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109.先に笑う鏡
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その日の夜も、いつものように歯を磨いていた。洗面台の鏡に映る自分の顔をぼんやりと見つめ、口の中を泡だらけにしながら、何気なく目元の疲れを確認する。
最近、仕事が立て込んでいて、寝不足が続いているせいか、肌の色が少し悪い。目の下には薄いクマができ、頬が少しこけて見える。
「……疲れてるな」
鏡に映る自分に向かってぼそりと呟いた。泡を吐き捨て、水で口をすすぐ。その瞬間、何か違和感があった。鏡の中の自分――いや、正確にはその動きが、ほんのわずかに遅れているように見えたのだ。
口をすすいで顔を上げたタイミングで、鏡の中の自分がほんの一瞬だけ遅れて動いた気がした。
思わず鏡を見つめたが、何も変わった様子はない。こちらが動けば、それに合わせて鏡の中の自分も動く。いつも通りだ。気のせいかもしれない。そう思って、洗面所を後にした。
翌日からも、その違和感は消えなかった。歯磨きや顔を洗うたびに感じる、鏡の中の動きの微妙な遅れ。最初は疲れからくる目の錯覚だと思った。
しかし、何日経ってもその現象は続き、むしろ少しずつはっきりしていくように感じた。
たとえば、顔を洗うために水を手にすくう動作をする。手を顔に持っていく瞬間、鏡の中の自分がわずかに遅れて同じ動きをする。
そのズレはほんの数秒にも満たないが、確かに存在している。それがどうしようもなく気味が悪かった。
「鏡なんて、ただのガラスと反射だろ……」
自分にそう言い聞かせたが、心の奥底で湧き上がる不安を抑えることはできなかった。
三日目の夜、ついにその違和感が確信へと変わった。
その日もいつものように洗面所で歯を磨いていた。鏡の中の自分が動きに遅れていることに気づきながらも、意識しないよう努めた。
だが、どうしても目が離せなかった。鏡の中の自分が、ほんの少し遅れてこちらを真似する――その異様な感覚に、抗いようのない恐怖が湧き上がる。
歯磨きを終え、鏡に映る自分を見つめた。そこで、ついに見てしまったのだ。
鏡の中の「俺」が、先に微笑んだ。
確かに俺は笑っていない。口元は閉じたままだ。それなのに、鏡の中の「俺」は、ゆっくりと唇の端を持ち上げ、不自然な笑みを浮かべていた。まるで、それが当然だと言わんばかりに。
「……なんだよ、これ……」
声が震え、後ずさった。だが、鏡の中の「俺」は動かない。笑ったまま、じっとこちらを見つめている。まるで、俺の驚きを楽しむかのように。
心臓が早鐘を打つ。何かがおかしい。これは普通じゃない。
俺は洗面所を飛び出し、自分の部屋へ駆け込んだ。ドアを閉め、布団を頭から被る。冷静になろうと深呼吸を繰り返した。鏡が壊れているのかもしれない。いや、疲れすぎて幻覚を見たのかもしれない。そう自分に言い聞かせた。
だが、その夜は一睡もできなかった。
翌日、どうしても鏡のことが頭から離れなかった。仕事をしていても、あの笑みが脳裏にちらつく。上司に注意されても返事をするのがやっとだった。
帰宅後、恐る恐る洗面所に足を運んだ。昼間の明るい時間帯なら、昨夜の出来事がただの気のせいだったと思えるかもしれない。そう期待していた。
だが、鏡はそこにあり、昨日と何も変わっていなかった。
「……普通だ。ただの鏡だ」
自分に言い聞かせながら、鏡に近づいた。映る自分の顔は普段と同じだ。何もおかしなところはない。少し疲れている顔が映っているだけだ。俺は深呼吸し、安心しようとした。
だが、そこで気づいた。鏡の中の「俺」が、まばたきをしていない。
こちらが何度目を閉じても、鏡の中の「俺」は瞬き一つしない。じっとこちらを見つめ続けている。目の奥に、何か冷たいものが潜んでいるように感じた。
「もういい……」
俺は鏡を見るのをやめ、洗面所を後にした。だが、背後に視線を感じる。振り返ることはできなかった。
それから数日間、俺は鏡を避けるようになった。洗面所は使わず、リビングの小さな鏡もタオルで覆った。コンビニのトイレに入っても、鏡を見ることはなかった。
だが、鏡を見ない生活など長続きするはずもない。会社のトイレやエレベーターの中、何気なく映り込む自分の姿を完全に避けることはできなかった。そのたびに、あの洗面所の鏡を思い出し、背筋が冷たくなる。
ある夜、ついに限界が訪れた。洗面所から音が聞こえたのだ。
「カタ……カタ……」
最初は水滴が落ちる音だと思った。しかし、音は次第に大きくなり、まるで誰かが鏡を叩いているように感じた。俺は布団の中で震え、耳を塞いだ。だが、音は止まらない。
「……誰だ?」
意を決して声を上げたが、返事はない。ただ、音だけが続いている。
とうとう俺は洗面所へ向かった。ドアの前で立ち止まり、耳を澄ます。音は確かに中から聞こえる。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開けた。
中には誰もいない。ただ、鏡だけがそこにあった。だが、その鏡には……。
「俺」が映っていない。
鏡の中は真っ暗だった。部屋の明かりが反射しているはずなのに、鏡の中だけがまるで深い穴のように暗闇に包まれている。そして、その暗闇の中から――笑う声が聞こえた。
「ハハ……ハハハ……」
それは俺の声だった。だが、確かに、俺ではない「何か」の声だった。
耐え切れなくなり、俺は洗面所を飛び出した。そしてその夜、洗面所の鏡を割ることを決意した。
ハンマーを手に戻った俺は、鏡に向かって振り下ろした。ガラスが砕け散る音が響き、破片が床に飛び散る。何度も何度も叩きつけた。すべてを粉々にしないと、終わらない気がした。
やがて鏡は完全に壊れ、俺は膝をついた。荒い息をつきながら、破片を見つめた。そこに映るのはただの部屋の景色だ。もう何もおかしなことはない――そう信じたかった。
だが、破片の一つに目をやると、そこには「俺」が映っていた。
そして、鏡の中の「俺」が、先に笑った。
最近、仕事が立て込んでいて、寝不足が続いているせいか、肌の色が少し悪い。目の下には薄いクマができ、頬が少しこけて見える。
「……疲れてるな」
鏡に映る自分に向かってぼそりと呟いた。泡を吐き捨て、水で口をすすぐ。その瞬間、何か違和感があった。鏡の中の自分――いや、正確にはその動きが、ほんのわずかに遅れているように見えたのだ。
口をすすいで顔を上げたタイミングで、鏡の中の自分がほんの一瞬だけ遅れて動いた気がした。
思わず鏡を見つめたが、何も変わった様子はない。こちらが動けば、それに合わせて鏡の中の自分も動く。いつも通りだ。気のせいかもしれない。そう思って、洗面所を後にした。
翌日からも、その違和感は消えなかった。歯磨きや顔を洗うたびに感じる、鏡の中の動きの微妙な遅れ。最初は疲れからくる目の錯覚だと思った。
しかし、何日経ってもその現象は続き、むしろ少しずつはっきりしていくように感じた。
たとえば、顔を洗うために水を手にすくう動作をする。手を顔に持っていく瞬間、鏡の中の自分がわずかに遅れて同じ動きをする。
そのズレはほんの数秒にも満たないが、確かに存在している。それがどうしようもなく気味が悪かった。
「鏡なんて、ただのガラスと反射だろ……」
自分にそう言い聞かせたが、心の奥底で湧き上がる不安を抑えることはできなかった。
三日目の夜、ついにその違和感が確信へと変わった。
その日もいつものように洗面所で歯を磨いていた。鏡の中の自分が動きに遅れていることに気づきながらも、意識しないよう努めた。
だが、どうしても目が離せなかった。鏡の中の自分が、ほんの少し遅れてこちらを真似する――その異様な感覚に、抗いようのない恐怖が湧き上がる。
歯磨きを終え、鏡に映る自分を見つめた。そこで、ついに見てしまったのだ。
鏡の中の「俺」が、先に微笑んだ。
確かに俺は笑っていない。口元は閉じたままだ。それなのに、鏡の中の「俺」は、ゆっくりと唇の端を持ち上げ、不自然な笑みを浮かべていた。まるで、それが当然だと言わんばかりに。
「……なんだよ、これ……」
声が震え、後ずさった。だが、鏡の中の「俺」は動かない。笑ったまま、じっとこちらを見つめている。まるで、俺の驚きを楽しむかのように。
心臓が早鐘を打つ。何かがおかしい。これは普通じゃない。
俺は洗面所を飛び出し、自分の部屋へ駆け込んだ。ドアを閉め、布団を頭から被る。冷静になろうと深呼吸を繰り返した。鏡が壊れているのかもしれない。いや、疲れすぎて幻覚を見たのかもしれない。そう自分に言い聞かせた。
だが、その夜は一睡もできなかった。
翌日、どうしても鏡のことが頭から離れなかった。仕事をしていても、あの笑みが脳裏にちらつく。上司に注意されても返事をするのがやっとだった。
帰宅後、恐る恐る洗面所に足を運んだ。昼間の明るい時間帯なら、昨夜の出来事がただの気のせいだったと思えるかもしれない。そう期待していた。
だが、鏡はそこにあり、昨日と何も変わっていなかった。
「……普通だ。ただの鏡だ」
自分に言い聞かせながら、鏡に近づいた。映る自分の顔は普段と同じだ。何もおかしなところはない。少し疲れている顔が映っているだけだ。俺は深呼吸し、安心しようとした。
だが、そこで気づいた。鏡の中の「俺」が、まばたきをしていない。
こちらが何度目を閉じても、鏡の中の「俺」は瞬き一つしない。じっとこちらを見つめ続けている。目の奥に、何か冷たいものが潜んでいるように感じた。
「もういい……」
俺は鏡を見るのをやめ、洗面所を後にした。だが、背後に視線を感じる。振り返ることはできなかった。
それから数日間、俺は鏡を避けるようになった。洗面所は使わず、リビングの小さな鏡もタオルで覆った。コンビニのトイレに入っても、鏡を見ることはなかった。
だが、鏡を見ない生活など長続きするはずもない。会社のトイレやエレベーターの中、何気なく映り込む自分の姿を完全に避けることはできなかった。そのたびに、あの洗面所の鏡を思い出し、背筋が冷たくなる。
ある夜、ついに限界が訪れた。洗面所から音が聞こえたのだ。
「カタ……カタ……」
最初は水滴が落ちる音だと思った。しかし、音は次第に大きくなり、まるで誰かが鏡を叩いているように感じた。俺は布団の中で震え、耳を塞いだ。だが、音は止まらない。
「……誰だ?」
意を決して声を上げたが、返事はない。ただ、音だけが続いている。
とうとう俺は洗面所へ向かった。ドアの前で立ち止まり、耳を澄ます。音は確かに中から聞こえる。ドアノブに手をかけ、ゆっくりと開けた。
中には誰もいない。ただ、鏡だけがそこにあった。だが、その鏡には……。
「俺」が映っていない。
鏡の中は真っ暗だった。部屋の明かりが反射しているはずなのに、鏡の中だけがまるで深い穴のように暗闇に包まれている。そして、その暗闇の中から――笑う声が聞こえた。
「ハハ……ハハハ……」
それは俺の声だった。だが、確かに、俺ではない「何か」の声だった。
耐え切れなくなり、俺は洗面所を飛び出した。そしてその夜、洗面所の鏡を割ることを決意した。
ハンマーを手に戻った俺は、鏡に向かって振り下ろした。ガラスが砕け散る音が響き、破片が床に飛び散る。何度も何度も叩きつけた。すべてを粉々にしないと、終わらない気がした。
やがて鏡は完全に壊れ、俺は膝をついた。荒い息をつきながら、破片を見つめた。そこに映るのはただの部屋の景色だ。もう何もおかしなことはない――そう信じたかった。
だが、破片の一つに目をやると、そこには「俺」が映っていた。
そして、鏡の中の「俺」が、先に笑った。
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