65 / 66
元和九年(1623年) 18歳
8.母の嘆き
三月二十六日
本丸御殿の表座敷で、虎長が二人の小姓を従えて上段の間に現れた。
側近の一人として、佐々木は上段の間のすぐ下手に座し、頭を下げて主君の登場を迎えた。
座敷の中央には、実千代の母、お敏がいた。
彼女は畳に額を擦りつけんばかりにしていたが、
「おもてを上げよ」
その虎長の声に、顔を上げた。
「まず……長年、実千代を、お預かりいただき、心より感謝申し上げます。どうか、最期の様子を……」
お敏の声は震えていたが、武家に生まれ育った女性らしく、涙は堪えていた。
佐々木は主君の横顔を盗み見た。
そこにいつもの冷酷な笑みはなかった。
代わりに、眉を寄せ、口元をわずかに歪めた表情があった。
虎長が立ち上がり、上段の間を下りた。
お敏に歩みよると、彼女の前で腰をかがめ、低い声で言った。
「お敏殿、実千代は……我の不徳の致すところだった」
佐々木の耳にその言葉が突き刺さった。
不徳だと?
あの牢で罪人をけしかけ、実千代を壊し尽くし、生きながら焼き殺したのは、他ならぬ虎長自身だ。
しかし 今、主君の声には微かな震えがまじり、次の瞬間、目を伏せた。
「昨夜、実千代は宿直番をしていたが、不慮の事故で……」そこでため息を吐き、続けた。「通路から崖に落ちたのだ。おそらく、紙かなにか、風に流されたものを取ろうとして身を乗り出したのであろう」
この時代、まだ戦国の世の気風が色濃く残っており、利便の良い平城ではなく、守りの堅い山城を居城とする大名が多かった。
険しい山肌や切り立った崖など、天然の要塞の上に、中奥や奥御殿があるのは珍しいことではなかった。
「見回りの者が気づいて、すぐに御殿医を呼んで治療に当たらせたが……実千代は逝ってしまった。我が手元で大切に育ててきたつもりだったが、守れなかった」
お敏の肩が震えた。
まばたきをした瞬間、涙がこぼれ、頬に伝い流れる。
佐々木は目を細めた。
虎長の言葉はあまりにも滑らかで、まるで事前に用意された台詞のようだった。
虎長は膝をつき、彼女の肩に手を置いた。
「我も胸を痛めておる。お敏殿と同じく、実千代を失った悲しみに……胸が抉られるとは、まさにこのことだ……」
そう呟くと、虎長は涙を一粒、流して見せた。
佐々木は奥歯を噛んだ。
虎長が実千代を玩具と呼び、涙を流して苦しむ姿を笑ったあの日々を、彼は決して忘れないだろうと思った。
忘れたくても忘れられない悔恨として、彼を苛み続けるだろうと思った。
しかし、虎長の声は悲しげに震え、優しくお敏を慰めるように手に手を重ねた。
お敏は、「殿のお言葉……ありがたく……」と述べると、ついに泣き崩れた。
佐々木は目を逸らした。
彼女の涙があまりに痛々しく、主君の偽りの涙があまりにも真に迫り、冷たい本性がその裏に潜んでいることが耐え難かった。
虎長が立ち上がり、藤田に目配せした。
「遺品を」と、低い声で命じた。
藤田は神妙な顔で、用意された脇差──かつて虎長が実千代に下賜したもの──を捧げ持って、前に出た。
ここでも、虎長は異例の対応を見せた。
主君が、家臣やその家族にものを渡したり受け取る際は、直に受け渡しをせず、側近を介して行われるのが通例だが、虎長はそれを取ると、お敏に手渡した。
「実千代が宝物と言って大事にしていたものだ。我には持つ資格はない」と呟いた。
お敏が脇差を受け取ると、虎長は静かに上段の間に戻った。
佐々木は、実千代の母に背を向けた虎長の顔を見て、背筋が凍った。
ほくそ笑んでいた。
七年間もの長きにわたり実千代をもてあそび、痛めつけ、しまいには嬲り殺し、その母の涙さえ、彼にとっては「お楽しみ」の延長だったのだ。
佐々木は太ももの上で拳を握りしめた。
桜吹雪が舞う庭を横目に、佐々木は虎長が一層冷たく、大きく見えた。
本丸御殿の表座敷で、虎長が二人の小姓を従えて上段の間に現れた。
側近の一人として、佐々木は上段の間のすぐ下手に座し、頭を下げて主君の登場を迎えた。
座敷の中央には、実千代の母、お敏がいた。
彼女は畳に額を擦りつけんばかりにしていたが、
「おもてを上げよ」
その虎長の声に、顔を上げた。
「まず……長年、実千代を、お預かりいただき、心より感謝申し上げます。どうか、最期の様子を……」
お敏の声は震えていたが、武家に生まれ育った女性らしく、涙は堪えていた。
佐々木は主君の横顔を盗み見た。
そこにいつもの冷酷な笑みはなかった。
代わりに、眉を寄せ、口元をわずかに歪めた表情があった。
虎長が立ち上がり、上段の間を下りた。
お敏に歩みよると、彼女の前で腰をかがめ、低い声で言った。
「お敏殿、実千代は……我の不徳の致すところだった」
佐々木の耳にその言葉が突き刺さった。
不徳だと?
あの牢で罪人をけしかけ、実千代を壊し尽くし、生きながら焼き殺したのは、他ならぬ虎長自身だ。
しかし 今、主君の声には微かな震えがまじり、次の瞬間、目を伏せた。
「昨夜、実千代は宿直番をしていたが、不慮の事故で……」そこでため息を吐き、続けた。「通路から崖に落ちたのだ。おそらく、紙かなにか、風に流されたものを取ろうとして身を乗り出したのであろう」
この時代、まだ戦国の世の気風が色濃く残っており、利便の良い平城ではなく、守りの堅い山城を居城とする大名が多かった。
険しい山肌や切り立った崖など、天然の要塞の上に、中奥や奥御殿があるのは珍しいことではなかった。
「見回りの者が気づいて、すぐに御殿医を呼んで治療に当たらせたが……実千代は逝ってしまった。我が手元で大切に育ててきたつもりだったが、守れなかった」
お敏の肩が震えた。
まばたきをした瞬間、涙がこぼれ、頬に伝い流れる。
佐々木は目を細めた。
虎長の言葉はあまりにも滑らかで、まるで事前に用意された台詞のようだった。
虎長は膝をつき、彼女の肩に手を置いた。
「我も胸を痛めておる。お敏殿と同じく、実千代を失った悲しみに……胸が抉られるとは、まさにこのことだ……」
そう呟くと、虎長は涙を一粒、流して見せた。
佐々木は奥歯を噛んだ。
虎長が実千代を玩具と呼び、涙を流して苦しむ姿を笑ったあの日々を、彼は決して忘れないだろうと思った。
忘れたくても忘れられない悔恨として、彼を苛み続けるだろうと思った。
しかし、虎長の声は悲しげに震え、優しくお敏を慰めるように手に手を重ねた。
お敏は、「殿のお言葉……ありがたく……」と述べると、ついに泣き崩れた。
佐々木は目を逸らした。
彼女の涙があまりに痛々しく、主君の偽りの涙があまりにも真に迫り、冷たい本性がその裏に潜んでいることが耐え難かった。
虎長が立ち上がり、藤田に目配せした。
「遺品を」と、低い声で命じた。
藤田は神妙な顔で、用意された脇差──かつて虎長が実千代に下賜したもの──を捧げ持って、前に出た。
ここでも、虎長は異例の対応を見せた。
主君が、家臣やその家族にものを渡したり受け取る際は、直に受け渡しをせず、側近を介して行われるのが通例だが、虎長はそれを取ると、お敏に手渡した。
「実千代が宝物と言って大事にしていたものだ。我には持つ資格はない」と呟いた。
お敏が脇差を受け取ると、虎長は静かに上段の間に戻った。
佐々木は、実千代の母に背を向けた虎長の顔を見て、背筋が凍った。
ほくそ笑んでいた。
七年間もの長きにわたり実千代をもてあそび、痛めつけ、しまいには嬲り殺し、その母の涙さえ、彼にとっては「お楽しみ」の延長だったのだ。
佐々木は太ももの上で拳を握りしめた。
桜吹雪が舞う庭を横目に、佐々木は虎長が一層冷たく、大きく見えた。
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
身体検査
RIKUTO
BL
次世代優生保護法。この世界の日本は、最適な遺伝子を残し、日本民族の優秀さを維持するとの目的で、
選ばれた青少年たちの体を徹底的に検査する。厳正な検査だというが、異常なほどに性器と排泄器の検査をするのである。それに選ばれたとある少年の全記録。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。