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2章-千秋
千秋ー4
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一夜明けた土曜日。千秋は心を決めてロビーに下りた。
一人でラウンジの椅子に座っていた蓮は、本を読むでもなく、物思いに耽っているようだった。週末で混み合うマリンホテルのラウンジにあって、その姿はひどく寂しげで、千秋の胸を切なくする。
「良かったら……、わたしの部屋にいらっしゃいませんか?」
声が上ずってしまうのを必死で抑えながら、千秋は蓮に声をかけた。驚いた顔をして、彼が顔をあげる。
「だから……、お話は部屋で聞きますから」
千秋は蓮を促してラウンジを出た。ロビーを横切る時、自分達を見ている美緒と目が合った。千秋はつんと顎を上げ、澄ましてその前を通り過ぎた。
「母に言われて迎えに来たんでしょう?」
スイートルームに戻ると、千秋は真っ先にそう切り出した。
「いえ、あなたに謝りに来たんです」
「え?」
「行き先も告げずに家を飛び出したと聞いて、目が覚めました。俺はあなたに酷いことをして傷つけた。申し訳ないことをしました」
「脇田さん」
「みっともない話だが、新宿であの男と一緒のあなたを見て、俺は自分を見失いました」
カウチに座ったまま、脇田は気まずそうに目をそらす。その顔には寂しげな自嘲が浮かんでいた。洗いっぱなしの髪はさらさらで、オフの日の彼らしく前髪が額にかかっている。スーツを着ているときには決して見せることのない、髪をかき上げる仕草が好きだと……、今更ながらに千秋は思った。
「こんなにも自分が独占欲の強い男だとは、思いませんでした。あなただって馬鹿じゃない。あんな男に手玉に取られるはずもないでしょう。でもあの時はそうは思えなくて」
あなたを失いたくなくて、自分を抑えることが出来なくなった。どうかしていた……。
そう呟いて、蓮は大きくため息をついた。
「俺がしたことをご両親に告げても構わないし、もう会わないと言われてもいい。あなたの意思を尊重します」
抑えた口調だからこそ、彼が心からすまないと思っているのが伝わってくる。蓮はエリート銀行マンの鎧を脱ぎ捨てて、ただの脇田蓮としてここにいるのだと千秋は気づいた。虚勢を捨てて、自分の心の弱い部分と醜い部分を正直に見せている。
不思議なことに千秋は、そんな蓮の態度が嫌ではなかった。むしろ好感を抱いた。これまで彼は優しいが、どこか距離を置いて自分に接していたように思える。それが今、彼に一歩近づいた気がした。
千秋はソファから立つと蓮の足元に跪いた。彼の腕に手を置いて黙って顔を見上げる。蓮が驚いて目を見張る。
「あなたにとって、わたしって何? 利用価値のある資産家の娘? それともただの千秋?」
「利用価値があると思ったことなど、一度もない。陰山家のお嬢さんでなくても、あなたを好きになった! だってあなたは……」
言いかけて蓮は言葉を飲み込んだ。心のうちを曝け出そうとした彼が、再び思いとどまってしまったことを千秋は感じた。
――まだ、すべて見せてくれた訳じゃない。
それでも構わない。時間をかけてこれからゆっくり分かり合えればいい。出会ってから半年。ずっとそうして来た。美緒と秀人のようにアツアツではないが、自分達にはこのペースが合っている。
伸び上がるようにして両手を蓮の首に回す。その首筋に顔を埋める。恐る恐る蓮の手が自分の背にかかり、やがて彼の隣に引き上げられる。
「もうあんなことはしないと約束して」
蓮の首にしがみつきながら千秋は言った。
「千秋さん……」
「千秋でいいです。あなたにはそう呼んで欲しいから」
「千秋……」
「謝ってくれるなら許します。そしてあなたを信じます。わたしもあなたを失いたくないから」
「俺はこんな男なのに? あの時と少しも変わっていない、自信が無くて力もないのに」
苦しげな蓮の声に千秋ははっとなる。蓮の言葉の意味するところが分からない。だが頭の奥に何かが浮かび上がった。いつだったか、もうだいぶ前の気がするが、こんなふうに自分に向けられた、切ない眼差しがなかっただろうか?
「蓮さん……。あの、蓮さん……」
だがそれは一瞬にして消えてしまった。千秋はもう一度、蓮の胸に身体を預ける。彼の胸の温かさを確かめてから、素早くキスをした。
「二度とわたしに触れないでと、言ってるわけじゃないの」
「千秋」
「あなたが初めての人になったらいいなって、そう思ってたんだから」
「初めての女の子に、俺は随分酷いことをしたんだな。反省の余地無しだ」
「でも、あなたでいいの。そんなあなたがわたしは好きなの」
言ってから頬が熱くなる。蓮の目に色々な感情が渦巻いては消えてゆくのが分かる。
「今夜は花火大会だ」
「一緒に見ましょう。この部屋はリビングからも、花火が見えるのよ。昔はこの近くに別荘を持ってて、夏は家族で花火を見に来てたんです。そんなふうに過ごしてたから、父は葉浦にホテルを建てる気になったんです」
「君がそう言ってくれるなら」
囁くように言って、蓮は千秋にキスしてくれた。
あの日、二人で花火を見た。
一年以上が過ぎた今、蓮はかけがえのない人になった。婚約をして彼の兄を紹介され、ようやく彼のすべてにたどり着くことができたと思う。
でもそうじゃない。蓮はまだ心の一部を閉ざしている。
彼の腕に守られ安心しながらも、千秋はかすかな寂しさを感じていた。
(-終章へ続くー)
一人でラウンジの椅子に座っていた蓮は、本を読むでもなく、物思いに耽っているようだった。週末で混み合うマリンホテルのラウンジにあって、その姿はひどく寂しげで、千秋の胸を切なくする。
「良かったら……、わたしの部屋にいらっしゃいませんか?」
声が上ずってしまうのを必死で抑えながら、千秋は蓮に声をかけた。驚いた顔をして、彼が顔をあげる。
「だから……、お話は部屋で聞きますから」
千秋は蓮を促してラウンジを出た。ロビーを横切る時、自分達を見ている美緒と目が合った。千秋はつんと顎を上げ、澄ましてその前を通り過ぎた。
「母に言われて迎えに来たんでしょう?」
スイートルームに戻ると、千秋は真っ先にそう切り出した。
「いえ、あなたに謝りに来たんです」
「え?」
「行き先も告げずに家を飛び出したと聞いて、目が覚めました。俺はあなたに酷いことをして傷つけた。申し訳ないことをしました」
「脇田さん」
「みっともない話だが、新宿であの男と一緒のあなたを見て、俺は自分を見失いました」
カウチに座ったまま、脇田は気まずそうに目をそらす。その顔には寂しげな自嘲が浮かんでいた。洗いっぱなしの髪はさらさらで、オフの日の彼らしく前髪が額にかかっている。スーツを着ているときには決して見せることのない、髪をかき上げる仕草が好きだと……、今更ながらに千秋は思った。
「こんなにも自分が独占欲の強い男だとは、思いませんでした。あなただって馬鹿じゃない。あんな男に手玉に取られるはずもないでしょう。でもあの時はそうは思えなくて」
あなたを失いたくなくて、自分を抑えることが出来なくなった。どうかしていた……。
そう呟いて、蓮は大きくため息をついた。
「俺がしたことをご両親に告げても構わないし、もう会わないと言われてもいい。あなたの意思を尊重します」
抑えた口調だからこそ、彼が心からすまないと思っているのが伝わってくる。蓮はエリート銀行マンの鎧を脱ぎ捨てて、ただの脇田蓮としてここにいるのだと千秋は気づいた。虚勢を捨てて、自分の心の弱い部分と醜い部分を正直に見せている。
不思議なことに千秋は、そんな蓮の態度が嫌ではなかった。むしろ好感を抱いた。これまで彼は優しいが、どこか距離を置いて自分に接していたように思える。それが今、彼に一歩近づいた気がした。
千秋はソファから立つと蓮の足元に跪いた。彼の腕に手を置いて黙って顔を見上げる。蓮が驚いて目を見張る。
「あなたにとって、わたしって何? 利用価値のある資産家の娘? それともただの千秋?」
「利用価値があると思ったことなど、一度もない。陰山家のお嬢さんでなくても、あなたを好きになった! だってあなたは……」
言いかけて蓮は言葉を飲み込んだ。心のうちを曝け出そうとした彼が、再び思いとどまってしまったことを千秋は感じた。
――まだ、すべて見せてくれた訳じゃない。
それでも構わない。時間をかけてこれからゆっくり分かり合えればいい。出会ってから半年。ずっとそうして来た。美緒と秀人のようにアツアツではないが、自分達にはこのペースが合っている。
伸び上がるようにして両手を蓮の首に回す。その首筋に顔を埋める。恐る恐る蓮の手が自分の背にかかり、やがて彼の隣に引き上げられる。
「もうあんなことはしないと約束して」
蓮の首にしがみつきながら千秋は言った。
「千秋さん……」
「千秋でいいです。あなたにはそう呼んで欲しいから」
「千秋……」
「謝ってくれるなら許します。そしてあなたを信じます。わたしもあなたを失いたくないから」
「俺はこんな男なのに? あの時と少しも変わっていない、自信が無くて力もないのに」
苦しげな蓮の声に千秋ははっとなる。蓮の言葉の意味するところが分からない。だが頭の奥に何かが浮かび上がった。いつだったか、もうだいぶ前の気がするが、こんなふうに自分に向けられた、切ない眼差しがなかっただろうか?
「蓮さん……。あの、蓮さん……」
だがそれは一瞬にして消えてしまった。千秋はもう一度、蓮の胸に身体を預ける。彼の胸の温かさを確かめてから、素早くキスをした。
「二度とわたしに触れないでと、言ってるわけじゃないの」
「千秋」
「あなたが初めての人になったらいいなって、そう思ってたんだから」
「初めての女の子に、俺は随分酷いことをしたんだな。反省の余地無しだ」
「でも、あなたでいいの。そんなあなたがわたしは好きなの」
言ってから頬が熱くなる。蓮の目に色々な感情が渦巻いては消えてゆくのが分かる。
「今夜は花火大会だ」
「一緒に見ましょう。この部屋はリビングからも、花火が見えるのよ。昔はこの近くに別荘を持ってて、夏は家族で花火を見に来てたんです。そんなふうに過ごしてたから、父は葉浦にホテルを建てる気になったんです」
「君がそう言ってくれるなら」
囁くように言って、蓮は千秋にキスしてくれた。
あの日、二人で花火を見た。
一年以上が過ぎた今、蓮はかけがえのない人になった。婚約をして彼の兄を紹介され、ようやく彼のすべてにたどり着くことができたと思う。
でもそうじゃない。蓮はまだ心の一部を閉ざしている。
彼の腕に守られ安心しながらも、千秋はかすかな寂しさを感じていた。
(-終章へ続くー)
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