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第三章
第三十六話
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無意識の内に心の奥底に押し込めていた記憶がふと蘇る。右腕に残る傷跡を触ると痛くないはずなのに、なぜかずきずきと音を立てるように俺の体全体を軋ませる。
「……すみませんでした」
「分かればいいのよ」
そう言って朱雀が笑顔を作る。
こほん、とあかりが咳払いをする。
「とにかく、まずは朱雀の親父さんの考え方を改めさせることが先決だ。後のことはそれからだ」
「そうね。それが最優先だわ」
「じゃあ、今日はこれくらいにして、次はもっと具体的な方法について話し合うとするか」
「分かったわ。神田君もそれでいいかしら?」
「はい。分かりました」
朱雀と別れ、崇徳院組の門を出る。
さっきまでの晴天とは打って変わり、分厚い雲が広がっていた。
今すぐにでもぽつりと落ちてきそうな空模様だった。
行きと同じく助手席に乗り込み、崇徳院組を後にする。
行きに通った道をそのまま戻っているだけなのに、見方が変わるだけで全く違う道を走っているような錯覚に襲われる。
俺の知らない言葉や風習、常識が蔓延っているような感覚でどこか異世界に来てしまったかのようである。
現実感の欠片もない。
車中では明楽と一言も交わすことなく、事務所に到着した。
空気は異様に重い。
今日したことを考えれば無理もない。
しかし、俺自身、悪いことをしたという実感はない。
むしろこうして誰かが声をあげず有耶無耶にしていては大事なところで足元を掬われる。
ただひとつ、気がかりなのは、このことが作戦に支障をきたしてしまうのではないか、ということだけだった。
エンジンが止まり、弱くかかっていた暖房が止まる。
雑音が全くなくなり、気まずさは最高潮に達した。
「……神田」
それを突き破るようにあかりが口を開く。
「……はい」
あかりの横顔を見る。
耳にかかる髪の毛の一本が白く光る。
こんな時に不謹慎とは思いつつ、俺にはその髪の毛が妙に艶めかしくそれでいて脆く儚い心の内を示しているかのような感覚を覚えた。
そして、この状況がまるで映画なんかでプロポーズするようなシーンに似ていると思ってしまった。
しかし、この空気で発せられる言葉がそんな感動的であるわけではないことは俺が一番よく知っていた。
「今回の仕事は関わるな。それがお前のためでもある」
戦力外通告。
予想通りの言葉が俺の頭に降ってきた。
衝撃に備え受け身を取ろうとしていたが、予想以上にその衝撃は重く俺の背中にのしかかり、そして心の奥底が抉られるように痛かった。
フロントガラスにぽつぽつと水滴が落ちる。
初めは落ちた水滴が分かる程度だったが、徐々にそれは線になり、やがて太い帯状にフロントガラスをつたう。
視界がぼやけてくるにつれ、俺の頭は不思議とクリアになり自分が何を言われたのか理解できるようになっていた。
「……何となく分かりますけど、一応、理由を訊いてもいいですか?」
あかりが一度下唇を噛み、口を開く。
「初めての仕事でこの件はあまりにもきつかろう」
「…………で、本当の理由は何ですか?」
一度息を吐き、こちらを向く。
あかりの目はまるで俺を突き刺すかのように鋭く光っており、眉間に皺が寄っていた。
しかし、俺はその顔に非難を感じるのではなく、どこか困惑しているような印象を受けた。
「言ったはずだぞ。私と朱雀は幼馴染であり信頼し合っている仲だ、と。その親友を疑われたのだ。怒りたくなる気持ちは当然だと思うが」
「気持ちは分かります。しかし、俺の知ってる崇徳院組はそんな甘くないところです。使えるものは何だって使う。目的のためなら手段を選ばない」
「それは、そうかもしれないが」
「それがたとえ親であっても、必要とあれば迷うことなく切り捨てる。そんな非道な奴らです」
「おい、神田」
「朱雀さんだってそういう人たちと」
「分かったから、黙れ!」
あかりが鬼の形相で俺を睨む。
視線だけで人を殺せそうなほど鋭く刺さるそれに対し、俺はただただ体を固くするほかなかった。
「神田、それ以上喋ったら私はお前を許せなくなってしまう。だからな」
そう言って、ひとつ息を吸い言葉を継ぐ。
「今すぐその口を閉じろ! ここから出ていけ! 私の前に現れるな!」
あかりが思うがままに叫ぶ。
いつも朗らかに笑顔を浮かべているあかりからは想像もつかないほど怒りを露わにしている。
しかし、それと同時に俺はその中に滲む悲しみを感じた。
それはよく見ていないと見逃してしまうほど小さいが、底知れないほどの深さと密度の濃さだった。
「…………分かりました」
ドアを開けると遮られていた雨の音が耳を劈く。
「……すみませんでした」
「分かればいいのよ」
そう言って朱雀が笑顔を作る。
こほん、とあかりが咳払いをする。
「とにかく、まずは朱雀の親父さんの考え方を改めさせることが先決だ。後のことはそれからだ」
「そうね。それが最優先だわ」
「じゃあ、今日はこれくらいにして、次はもっと具体的な方法について話し合うとするか」
「分かったわ。神田君もそれでいいかしら?」
「はい。分かりました」
朱雀と別れ、崇徳院組の門を出る。
さっきまでの晴天とは打って変わり、分厚い雲が広がっていた。
今すぐにでもぽつりと落ちてきそうな空模様だった。
行きと同じく助手席に乗り込み、崇徳院組を後にする。
行きに通った道をそのまま戻っているだけなのに、見方が変わるだけで全く違う道を走っているような錯覚に襲われる。
俺の知らない言葉や風習、常識が蔓延っているような感覚でどこか異世界に来てしまったかのようである。
現実感の欠片もない。
車中では明楽と一言も交わすことなく、事務所に到着した。
空気は異様に重い。
今日したことを考えれば無理もない。
しかし、俺自身、悪いことをしたという実感はない。
むしろこうして誰かが声をあげず有耶無耶にしていては大事なところで足元を掬われる。
ただひとつ、気がかりなのは、このことが作戦に支障をきたしてしまうのではないか、ということだけだった。
エンジンが止まり、弱くかかっていた暖房が止まる。
雑音が全くなくなり、気まずさは最高潮に達した。
「……神田」
それを突き破るようにあかりが口を開く。
「……はい」
あかりの横顔を見る。
耳にかかる髪の毛の一本が白く光る。
こんな時に不謹慎とは思いつつ、俺にはその髪の毛が妙に艶めかしくそれでいて脆く儚い心の内を示しているかのような感覚を覚えた。
そして、この状況がまるで映画なんかでプロポーズするようなシーンに似ていると思ってしまった。
しかし、この空気で発せられる言葉がそんな感動的であるわけではないことは俺が一番よく知っていた。
「今回の仕事は関わるな。それがお前のためでもある」
戦力外通告。
予想通りの言葉が俺の頭に降ってきた。
衝撃に備え受け身を取ろうとしていたが、予想以上にその衝撃は重く俺の背中にのしかかり、そして心の奥底が抉られるように痛かった。
フロントガラスにぽつぽつと水滴が落ちる。
初めは落ちた水滴が分かる程度だったが、徐々にそれは線になり、やがて太い帯状にフロントガラスをつたう。
視界がぼやけてくるにつれ、俺の頭は不思議とクリアになり自分が何を言われたのか理解できるようになっていた。
「……何となく分かりますけど、一応、理由を訊いてもいいですか?」
あかりが一度下唇を噛み、口を開く。
「初めての仕事でこの件はあまりにもきつかろう」
「…………で、本当の理由は何ですか?」
一度息を吐き、こちらを向く。
あかりの目はまるで俺を突き刺すかのように鋭く光っており、眉間に皺が寄っていた。
しかし、俺はその顔に非難を感じるのではなく、どこか困惑しているような印象を受けた。
「言ったはずだぞ。私と朱雀は幼馴染であり信頼し合っている仲だ、と。その親友を疑われたのだ。怒りたくなる気持ちは当然だと思うが」
「気持ちは分かります。しかし、俺の知ってる崇徳院組はそんな甘くないところです。使えるものは何だって使う。目的のためなら手段を選ばない」
「それは、そうかもしれないが」
「それがたとえ親であっても、必要とあれば迷うことなく切り捨てる。そんな非道な奴らです」
「おい、神田」
「朱雀さんだってそういう人たちと」
「分かったから、黙れ!」
あかりが鬼の形相で俺を睨む。
視線だけで人を殺せそうなほど鋭く刺さるそれに対し、俺はただただ体を固くするほかなかった。
「神田、それ以上喋ったら私はお前を許せなくなってしまう。だからな」
そう言って、ひとつ息を吸い言葉を継ぐ。
「今すぐその口を閉じろ! ここから出ていけ! 私の前に現れるな!」
あかりが思うがままに叫ぶ。
いつも朗らかに笑顔を浮かべているあかりからは想像もつかないほど怒りを露わにしている。
しかし、それと同時に俺はその中に滲む悲しみを感じた。
それはよく見ていないと見逃してしまうほど小さいが、底知れないほどの深さと密度の濃さだった。
「…………分かりました」
ドアを開けると遮られていた雨の音が耳を劈く。
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