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第三章
第三十五話
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それは俺が小学生の時だった。
当時、俺はピアノを習っていた。
地域のコンクールで賞を取ったり、周りの人に『神童だ』『百年に一度の天才だ』とか持て囃されていたため、将来はピアニストになりたいと思っていた。
ヴァイオリンを弾いていた母の影響か、幼い頃の俺は音楽で人を感動させることが全てだと思っていた。
些か極端ではあるが、それをすることしか生きている意味がないと少年ながらに思っていたのだ。
今思うと柄でもないな、とは思うのだが、その時は本気でそう思っていたし、実際やれることはピアノしかなかった。
しかし、事は突然起きた。
それはピアノのコンクールに出るために新幹線に乗っている時だった。
お前なら大丈夫、でも失敗しちゃったらどうしよう、たくさん練習したじゃないか、でも……、ぐちぐち言ってないで自信持ちな、なんて会話をお袋としている時、俺たちが乗る車両に缶ビールを持った酔っ払いが入ってきた。
「酒だ! 酒を持ってこい!」
千鳥足になりながらそう叫ぶ男は完全に自我を無くしていた。
「ちゅーさん。飲みすぎだよ! ほら、早く戻るよ!」
「うるせぇ!」
後ろから制止しようとする女性を強引に振り切り、歩を進める。
「おっ、お嬢ちゃん、一緒に飲もうぜ」
おそらく相手をしてもらえるのであれば誰でもよかったのだろう。
運の悪いことにその標的にされてしまったのは家族で旅行に来ていた四人家族の母親だった。
「や、やめて下さい」
「いいじゃねぇかよ。減るもんでもないし」
酔っ払いが手を伸ばすが、それを隣に座っていた父親が掴む。
「僕の妻に触らないでください!」
窓側に座る男の子と女の子がその様子に怯えているのが妙に残っている。
「俺はこのお嬢ちゃんに話してるんだ。男は引っ込んでろ!」
そう言って再び母親に手を伸ばす。
「あんた、いい加減にしときな!」
今度酔っ払いの腕をつかんだのは通路を挟んで逆側に座っていたお袋だった。
そして、お袋はそのまま腕を引っ張り、勢いよく酔っ払いの頬を張った。
車内にいた人全員に聞こえるほど、大きな音だった。
時間が止まってしまったかのような静寂と衝撃が場に残る。
「恥ずかしくないのかい! いい大人が公の場でこんなになって……みっともない。何があったかは知らないけど、冷静になりなさい! それで反省しなさい!」
すみません、すみません、と後ろから腕を引っ張り何とかこの場から離れようとする女性を酔っ払いが再度振り払う。
叩かれたこともそうだが、公衆の面前で説教されたことが酔っ払いには気に食わなかったのだろう。
「……この、野郎! 調子に乗るな!」
そう叫び、酔っ払いがポケットから出した携帯用のナイフをお袋に振りかざした。
ナイフ自体は護身用でそれほど大きなものではなかった。
それに加え、お袋は合気道の達人だ。
そんなお袋がナイフごときに狼狽えることもなければ焦ることもなかった。
今思えば何も心配することはなかったのだ。
しかし、そんなことなど露も知らなかった当時の俺は、お袋が危ない、と感じ、咄嗟に飛び出した。
それが余計だった。
酔っ払いが振り下ろしたナイフは俺の右腕を切りつけた。
突如として襲ってくる痛みと熱さが俺の中で一気に込み上げる。
「あつき、あつき! 大丈夫かい⁉ あつき!」
その後、酔っ払いは周りの人に取り押さえられ事なきを得たが、俺の傷は意外と深く、腕を動かすことも指を動かすことも出来なかった。
当然、ピアノのコンクールどころではなかった。
すぐに病院に行き、診断を受ける。
「手術をしてリハビリをすれば日常生活で問題が出ないくらいには良くなるでしょう。しかし……」
先生が言い澱む。
「……大丈夫ですから、先生、本当のことを教えてください」
同席したお袋が促す。
「……残念ではありますが、今までと同じようにピアノを弾くのは難しいでしょう」
その言葉は当時の俺にとって死刑宣告も同然だった。
俺の中で積み上げていたものと今後積み上がるであろうものが同時に奪われたような絶望が全身を巡り、俺を形作っていたものが崩れ落ちていくのが手に取るように分かった。
呆然としていて、頭の中は真っ白だった。
何も考えられない。
お袋と一緒に診察室を出て外に出る。
俺の気持ちとは裏腹に雲一つない青空が広がっていた。
太陽はいつまでもぎらぎらと俺を見つめる。
車に乗りこむとお袋はすぐに俺を抱きしめてくれた。
「ごめんね、あつき、ごめんね……」
お袋は俺を抱きしめながら、これでもかというほど涙を流していた。
その涙が俺の頬に落ち、口の中に入る。
――ああ、俺の世界は終わってしまったんだな。
涙とともに入ってくるその思いが俺を現実へと戻し、徐々に悲しみが膨らんでくる。
気づいたら俺も大声をあげて泣いていた。
今後一生、喉が潰れ声が出せなくなろうが、鳴り響く自分の声で頭が割れそうになろうが、そんなことは些細なことだった。どうでもよかった。
今こうして溜まるものを出しておかないとその重みに押し潰されてしまう気がして、俺が俺でいられなくなる気がしたのだ。
当時、俺はピアノを習っていた。
地域のコンクールで賞を取ったり、周りの人に『神童だ』『百年に一度の天才だ』とか持て囃されていたため、将来はピアニストになりたいと思っていた。
ヴァイオリンを弾いていた母の影響か、幼い頃の俺は音楽で人を感動させることが全てだと思っていた。
些か極端ではあるが、それをすることしか生きている意味がないと少年ながらに思っていたのだ。
今思うと柄でもないな、とは思うのだが、その時は本気でそう思っていたし、実際やれることはピアノしかなかった。
しかし、事は突然起きた。
それはピアノのコンクールに出るために新幹線に乗っている時だった。
お前なら大丈夫、でも失敗しちゃったらどうしよう、たくさん練習したじゃないか、でも……、ぐちぐち言ってないで自信持ちな、なんて会話をお袋としている時、俺たちが乗る車両に缶ビールを持った酔っ払いが入ってきた。
「酒だ! 酒を持ってこい!」
千鳥足になりながらそう叫ぶ男は完全に自我を無くしていた。
「ちゅーさん。飲みすぎだよ! ほら、早く戻るよ!」
「うるせぇ!」
後ろから制止しようとする女性を強引に振り切り、歩を進める。
「おっ、お嬢ちゃん、一緒に飲もうぜ」
おそらく相手をしてもらえるのであれば誰でもよかったのだろう。
運の悪いことにその標的にされてしまったのは家族で旅行に来ていた四人家族の母親だった。
「や、やめて下さい」
「いいじゃねぇかよ。減るもんでもないし」
酔っ払いが手を伸ばすが、それを隣に座っていた父親が掴む。
「僕の妻に触らないでください!」
窓側に座る男の子と女の子がその様子に怯えているのが妙に残っている。
「俺はこのお嬢ちゃんに話してるんだ。男は引っ込んでろ!」
そう言って再び母親に手を伸ばす。
「あんた、いい加減にしときな!」
今度酔っ払いの腕をつかんだのは通路を挟んで逆側に座っていたお袋だった。
そして、お袋はそのまま腕を引っ張り、勢いよく酔っ払いの頬を張った。
車内にいた人全員に聞こえるほど、大きな音だった。
時間が止まってしまったかのような静寂と衝撃が場に残る。
「恥ずかしくないのかい! いい大人が公の場でこんなになって……みっともない。何があったかは知らないけど、冷静になりなさい! それで反省しなさい!」
すみません、すみません、と後ろから腕を引っ張り何とかこの場から離れようとする女性を酔っ払いが再度振り払う。
叩かれたこともそうだが、公衆の面前で説教されたことが酔っ払いには気に食わなかったのだろう。
「……この、野郎! 調子に乗るな!」
そう叫び、酔っ払いがポケットから出した携帯用のナイフをお袋に振りかざした。
ナイフ自体は護身用でそれほど大きなものではなかった。
それに加え、お袋は合気道の達人だ。
そんなお袋がナイフごときに狼狽えることもなければ焦ることもなかった。
今思えば何も心配することはなかったのだ。
しかし、そんなことなど露も知らなかった当時の俺は、お袋が危ない、と感じ、咄嗟に飛び出した。
それが余計だった。
酔っ払いが振り下ろしたナイフは俺の右腕を切りつけた。
突如として襲ってくる痛みと熱さが俺の中で一気に込み上げる。
「あつき、あつき! 大丈夫かい⁉ あつき!」
その後、酔っ払いは周りの人に取り押さえられ事なきを得たが、俺の傷は意外と深く、腕を動かすことも指を動かすことも出来なかった。
当然、ピアノのコンクールどころではなかった。
すぐに病院に行き、診断を受ける。
「手術をしてリハビリをすれば日常生活で問題が出ないくらいには良くなるでしょう。しかし……」
先生が言い澱む。
「……大丈夫ですから、先生、本当のことを教えてください」
同席したお袋が促す。
「……残念ではありますが、今までと同じようにピアノを弾くのは難しいでしょう」
その言葉は当時の俺にとって死刑宣告も同然だった。
俺の中で積み上げていたものと今後積み上がるであろうものが同時に奪われたような絶望が全身を巡り、俺を形作っていたものが崩れ落ちていくのが手に取るように分かった。
呆然としていて、頭の中は真っ白だった。
何も考えられない。
お袋と一緒に診察室を出て外に出る。
俺の気持ちとは裏腹に雲一つない青空が広がっていた。
太陽はいつまでもぎらぎらと俺を見つめる。
車に乗りこむとお袋はすぐに俺を抱きしめてくれた。
「ごめんね、あつき、ごめんね……」
お袋は俺を抱きしめながら、これでもかというほど涙を流していた。
その涙が俺の頬に落ち、口の中に入る。
――ああ、俺の世界は終わってしまったんだな。
涙とともに入ってくるその思いが俺を現実へと戻し、徐々に悲しみが膨らんでくる。
気づいたら俺も大声をあげて泣いていた。
今後一生、喉が潰れ声が出せなくなろうが、鳴り響く自分の声で頭が割れそうになろうが、そんなことは些細なことだった。どうでもよかった。
今こうして溜まるものを出しておかないとその重みに押し潰されてしまう気がして、俺が俺でいられなくなる気がしたのだ。
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