳に残るあの音は紛れもない現実だった。

 それからというもの、風呂場に入るたび、何かがいる気配を感じるようになった。シャワーの水音に混じって、小さな足音が聞こえたり、湯気の中で視線を感じたりする。

 ある日、使いかけのシャンプーがほとんど空になっていたこともあった。誰かが使ったように、ボトルが妙に軽い。だが、もちろん私は一人暮らしだ。

「まさか、幽霊?」

 冗談交じりに口に出してみたものの、言葉にした瞬間、空気がピンと張り詰めた気がして背筋が冷たくなった。気のせいでは済まされない何かが、確実に存在しているような気がした。

 思い切って友人に相談したこともある。

「お前、疲れてるんじゃない? 引っ越し直後って環境の変化で敏感になるし」

 笑われた。私も笑ってみせたけれど、心の奥底では違うとわかっていた。これは、ただの疲れや気のせいなんかじゃない。あの視線の重さは、説明のつかない“何か”が確かにそこにいる証拠だった。

 それでも、生活は続いていく。
 風呂に入らないわけにはいかないし、いちいち怯えているわけにもいかなかった。やがて私は、その存在と奇妙な共存を始めた。

 シャワーを浴びるときは、鏡を見ない。足音が聞こえても無視する。シャンプーの減りが早くても、気にしない。まるで、見えない同居人がいるかのように振る舞うことが、私なりの防衛策だった。

 ところが、ある夜、決定的な出来事が起きた。

 残業で遅くなり、疲れ果てて帰宅した私は、風呂場のドアを開けた瞬間、異変に気づいた。風呂の蓋が半開きになっており、そこから濃い湯気が立ち上っている。
 湯船にお湯を張った覚えはない。さらに驚いたのは、壁にかけてあったタオルが床に落ち、濡れていたことだ。まるで誰かが使った直後のようだった。

 心臓がバクバクと鼓動する。冷静に考えれば、誰かが侵入した可能性もある。急いで部屋中を確認したが、玄関も窓も施錠されたまま。隠れる場所もない。ならば、やはり――。

 私は震える手でスマートフォンを取り出し、知り合いの霊感が強いと噂の人に連絡した。彼女は快く引き受けてくれて、翌日、我が家にやって来た。

 風呂場に入るなり、彼女は立ち止まった。

「ここ、いるね」

 その言葉に、私は思わず身を固くした。彼女はしばらく黙り込み、目を閉じて何かを感じ取っているようだった。そして、ゆっくりと口を開いた。

「ここには、確かに“いる”。でも、悪意はないみたい。寂しいだけの存在。たぶん、前にこの家に住んでいた人の残り香みたいなものかな」

 私は言葉を失った。悪意がないというのは、少しだけ安心した。でも、確かに存在するという事実が、逆に重くのしかかってきた。

 彼女は簡単なお祓いのようなことをしてくれた。塩を四隅に撒き、窓を開けて風を通した。

「これで少しは落ち着くはず。でも、完全には消えないかもしれない。共存するのが一番いいと思う」

 それから、風呂場での異変は減った。視線を感じることも少なくなり、音もほとんどしなくなった。ただ、たまに――本当にたまに、シャワーの音に紛れて微かな鼻歌が聞こえることがある。

 それはまるで、遠い昔の誰かが、穏やかだった日常を懐かしむような、寂しさと安らぎが混じった不思議な旋律だった。その音に耳を澄ませながら、私はふと思う。もしかすると、あの存在も孤独だったのかもしれない。私と同じように、誰かのぬくもりや声を求めていたのかもしれない。

 ある日、私はふと思い立ち、風呂場に向かって話しかけてみた。

「今日、仕事で嫌なことがあったんだ。ちょっと、疲れちゃった」

 もちろん返事はない。でも、不思議と心が軽くなった。誰かに話を聞いてもらっているような気がしたからだろうか。その日から、私は毎日少しずつ、独り言のようにその“同居人”に話しかけるようになった。

 季節が移り変わる中で、私は気づいた。私たちは、確かに奇妙な形で同居している。姿は見えなくても、そこにいるというだけで、孤独が和らぐこともあるのだと。

 きっと、あの存在はまだそこにいる。でも私はもう、怖くはない。同居人がいるだけのことだ。姿は見えなくても、確かに“いる”というだけの話。

 それが、私の日常になったのだ。
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