22 / 23
第2章 邂逅編 あるいは花畑スカイビュー
第21話 天空黒龍ウォッチング・露天風呂つき
しおりを挟む
聞き間違いかと思った。
何しろ、赤雷がひどくうるさい。黒龍の顎から放たれるそれは白龍の障壁と激突し、修学旅行で見た那智の滝を十は束ねたような轟音を放っている。黒龍の低く静かな声など、むしろ聞き取れる方がおかしい。
――だが。
次に聞こえて来た魔力通話を、俺の耳は今度こそ捉えてしまう。
『ズィーガ=マデンツァ、答えよ。
貴様は何ゆえ、戦を終わらせる者を討とうとせぬ?』
疑念というより、怒りに満ちた声。
もう間違いない。
黒龍ペーネミュンデは、人類と魔族が戦い続けることを望んでいる。
そのために、ここにいる三人を――勇者、魔王、異世界人をまとめて排除しようとしているのだ。
でも、どうして?
『どーしてそんなことしなきゃいけないの!?』
こちらも声を怒りに染めて、吼えるシロさん。
『戦争が続こうが終わろうが、それはこの子たちの営みでしょ!?
ボクたちがちょっかいかけることじゃない!
てゆーかキミ、神龍の使命に普通に反してるよねえ!?
ボクらの仕事は、異世界人みたいな外なる力が世界を乱しすぎるのを防ぐことでしょ!
一兆歩譲ってエイジはともかく、勇者ちゃんと陛下ちゃんに手を出すのは筋が通らな――』
『そのような正論はどうでもいいッ!!』
いきなり。
黒龍の怒号とともに、赤雷がさらに勢いを増す。
ど、どうしたんだ急に。シロさんの今の言葉は、逆鱗に触れるものだったのか。
戸惑うこちらを知ってか知らずか、黒龍はさらに吼え猛る。
『何故だと!?
白龍こそ何故我が心がわからぬ!? 察して手を貸そうとせぬ!?
我がこうする理由はただひとつ!
ミラージュダリアまで使って、魔王と勇者を弱めた理由はただひとつッ!
戦が終わってしまったら、我が最推しの勇者フィリアノールが生きづらくなるからに決まっておるだろうが!!」
「「はあっ!?」」
「わ、私!?」
急転直下の爆弾発言に、俺たちは口を揃えて叫ぶ。
ついでに言うと、俺は動揺しすぎてハンドルを誤りかけ、慌ててブレーキを踏んでしまった。危ねえ。運転中に知っていい真相じゃねえ。
「……勇者さん、陛下さん、確認したいことが」
俺は肩越しに両雄を見やり、問う。
「『推し』っていうのは地球の言葉で、『その生き方を応援したい、夢中になるほど好きな存在』のことなんですが。
こっちでは別の意味があったりするんですか?」
「いや」
「残念ながらその意味しか無いね。この文脈では」
「そっかー……」
『貴様も知っておろう! ズィーガ=マデンツァ!』
車内の微妙な空気をよそに、黒龍はさらにシロさんへ怒鳴る。赤い稲妻で苛みながら。
『フィリアノールは魔王を斬るために己を磨き、魔王と戦うことのみを生きる愉しみとした女!
そのような人間が、平和な世を幸福に生きられると思うか?
そのような人間は、魔王を公然と斬ることの出来ぬ時代に何をして生きれば良い!?
何も無いのだよ! 何も!
フィリアノールにとって、平和な時代に生きることそのものが責め苦なのだ!
ゆえに今、殺す! 死ぬまで尽きぬ痛苦に喘ぐ前に、我が今ここで死を与える!』
「そーいうのは推しって言わない……」
頭痛を堪えつつ俺は言う。
「あんたのやってることは、推し活じゃなくて人形遊びもしくはストーカー殺人」
『何だと地球人この野郎!!』
「推しの生き方を決めつける権利はファンには無いって言ってるんだよ。
俺は推し活したことないから、知り合いの受け売りで申し訳ないけど」
『受け売りで愛を否定するでない!』
「そう言われると弱い」
「弱くないよ完璧に正しいよエイジくん」
心強い声援は、当の勇者さんの口からもたらされた。
見れば、クルマの横っ腹に張りついたまま(張りつけたのは俺だが)、勇者さんは真っすぐに黒龍を見据えていた。斬閃より鋭い真紅の眼光。
「あのねペーネミュンデ、人の将来を勝手に決めつけないでくれる?
私だって魔王なんかと斬り合わなくても毎日楽しく生きて…………………………………いけると信じる努力はしてるんだよ?」
あ、そこ自信ないのか。
『ダメそうではないか! 思っていた以上に!』
「や、やってみなくちゃわかんないじゃん!」
それまでの毅然とした態度を崩し、つんのめるように叫ぶ勇者さん。
確かにこれはダメそうだ。この流れで出る『やってみなくちゃわからない』は、ノープランで突っ込んで失敗する人間の常套句。
が、この場合のノープランは責められるべきものではないだろう。それどころか、勇者フィリアノールの気高さを雄弁に物語っている。
平和な時代に馴染める自信を持てないまま、勇者は戦争を終わらせようとしているのだ。その勇気は讃えられるべきであり、その献身は報われるべきだ。
そして、その未来は救われるべきだ。
少なくとも俺はそう思う。
だから。
「勇者さん」
真っ先に浮かんだ考えを、俺は躊躇なく口にする。
「戦後は、俺の倒し方を考えましょう」
「『へっ?』」
勇者さんはギョッとしたようだった。黒龍も。俺は続けて、
「いやほら、≪物質変換≫といい≪望まないことが起きなくなる結界≫といい、俺のスキルって客観的に見てあたおかじゃないですか。
これを凌駕する技術とか戦術が見つかれば、世の中のためにもなりそうだなって」
「なるけど……絶対なるけど」
勇者さんは戸惑った様子で、キャンピングカーのドアに手を触れる。
その仕草こそ慎重で、俺への遠慮に満ちてはいたが――しかし俺は見逃さなかった。
彼女の真っ赤な瞳の奥に、既に炎が宿っている。
ライオンを発見したハンターのような、獰猛で、それはそれは激しく燃え盛る炎。
それで俺を焙りつつ、それでも遠慮がちに勇者は言った。
「いいの……?」
「どうぞ」
頷くと、彼女は笑ってくれた。
救いを見つけたような、百年の氷が融けて流れていくような、安堵の笑み――と呼ぶには眼光が剣呑すぎるけど。あれ? 俺、早まった?
「……勇者さんあの、『いいの?』って『キミをぶち殺していいの?』って意味だったり……」
「しないよ!?」
「よかった。もしそうだったら若干距離を置こうかと」
「距離置くだけなんだ……? しかも若干……?」
それはまあ。
何しろ、キャンピングカーは人の心を豊かにするための車だ。その運転手である俺が、精神的にしんどい人から逃げちゃダメだろう。
「……そっかぁ」
俺の胸中を読み取ったのか、フィリアノールさんが天を仰いだ。
美しいその横顔に、ほろ苦い笑みが浮かんでいる。何かを悔いるような、恥じるような、そんな笑み。
ど、どうしました? 俺は何か気に障るようなことを?
戸惑うこちらを見ようともせず、この世界の勇者は独白する。
「恥ずかしいなぁ。異世界には、こんなにちゃんとした勇者がいるんだ」
「いや俺は」
「勇者というより賢者であろうな」
厳かにそう言ったのは、ずっと黙って聞いていた魔王陛下だった。
面白いものを見るように、切れ長の目を細めて続ける。
「人を救う術は様々。
苦難に対して先陣を切り、その背で導くのが勇者なら、地図を与えて正しい方向を指し示すのが賢者。
猫を従えた異界の賢者は、勇者に生きる道を示すか」
「そんなに褒められると居心地が悪くて……そもそも正しい道って保証は……」
『正しいわけがあるかァァァァ!!』
こちらも黙っていてくれた黒龍が、喉も裂けよと割り込んでくる。
こんなに怒ってるのにこちらの話をひと通り聞いてくれるあたり、そこまで悪い龍じゃないのかもしかして。
『正しき道を示すだと!? 勇者に!?
不可能! 不可能ッ!
何故ならその者には力が足りぬ!
いかにスキルによる結界といえど、魔力で編まれたものである以上、より大きな魔力塊をぶつければ砕ける!
例えば、勇者が全力で振るう光刃のように!
例えば、これこのようになァ――――!!』
「!」
刹那、黒龍が空を仰いだ。
シロさんに向けて注いでいた赤雷を、一旦途絶えさせ、再度収束。先に倍する――数倍に達する紅蓮の幹を織り上げる!
あれで砕く気だ。俺の≪結界≫を、勇者さんごと。
「くっ……!」
焦燥と葛藤が胸を焼く。
頭に浮かんだのは、勇者さんを車内に入れねばならないということだった。
万全の状態ならともかく、ダリアの毒で常人並みの力しか発揮できない彼女に赤雷を避けることはできない。耐えることはもっとできない。
だが、彼女はそれを望んでくれるか。
やはりこのまま死にたいと、まだ思っているのではないか。魔王と同じ車に乗ってまで平和な世に生きるくらいなら、この瞬間に灰になりたいと、そう望んではいないのか。
「エイジくん」
勇者の声は揺るぎなかった。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
「助けて」
「承知!」
反応は一瞬。
既に起動していた≪物質変換≫を実行。車体側面の構材を流動させ、勇者さんを車内に放り込む。ちょうどそこにいた陛下さんと衝突して諸共ぶっ倒れたのは、たまたまだったのか否か――俺は陛下さんの策略だと思う。
「ぴゃあっ♡」
……という、魔王の乙女チックな声は、赤雷が殺到した輝きに消えた。
黒龍ペーネミュンデの赤雷。恐らくはこの世界の現象で最も強く、最も無慈悲な力の波に、キャンピングカーが呑み込まれる。
白い車体を紅蓮が蝕む。際限なく。五秒。十秒。無限に続く究極の責め苦に、嗜好品に過ぎない異界のクルマは何ひとつ抗う術を持たず――
シャッ
取り敢えず。
光が眩しいので、俺はフロントウィンドウのカーテンを閉じた。
車内に起きた変化は、それだけだった。
揺れも、雷の轟音も無ければ、車内温度の0.1度も変わらない。車体が落ちて行かないということは、足元のアスファルトも無事らしい。
穏やかだ。ハイビーム&爆音でぶっ飛ばすバイクとすれ違う方がまだ不快であろう和やかさ。
『馬鹿な……馬鹿なぁぁぁぁ!?』
黒龍はまだ頑張って赤雷を放ち続けているが、車内は何も変わらない。勇者さんと魔王陛下がカーテンを全部閉めてくれたので、雰囲気はほぼ夕暮れ時。席を立ってミルクでも温めたくなる。
「いやはや、これは」
俺ほど落ち着いてはいないのか、陛下さんは呆れ果てた面持ちで壁をコツコツ叩いている。
「簡単に消し飛びはすまいと思っていたが……揺れひとつ無いとは。
こりゃ、魔力の法則とは別の力が働いておるな。さすがは異世界人のスキルよ。
我らの技術でこいつを破れるようになる頃には、文明レベルが四つか五つ上がっていような」
「何十年かかるんだか」
勇者さんがぼやくように言ったが、その声はだいぶ弾んでいた。
どうやら早速、キャンピングカー攻略のための考察を始めているらしい。
「正攻法での破り方は、魔法の専門家にまかせるとして」
真剣そのものといった様子で、続ける勇者さん。他ならぬ魔王陛下に向けて。
「突破する手が無いわけじゃないね。
パッと浮かぶのは、エイジくんに『結界を突破されてもいい』と思わせること。
例えばこの世界に絶望して『もう死にたい』と思わせるとか、人質を取って『結界を解け』と命じるとか」
えげつねえ。
何がえげつないって、そういう外道戦法を口にする勇者さんの目がキラキラしていることだった。すっげえ楽しそう。この人、どうも真っ向勝負だけでなく、敵を討つための工夫全般が好きらしい。恐らくは暗殺、ハニトラ、何でもあり。
なるほど、これは危険人物。どんな育てられ方をしたらこうなるんだ――って、そうか。確実に魔王を討ち果たす存在として最適化されたのか。
「仮に、結界を突破したとして」
戦慄する俺の気も知らず、危険人物はウキウキで続ける。
「この猫をどうすれば無力化できるかな。
見たところ、材質自体がこの世のものじゃないレベルで頑丈みたいだけど」
「お主か魔王さんが全開でぶちかませば流石に木っ端微塵だろうが……できれば下々の者にも可能な対策が欲しいな。一般兵でも今日からできる異世界猫攻略法。
そうさな、毒霧の魔法で御者を殺すか」
「アリだね。――どう思う? エイジくん」
俺に訊くのか、と一瞬たじろいだが、考えてみれば当然のことだ。これは研究の一環なのだから、自動車というものを一番よく知る人間の意見は不可欠だろう。
俺は少し考えてから、
「駄目でしょうね」
首を振る。
「このクルマはのボディはチタニウムっていう金属の一体成型で――正確には装甲板も被せてるんですが今は関係ないです――とにかく、石積みの建物なんかよりずっと気密性が高いですから」
「気密ってなーに?」
「霧が入り込む隙間が無いってことです。窓や扉との隙間も、樹脂っていう柔らかい素材でくっついてて、霧も水も入って来られません」
「車内に直接毒霧を生み出しては?」
「換気できちゃうからなあ。
窓開けて換気扇全開にして走り出せば、俺が窒息するより早く霧の外に出られるでしょう」
「炎で取り囲んで蒸し焼きにしよう」
「冷房があるから時間がかかります。やっぱり俺が参る前に走って逃げられるんじゃないかな。時速60km……そこらの馬より速いですから、走り出せば空冷も効きます」
「車輪を槍とかで貫いちゃうのは?」
「スタッドレスタイヤは頑丈ですからねえ。聖剣や魔槍ならともかく鉄の刃が簡単に通るかな」
「「手強い……」」
勇者と魔王が揃って黙り込む。
剣と魔法の世界がキャンピングカーを攻略するのは、思った以上に大変そうだ。俺も知恵を絞りますから、一緒に頑張って考えましょうね。
『そら見ろ不可能だ! 悩むだけ無駄だッ!』
まだ聞いていたらしく、黒龍が嬉しそうに割り込んでくる。ああもう五月蠅いな。
『フィリアノールよ。
貴女は遠からず結界を突破し、その異世界人を斬るだろう。斬らずともそう出来るようになろう!
しかしそれまでだ。それ以上の発展は無い。
貴女を悦ばせるものは、それを最後に何ひとつ……』
「斬れねーよ」
俺は一蹴してのける。
何を言ってるんだこの勇者厄介勢は。
「勇者さんが俺を斬るには、まず俺が『死んでもいい』と思わなきゃダメだろ。
そんなこと思わねーよ。もう二度と」
『……本当だな?』
不意に横から声がして、俺は助手席を見やる。
クリスさんだ。何故か姿を消していた騎士団長の立体映像が、嬉しそうにこちらを覗き込んでいる。
お帰りなさい。何してたんですか? 正直だいぶ心細かったんですが。
『死んでいいと思わないということは』
俺が尋ねるより早く、前のめりで詰め寄るクリスさん。ガチ恋距離をやめろ。惚れてしまう。
『死んでいいと思わないということはな、毎日徹夜同然の生活をしたり、暑い中を一日中歩き回ったり、敵の力も確かめないまま囮になったりしないという意味だぞ。
約束できるか?
決して命を粗末にしないと』
「そう言われちゃうと」
自信が無い。なってこった。命を大事にするって大変。
『これは心配だな?』
クリスさんは苦笑いして、勇者さんに目を向ける。
俺たちのことなど全く無視して、陛下さんと話し込んでいる勇者さんに――早くも意気投合してんじゃんこの両雄――
『エイジが命を大事にできるようになるまで、研究は控えた方がよさそうだな。フィリア。
その間、温泉巡りにでも連れて行ってもらえばどうだ?』
「温泉!」
今度は陛下さんの存在を忘れ去り、グアッ! とこっちを見る勇者さん。
温泉お好きなんですか?
「風呂が嫌いな人間なんてこの世界にいないよエイジくん!
地球でもそうでしょ!?」
「地球には一定数いるかな……」
「何て世界だ」
『こっちにも幾らかはいるよフィリア。エイジに偏った情報を与えるな』
「地球には猫人族がおらんのだろう? 風呂嫌いの比率はこっちの方が高いぞ絶対」
「あー……」
陛下さんの言葉に、勇者さんは天を仰いだ。猫人族。そういう人たちもいるのか。
勇者さんは一人でぶつぶつと、
「戦後は猫人族の入浴啓発事業とかやろっかな」
『壮大な事業だ。効果が出始めるのに二百年かかるな』
「長生きしなくちゃなあ」
真剣な顔で呻く勇者さん。俺にはよくわからないが、やりたいことが増えたなら素晴らしい。
「――お風呂っていえば、エイジくん」
勇者さんはまた目を輝かせ、俺の方に目をやった。はい何でしょう?
「この猫の中にお風呂ある?
ほら、この猫って家を背負って走ってるんでしょ?
こんなに豪華な家ならお風呂もあるよね。入ってみたいなあ」
「うーん、生憎……」
風呂まで担いで走るのは、家を背負う猫の中でも血統書付きのとびきりだけだ。当物件に風呂は付属しておりません。
そう伝えると、勇者さんは露骨に悲しそうな顔をした。
……いかん、心苦しい。非常に心苦しい。
よく考えたら、この人はついさっきまで高度一千メートルの極寒風に晒されていたのだった。さらに言うなら、やむを得なかったとはいえ晒したのは俺自身である。
となれば、万難を排してお風呂を提供するのがスジというものではあるが……。
(悪いけど、その前にシロさんを拾いに行きたいんだよなぁ)
カーテン越しに、シロさんがいたあたりを見やる。
さっきから一言も発していない彼女が、俺は心配で仕方なかった。
黒龍の赤雷はこっちに向いたが――カーテンから漏れる光を見る限り、今もまだ照射は続いているようだ――その前にかなりの長時間、シロさんの障壁と押し合っていたのだ。シロさん、疲れ切って墜落などしていないか。平気なら何故、空間跳躍で戻って来ないのか。
『エイジ』
そわそわとハンドルを突っつく俺に、クリスさんが呑気に笑いかける。
『創ってやってくれないか』
そんな、貴女まで。
恨みがましくジト目を向けたとき、彼女が一枚の紙を持っていることに気づく。
もう一方の手にはペン。さらに、膝の上にはぶ厚い本を載せていた。
その背表紙にいわく――『にほんごじてん』。
日本語辞典? 何故そんなものを?
抱いた疑念の半分に、黒龍の声が答えてくれた。
『わ……我に隠れて何しとるさっきからァ!?』
青息吐息、疲労の色が濃い怒鳴り声から、俺はクリスさんの意図を知る。
黒龍は『我に隠れて』と言った。つまり、魔法でこちらの声は拾えても、映像を捉えることは出来ないのだ。
『黙って聞いておればッ……ゼェッ……風呂だとぅ!? ハァ、ヒィッ!
我が赤雷を浴びているのがわかって……ヒィ……いるのかァ貴様らァ!
そのような結界、すぐにッ、消し飛ばゲェッホ!
死する前に身を清めようというのなら不要ぞ!
この赤雷が、罪も穢れもゲッホゲェッホ』
もう喋るな。しんどいなら。
喘鳴と化す黒龍の主張を聞き流しつつ、俺はクリスさんが持つ紙に目をやる。
そこには、彼女が書いたらしき平仮名が並んでいた。微妙に形を間違えつつも、一生懸命、丁寧に書いたのが伝わる筆致で、
『こくりゅラの ちゅラいを ひきつけたい』
ふむふむ。この『ラ』は『う』の書き損じか。二角目は尖らせずに丸く曲げると『う』になりますよクリスさん。
さて、文面にはまだ続きがある。
『じかんかせぎ
シロ
ラごいている』
「!」
クリスさんと目を合わせると、彼女は唇に指を当てた。
なるほど。クリスさんとシロさんの間で何かの作戦が動いているのか。この人がなかなか戻って来なかったのは、魔力通話でその打ち合わせをしていたからだろう。
――了解。お二人の作戦なら、俺に疑う理由はありません。
存分に時間を稼ぎましょう。
≪物質変換≫起動。俺の意志を受け、無人のダイネットが俄かに淡い光を放ち――
「おーっ! ……って、あれ?」
身を乗り出した勇者さんが、怪訝そうに首をかしげる。
恐らく彼女は、光の中から満々にお湯を張った湯舟が現れると思ったのだろう。
だが違う。ダイネットの目立った変化といえば、床に何やら直線の割れ目が数本走っていることだけ。
観察力豊かな勇者さんなら、割れ目はイスとテーブルの足にも入っているのを見逃さなかったろう。
「えと、これは……」
勇者さんだけでなく他の二人からも送られる疑問の視線を受け流し、俺は運転席を離れて床の割れ目に――正しくは折り目に手をかける。そして。
ガチャン
小気味よい音とともに、引っぱり上げる。折り畳まれて床の一部になっていた構材が、壁となって垂直に屹立した。
「おおっ!?」
驚きの声を聞きながら、俺は別の折れ目も次々と引き上げていく。都合四ヶ所をそうしてやると、ダイネットが縦1m弱の壁に囲まれた状態になる。
壁と壁とを金具でロック。最後に湯舟の中にあるイスとテーブルの足を畳んであげれば――
「はい湯舟完成。
今お湯張りますね」
「わぁい」
「……勇者が幸せならそれでいいんじゃが」
バンザイする勇者さんの隣で、今度は魔王さんが首をかしげる。
「なんでこんな面倒なカラクリにしたんじゃ?
普通にスキルで湯舟創ればよくね?」
「よくねえんです」
畏れ多くも魔王陛下のお言葉を、俺はばっさり斬り捨てる。
続けて、
「スキルには変形のロマンがない」
「へんけい?」
「……って何?」
『さあ?』
血を吐くような俺の言葉は、誰にも響かなかったらしい。
ええい。ロボットアニメどころか蒸気機関も無い世界の人間には、ジャキーンガキーンバァァァァンのかっこよさはわからんか。モーフィングには夢が足りぬとわからぬか。
――まったく、俺がこのキャンピングカーに感じている唯一の欠点はそれだった。
融通が利きすぎる。ドアを開けたりシートを倒したりするときの、少年心を刺激する手ごたえが、地球に存在するどんな車両にも劣ってしまうのだ。スキルを使わなければいいという問題ではない。その気になれば出来るという事実自体がロマンを奪うのだ。
「てゆーかですね皆さん!
この風呂だってかなり魔法で嘘ついてますからね!?
こんなところに湯舟置いたら本当は床がずぶ濡れになるし、そもそもどこから給水・排水するんだって話だし、キッチンや冷蔵庫も他の電気系も間違いなく湿度でイカれるし、掃除とかメンテも超大変です!
そういうの全部魔法で誤魔化すのは、ギミック好きとして……ロボットを愛する者として……不本意……!」
「おっおう」
「まあ、それはそれとして早く入りたいですよね。はいお湯」
≪物質変換≫で瞬時にお湯を張ってあげると、三人はまた一斉に首を傾げた。
「その嘘はついていいのか?」
「ここにロマンは無いですから。俺的に」
『基準がわからんなぁ。興味深い。落ち着いたら詳しく聞こう』
「うっす。それまでに言語化しときま……」
『我に灼かれながら今後の予定を立てんでくれるか!? なあ!?』
割り込んできた黒龍は、もう涙声になっていた。
まだ健気に赤雷を吐き続けているらしいが、うちの猫は文字通り微動だにしていない。ほらどうした。もっと頑張れ。
『異世界人よ!
未来が暗いのは貴様も同じであろう!
貴様は終戦のための切り札。ならばその役割を終えた後、貴様の存在意義は……』
「いやぁ俺のスキルは戦後復興こそ本領だろうよ。
食い物とか橋とか家とか創れるし、この通り風呂だって」
『そのような栄誉はたちまち消え失せるぞ!』
黒龍は断言した。
『我は知っておるのだ。見てきたのだ。
賢者の与える恩恵に、人々は一時は感謝する。しかし、その恩恵をいずれ当然と感じるようになる!
賢者の偉業は忘れられるのだ! 百年後、二百年後のことではない。すぐだ。
必ず忘れられる功績など、立てたところで……』
「ンなこたぁわかってるよ」
『!?』
ヒラヒラ手を振りつつ言うと、黒龍は絶句したようだった。
生憎、現代の地球では、黒龍の言ったようなことは常識だ。
かの林檎の大賢者がスマートフォンを初めて世に送り出したのは2007年。そこから二十年も経っていないが、最初期のスマホを喜んで使う人はどこにもいない。
米空軍のトムキャットやイーグルファイターはとっくに退役しているし、世界初のインスタントラーメン――は今食べても美味いか。すげえな。
ともあれ、ごく一部の例外を除いて、『最新鋭』がいずれ陳腐化するのは当然だ。
ということは、『感謝』が『当然』に変わるのも必然。
だから――
「だから勉強するんだろ。あと研究」
『………!?』
「今の俺が必要とされなくなる頃、俺はその時代に必要な俺になってるよ。
もっとも……」
そこで言葉を切り、俺は手近なカーテンを開けてみる。
黒龍はついに力尽きたようで、赤雷の光は既に無かった。
代わりとばかりに戻ってきたのは、眼下に広がるクリスタルの原野。
地を覆い尽くし煌めく緑と、それを包み込む白き嶺。何度見ようと、どれだけ見ていようと、俺は絶景に圧倒され続ける。
陳腐化しない価値があるとすれば、きっと絶景を目にする衝撃だ。
あり得ないような、人間の価値観では到底測れないような、星のカタチ。それと出逢うための乗り物は、きっといつまでも意味を持ち続ける。ただ走って、ヒトを運ぶだけのモノが。
と――
「ただいまぁ」
ちゃぽん、という水音とともに、なんとも気の抜けた声がした。
シロさんだ。≪空間跳躍≫でたった今戻ったらしき白龍が、蕩けた顔で肩までお湯に浸かっている。
「―――!」
それを見て、俺は湯舟に飛びついた。
押し殺していた焦燥が溢れ出す。お帰りなさい、シロさん。大丈夫ですか。火傷とかしてませんか。
声に出すのももどかしく、彼女の顔から爪先まで見回す。一糸まとわぬ姿なので、確認がスムーズでとても助かる。
指先まで繊細で精緻な手足も、ほっそりと華奢で儚い胸も、雪のように真っ白だ。外傷、無し。少なくとも俺にはそう見える。
「シロさん、痛むところは!? あと、吐き気とかありませんか!?」
「……無いよ? 無いんだけど」
と、シロさんは何やら不満げに、
「エイジが一ミリも照れてくれなくて、シロさんちょっとムカついてる」
「緊急対応中ですから。そういう反応は封印されてます」
「そうなの?」
そうです。
そもそも、男は二十五歳にもなると女性の裸単体ではそこまで欲情しなくなります。シチュエーションが重要なのです。何言ってんだ俺は。
「……ありがとね」
くしゃっ、とシロさんが笑ってくれた。
いや、素敵な笑顔なのに悪いんですが、感謝より現状を報告してください。よく考えたら俺は龍の生態なんて知らない。命が危ないかどうかなんて、人間用のバイタルチェックでわかるわけがないのだ。そのままお湯に溶けて消えるんじゃないかと気が気じゃない。
「心配ないよ、エイジくん」
勇者さんが横からそう言ってくれる。
本当ですか。そして貴女、いつの間に服脱いで湯舟に肩まで浸かってるんですか。男の俺に見られていいんですか。
それらの疑問を口にするより、勇者さんが続きを言う方が早かった。
「この猫の中では、キミの望まないことは起こらない。
なら白龍公が亡くなることはないよ。
見たところ相当弱っていらっしゃるようだけど、しばらく休めば力を取り戻される。
――ですよね、白龍公?」
「そうそう」とシロさんが頷いている。続けて、
「いやー、黒龍ちゃんの赤雷防いでたら魔力ごっそり削られちゃってさ。素寒貧寸前。
ま、そのおかげでお花に近づいてもふっ飛ばさなくなってたんだけど。
つーわけで摘んで来たよ。ほら」
「おおっ!?」
彼女が頭に載せていた花冠に、俺はこのときようやく気づく。
白い、ダリアによく似た花。ミラージュダリアの毒を消す薬の材料だ。
――なるほど。クリスさんが「時間を稼ぎたい」と言っていたのはこれが理由か。
「うまくいったねークリスー。いえーい」
『いえーい』
『あああああああ』
笑い交わす二人のやり取りに、黒龍の声が重なった。力をすっかり使い切ったのか、魔力通話の声さえ掠れている。大昔の電話で喋ってるみたいだ。
窓から見る限り、あの巨体ももう見当たらない。どこかに墜落して、シロさんみたいな人間モードでどこかに転がっているんだろうか。
『……本当に大丈夫か。勇者よ』
弱々しく、黒龍が問うた。怯え、物陰に隠れるように。
『フィリアノール=L=ゼオハウスト。
貴女が幸せに生きるのに、もう戦乱は必要ないのか』
「――うん」
勇者の答えに迷いは無かった。
『……そうか』
黒龍が息をつく。ひどく深くて、切ない吐息。
『ならば、我は祝福しよう。
貴女を傷つけるであろう平和を、黒龍ペーネミュンデは赤き雷にて護ろうぞ。
……ちょっと眠って元気になったら』
それきり、黒龍の声は途絶えた。
そのとき頭に浮かんだ、花畑で眠る黒いドレスの少女の姿は――単なる俺の幻視だったのか、否か。
「エイジくん、ちょっといい?」
勇者さんが湯舟から手招いたのは、幻視を見たほんの数秒後だった。余韻も何もありゃしない。
何でしょう?
「せっかく空の上にいるんだからさ、露天風呂的な感じになったら最高なんだけど……できる?」
それは。
自分は世界を楽しんでいると黒龍に伝えるためのリクエストかもしれなかった。
黒龍への気持ちと、単純に露天風呂に入りたい欲望、比率としては1:9ほどか。
何しろ、赤雷がひどくうるさい。黒龍の顎から放たれるそれは白龍の障壁と激突し、修学旅行で見た那智の滝を十は束ねたような轟音を放っている。黒龍の低く静かな声など、むしろ聞き取れる方がおかしい。
――だが。
次に聞こえて来た魔力通話を、俺の耳は今度こそ捉えてしまう。
『ズィーガ=マデンツァ、答えよ。
貴様は何ゆえ、戦を終わらせる者を討とうとせぬ?』
疑念というより、怒りに満ちた声。
もう間違いない。
黒龍ペーネミュンデは、人類と魔族が戦い続けることを望んでいる。
そのために、ここにいる三人を――勇者、魔王、異世界人をまとめて排除しようとしているのだ。
でも、どうして?
『どーしてそんなことしなきゃいけないの!?』
こちらも声を怒りに染めて、吼えるシロさん。
『戦争が続こうが終わろうが、それはこの子たちの営みでしょ!?
ボクたちがちょっかいかけることじゃない!
てゆーかキミ、神龍の使命に普通に反してるよねえ!?
ボクらの仕事は、異世界人みたいな外なる力が世界を乱しすぎるのを防ぐことでしょ!
一兆歩譲ってエイジはともかく、勇者ちゃんと陛下ちゃんに手を出すのは筋が通らな――』
『そのような正論はどうでもいいッ!!』
いきなり。
黒龍の怒号とともに、赤雷がさらに勢いを増す。
ど、どうしたんだ急に。シロさんの今の言葉は、逆鱗に触れるものだったのか。
戸惑うこちらを知ってか知らずか、黒龍はさらに吼え猛る。
『何故だと!?
白龍こそ何故我が心がわからぬ!? 察して手を貸そうとせぬ!?
我がこうする理由はただひとつ!
ミラージュダリアまで使って、魔王と勇者を弱めた理由はただひとつッ!
戦が終わってしまったら、我が最推しの勇者フィリアノールが生きづらくなるからに決まっておるだろうが!!」
「「はあっ!?」」
「わ、私!?」
急転直下の爆弾発言に、俺たちは口を揃えて叫ぶ。
ついでに言うと、俺は動揺しすぎてハンドルを誤りかけ、慌ててブレーキを踏んでしまった。危ねえ。運転中に知っていい真相じゃねえ。
「……勇者さん、陛下さん、確認したいことが」
俺は肩越しに両雄を見やり、問う。
「『推し』っていうのは地球の言葉で、『その生き方を応援したい、夢中になるほど好きな存在』のことなんですが。
こっちでは別の意味があったりするんですか?」
「いや」
「残念ながらその意味しか無いね。この文脈では」
「そっかー……」
『貴様も知っておろう! ズィーガ=マデンツァ!』
車内の微妙な空気をよそに、黒龍はさらにシロさんへ怒鳴る。赤い稲妻で苛みながら。
『フィリアノールは魔王を斬るために己を磨き、魔王と戦うことのみを生きる愉しみとした女!
そのような人間が、平和な世を幸福に生きられると思うか?
そのような人間は、魔王を公然と斬ることの出来ぬ時代に何をして生きれば良い!?
何も無いのだよ! 何も!
フィリアノールにとって、平和な時代に生きることそのものが責め苦なのだ!
ゆえに今、殺す! 死ぬまで尽きぬ痛苦に喘ぐ前に、我が今ここで死を与える!』
「そーいうのは推しって言わない……」
頭痛を堪えつつ俺は言う。
「あんたのやってることは、推し活じゃなくて人形遊びもしくはストーカー殺人」
『何だと地球人この野郎!!』
「推しの生き方を決めつける権利はファンには無いって言ってるんだよ。
俺は推し活したことないから、知り合いの受け売りで申し訳ないけど」
『受け売りで愛を否定するでない!』
「そう言われると弱い」
「弱くないよ完璧に正しいよエイジくん」
心強い声援は、当の勇者さんの口からもたらされた。
見れば、クルマの横っ腹に張りついたまま(張りつけたのは俺だが)、勇者さんは真っすぐに黒龍を見据えていた。斬閃より鋭い真紅の眼光。
「あのねペーネミュンデ、人の将来を勝手に決めつけないでくれる?
私だって魔王なんかと斬り合わなくても毎日楽しく生きて…………………………………いけると信じる努力はしてるんだよ?」
あ、そこ自信ないのか。
『ダメそうではないか! 思っていた以上に!』
「や、やってみなくちゃわかんないじゃん!」
それまでの毅然とした態度を崩し、つんのめるように叫ぶ勇者さん。
確かにこれはダメそうだ。この流れで出る『やってみなくちゃわからない』は、ノープランで突っ込んで失敗する人間の常套句。
が、この場合のノープランは責められるべきものではないだろう。それどころか、勇者フィリアノールの気高さを雄弁に物語っている。
平和な時代に馴染める自信を持てないまま、勇者は戦争を終わらせようとしているのだ。その勇気は讃えられるべきであり、その献身は報われるべきだ。
そして、その未来は救われるべきだ。
少なくとも俺はそう思う。
だから。
「勇者さん」
真っ先に浮かんだ考えを、俺は躊躇なく口にする。
「戦後は、俺の倒し方を考えましょう」
「『へっ?』」
勇者さんはギョッとしたようだった。黒龍も。俺は続けて、
「いやほら、≪物質変換≫といい≪望まないことが起きなくなる結界≫といい、俺のスキルって客観的に見てあたおかじゃないですか。
これを凌駕する技術とか戦術が見つかれば、世の中のためにもなりそうだなって」
「なるけど……絶対なるけど」
勇者さんは戸惑った様子で、キャンピングカーのドアに手を触れる。
その仕草こそ慎重で、俺への遠慮に満ちてはいたが――しかし俺は見逃さなかった。
彼女の真っ赤な瞳の奥に、既に炎が宿っている。
ライオンを発見したハンターのような、獰猛で、それはそれは激しく燃え盛る炎。
それで俺を焙りつつ、それでも遠慮がちに勇者は言った。
「いいの……?」
「どうぞ」
頷くと、彼女は笑ってくれた。
救いを見つけたような、百年の氷が融けて流れていくような、安堵の笑み――と呼ぶには眼光が剣呑すぎるけど。あれ? 俺、早まった?
「……勇者さんあの、『いいの?』って『キミをぶち殺していいの?』って意味だったり……」
「しないよ!?」
「よかった。もしそうだったら若干距離を置こうかと」
「距離置くだけなんだ……? しかも若干……?」
それはまあ。
何しろ、キャンピングカーは人の心を豊かにするための車だ。その運転手である俺が、精神的にしんどい人から逃げちゃダメだろう。
「……そっかぁ」
俺の胸中を読み取ったのか、フィリアノールさんが天を仰いだ。
美しいその横顔に、ほろ苦い笑みが浮かんでいる。何かを悔いるような、恥じるような、そんな笑み。
ど、どうしました? 俺は何か気に障るようなことを?
戸惑うこちらを見ようともせず、この世界の勇者は独白する。
「恥ずかしいなぁ。異世界には、こんなにちゃんとした勇者がいるんだ」
「いや俺は」
「勇者というより賢者であろうな」
厳かにそう言ったのは、ずっと黙って聞いていた魔王陛下だった。
面白いものを見るように、切れ長の目を細めて続ける。
「人を救う術は様々。
苦難に対して先陣を切り、その背で導くのが勇者なら、地図を与えて正しい方向を指し示すのが賢者。
猫を従えた異界の賢者は、勇者に生きる道を示すか」
「そんなに褒められると居心地が悪くて……そもそも正しい道って保証は……」
『正しいわけがあるかァァァァ!!』
こちらも黙っていてくれた黒龍が、喉も裂けよと割り込んでくる。
こんなに怒ってるのにこちらの話をひと通り聞いてくれるあたり、そこまで悪い龍じゃないのかもしかして。
『正しき道を示すだと!? 勇者に!?
不可能! 不可能ッ!
何故ならその者には力が足りぬ!
いかにスキルによる結界といえど、魔力で編まれたものである以上、より大きな魔力塊をぶつければ砕ける!
例えば、勇者が全力で振るう光刃のように!
例えば、これこのようになァ――――!!』
「!」
刹那、黒龍が空を仰いだ。
シロさんに向けて注いでいた赤雷を、一旦途絶えさせ、再度収束。先に倍する――数倍に達する紅蓮の幹を織り上げる!
あれで砕く気だ。俺の≪結界≫を、勇者さんごと。
「くっ……!」
焦燥と葛藤が胸を焼く。
頭に浮かんだのは、勇者さんを車内に入れねばならないということだった。
万全の状態ならともかく、ダリアの毒で常人並みの力しか発揮できない彼女に赤雷を避けることはできない。耐えることはもっとできない。
だが、彼女はそれを望んでくれるか。
やはりこのまま死にたいと、まだ思っているのではないか。魔王と同じ車に乗ってまで平和な世に生きるくらいなら、この瞬間に灰になりたいと、そう望んではいないのか。
「エイジくん」
勇者の声は揺るぎなかった。
少なくとも、俺にはそう聞こえた。
「助けて」
「承知!」
反応は一瞬。
既に起動していた≪物質変換≫を実行。車体側面の構材を流動させ、勇者さんを車内に放り込む。ちょうどそこにいた陛下さんと衝突して諸共ぶっ倒れたのは、たまたまだったのか否か――俺は陛下さんの策略だと思う。
「ぴゃあっ♡」
……という、魔王の乙女チックな声は、赤雷が殺到した輝きに消えた。
黒龍ペーネミュンデの赤雷。恐らくはこの世界の現象で最も強く、最も無慈悲な力の波に、キャンピングカーが呑み込まれる。
白い車体を紅蓮が蝕む。際限なく。五秒。十秒。無限に続く究極の責め苦に、嗜好品に過ぎない異界のクルマは何ひとつ抗う術を持たず――
シャッ
取り敢えず。
光が眩しいので、俺はフロントウィンドウのカーテンを閉じた。
車内に起きた変化は、それだけだった。
揺れも、雷の轟音も無ければ、車内温度の0.1度も変わらない。車体が落ちて行かないということは、足元のアスファルトも無事らしい。
穏やかだ。ハイビーム&爆音でぶっ飛ばすバイクとすれ違う方がまだ不快であろう和やかさ。
『馬鹿な……馬鹿なぁぁぁぁ!?』
黒龍はまだ頑張って赤雷を放ち続けているが、車内は何も変わらない。勇者さんと魔王陛下がカーテンを全部閉めてくれたので、雰囲気はほぼ夕暮れ時。席を立ってミルクでも温めたくなる。
「いやはや、これは」
俺ほど落ち着いてはいないのか、陛下さんは呆れ果てた面持ちで壁をコツコツ叩いている。
「簡単に消し飛びはすまいと思っていたが……揺れひとつ無いとは。
こりゃ、魔力の法則とは別の力が働いておるな。さすがは異世界人のスキルよ。
我らの技術でこいつを破れるようになる頃には、文明レベルが四つか五つ上がっていような」
「何十年かかるんだか」
勇者さんがぼやくように言ったが、その声はだいぶ弾んでいた。
どうやら早速、キャンピングカー攻略のための考察を始めているらしい。
「正攻法での破り方は、魔法の専門家にまかせるとして」
真剣そのものといった様子で、続ける勇者さん。他ならぬ魔王陛下に向けて。
「突破する手が無いわけじゃないね。
パッと浮かぶのは、エイジくんに『結界を突破されてもいい』と思わせること。
例えばこの世界に絶望して『もう死にたい』と思わせるとか、人質を取って『結界を解け』と命じるとか」
えげつねえ。
何がえげつないって、そういう外道戦法を口にする勇者さんの目がキラキラしていることだった。すっげえ楽しそう。この人、どうも真っ向勝負だけでなく、敵を討つための工夫全般が好きらしい。恐らくは暗殺、ハニトラ、何でもあり。
なるほど、これは危険人物。どんな育てられ方をしたらこうなるんだ――って、そうか。確実に魔王を討ち果たす存在として最適化されたのか。
「仮に、結界を突破したとして」
戦慄する俺の気も知らず、危険人物はウキウキで続ける。
「この猫をどうすれば無力化できるかな。
見たところ、材質自体がこの世のものじゃないレベルで頑丈みたいだけど」
「お主か魔王さんが全開でぶちかませば流石に木っ端微塵だろうが……できれば下々の者にも可能な対策が欲しいな。一般兵でも今日からできる異世界猫攻略法。
そうさな、毒霧の魔法で御者を殺すか」
「アリだね。――どう思う? エイジくん」
俺に訊くのか、と一瞬たじろいだが、考えてみれば当然のことだ。これは研究の一環なのだから、自動車というものを一番よく知る人間の意見は不可欠だろう。
俺は少し考えてから、
「駄目でしょうね」
首を振る。
「このクルマはのボディはチタニウムっていう金属の一体成型で――正確には装甲板も被せてるんですが今は関係ないです――とにかく、石積みの建物なんかよりずっと気密性が高いですから」
「気密ってなーに?」
「霧が入り込む隙間が無いってことです。窓や扉との隙間も、樹脂っていう柔らかい素材でくっついてて、霧も水も入って来られません」
「車内に直接毒霧を生み出しては?」
「換気できちゃうからなあ。
窓開けて換気扇全開にして走り出せば、俺が窒息するより早く霧の外に出られるでしょう」
「炎で取り囲んで蒸し焼きにしよう」
「冷房があるから時間がかかります。やっぱり俺が参る前に走って逃げられるんじゃないかな。時速60km……そこらの馬より速いですから、走り出せば空冷も効きます」
「車輪を槍とかで貫いちゃうのは?」
「スタッドレスタイヤは頑丈ですからねえ。聖剣や魔槍ならともかく鉄の刃が簡単に通るかな」
「「手強い……」」
勇者と魔王が揃って黙り込む。
剣と魔法の世界がキャンピングカーを攻略するのは、思った以上に大変そうだ。俺も知恵を絞りますから、一緒に頑張って考えましょうね。
『そら見ろ不可能だ! 悩むだけ無駄だッ!』
まだ聞いていたらしく、黒龍が嬉しそうに割り込んでくる。ああもう五月蠅いな。
『フィリアノールよ。
貴女は遠からず結界を突破し、その異世界人を斬るだろう。斬らずともそう出来るようになろう!
しかしそれまでだ。それ以上の発展は無い。
貴女を悦ばせるものは、それを最後に何ひとつ……』
「斬れねーよ」
俺は一蹴してのける。
何を言ってるんだこの勇者厄介勢は。
「勇者さんが俺を斬るには、まず俺が『死んでもいい』と思わなきゃダメだろ。
そんなこと思わねーよ。もう二度と」
『……本当だな?』
不意に横から声がして、俺は助手席を見やる。
クリスさんだ。何故か姿を消していた騎士団長の立体映像が、嬉しそうにこちらを覗き込んでいる。
お帰りなさい。何してたんですか? 正直だいぶ心細かったんですが。
『死んでいいと思わないということは』
俺が尋ねるより早く、前のめりで詰め寄るクリスさん。ガチ恋距離をやめろ。惚れてしまう。
『死んでいいと思わないということはな、毎日徹夜同然の生活をしたり、暑い中を一日中歩き回ったり、敵の力も確かめないまま囮になったりしないという意味だぞ。
約束できるか?
決して命を粗末にしないと』
「そう言われちゃうと」
自信が無い。なってこった。命を大事にするって大変。
『これは心配だな?』
クリスさんは苦笑いして、勇者さんに目を向ける。
俺たちのことなど全く無視して、陛下さんと話し込んでいる勇者さんに――早くも意気投合してんじゃんこの両雄――
『エイジが命を大事にできるようになるまで、研究は控えた方がよさそうだな。フィリア。
その間、温泉巡りにでも連れて行ってもらえばどうだ?』
「温泉!」
今度は陛下さんの存在を忘れ去り、グアッ! とこっちを見る勇者さん。
温泉お好きなんですか?
「風呂が嫌いな人間なんてこの世界にいないよエイジくん!
地球でもそうでしょ!?」
「地球には一定数いるかな……」
「何て世界だ」
『こっちにも幾らかはいるよフィリア。エイジに偏った情報を与えるな』
「地球には猫人族がおらんのだろう? 風呂嫌いの比率はこっちの方が高いぞ絶対」
「あー……」
陛下さんの言葉に、勇者さんは天を仰いだ。猫人族。そういう人たちもいるのか。
勇者さんは一人でぶつぶつと、
「戦後は猫人族の入浴啓発事業とかやろっかな」
『壮大な事業だ。効果が出始めるのに二百年かかるな』
「長生きしなくちゃなあ」
真剣な顔で呻く勇者さん。俺にはよくわからないが、やりたいことが増えたなら素晴らしい。
「――お風呂っていえば、エイジくん」
勇者さんはまた目を輝かせ、俺の方に目をやった。はい何でしょう?
「この猫の中にお風呂ある?
ほら、この猫って家を背負って走ってるんでしょ?
こんなに豪華な家ならお風呂もあるよね。入ってみたいなあ」
「うーん、生憎……」
風呂まで担いで走るのは、家を背負う猫の中でも血統書付きのとびきりだけだ。当物件に風呂は付属しておりません。
そう伝えると、勇者さんは露骨に悲しそうな顔をした。
……いかん、心苦しい。非常に心苦しい。
よく考えたら、この人はついさっきまで高度一千メートルの極寒風に晒されていたのだった。さらに言うなら、やむを得なかったとはいえ晒したのは俺自身である。
となれば、万難を排してお風呂を提供するのがスジというものではあるが……。
(悪いけど、その前にシロさんを拾いに行きたいんだよなぁ)
カーテン越しに、シロさんがいたあたりを見やる。
さっきから一言も発していない彼女が、俺は心配で仕方なかった。
黒龍の赤雷はこっちに向いたが――カーテンから漏れる光を見る限り、今もまだ照射は続いているようだ――その前にかなりの長時間、シロさんの障壁と押し合っていたのだ。シロさん、疲れ切って墜落などしていないか。平気なら何故、空間跳躍で戻って来ないのか。
『エイジ』
そわそわとハンドルを突っつく俺に、クリスさんが呑気に笑いかける。
『創ってやってくれないか』
そんな、貴女まで。
恨みがましくジト目を向けたとき、彼女が一枚の紙を持っていることに気づく。
もう一方の手にはペン。さらに、膝の上にはぶ厚い本を載せていた。
その背表紙にいわく――『にほんごじてん』。
日本語辞典? 何故そんなものを?
抱いた疑念の半分に、黒龍の声が答えてくれた。
『わ……我に隠れて何しとるさっきからァ!?』
青息吐息、疲労の色が濃い怒鳴り声から、俺はクリスさんの意図を知る。
黒龍は『我に隠れて』と言った。つまり、魔法でこちらの声は拾えても、映像を捉えることは出来ないのだ。
『黙って聞いておればッ……ゼェッ……風呂だとぅ!? ハァ、ヒィッ!
我が赤雷を浴びているのがわかって……ヒィ……いるのかァ貴様らァ!
そのような結界、すぐにッ、消し飛ばゲェッホ!
死する前に身を清めようというのなら不要ぞ!
この赤雷が、罪も穢れもゲッホゲェッホ』
もう喋るな。しんどいなら。
喘鳴と化す黒龍の主張を聞き流しつつ、俺はクリスさんが持つ紙に目をやる。
そこには、彼女が書いたらしき平仮名が並んでいた。微妙に形を間違えつつも、一生懸命、丁寧に書いたのが伝わる筆致で、
『こくりゅラの ちゅラいを ひきつけたい』
ふむふむ。この『ラ』は『う』の書き損じか。二角目は尖らせずに丸く曲げると『う』になりますよクリスさん。
さて、文面にはまだ続きがある。
『じかんかせぎ
シロ
ラごいている』
「!」
クリスさんと目を合わせると、彼女は唇に指を当てた。
なるほど。クリスさんとシロさんの間で何かの作戦が動いているのか。この人がなかなか戻って来なかったのは、魔力通話でその打ち合わせをしていたからだろう。
――了解。お二人の作戦なら、俺に疑う理由はありません。
存分に時間を稼ぎましょう。
≪物質変換≫起動。俺の意志を受け、無人のダイネットが俄かに淡い光を放ち――
「おーっ! ……って、あれ?」
身を乗り出した勇者さんが、怪訝そうに首をかしげる。
恐らく彼女は、光の中から満々にお湯を張った湯舟が現れると思ったのだろう。
だが違う。ダイネットの目立った変化といえば、床に何やら直線の割れ目が数本走っていることだけ。
観察力豊かな勇者さんなら、割れ目はイスとテーブルの足にも入っているのを見逃さなかったろう。
「えと、これは……」
勇者さんだけでなく他の二人からも送られる疑問の視線を受け流し、俺は運転席を離れて床の割れ目に――正しくは折り目に手をかける。そして。
ガチャン
小気味よい音とともに、引っぱり上げる。折り畳まれて床の一部になっていた構材が、壁となって垂直に屹立した。
「おおっ!?」
驚きの声を聞きながら、俺は別の折れ目も次々と引き上げていく。都合四ヶ所をそうしてやると、ダイネットが縦1m弱の壁に囲まれた状態になる。
壁と壁とを金具でロック。最後に湯舟の中にあるイスとテーブルの足を畳んであげれば――
「はい湯舟完成。
今お湯張りますね」
「わぁい」
「……勇者が幸せならそれでいいんじゃが」
バンザイする勇者さんの隣で、今度は魔王さんが首をかしげる。
「なんでこんな面倒なカラクリにしたんじゃ?
普通にスキルで湯舟創ればよくね?」
「よくねえんです」
畏れ多くも魔王陛下のお言葉を、俺はばっさり斬り捨てる。
続けて、
「スキルには変形のロマンがない」
「へんけい?」
「……って何?」
『さあ?』
血を吐くような俺の言葉は、誰にも響かなかったらしい。
ええい。ロボットアニメどころか蒸気機関も無い世界の人間には、ジャキーンガキーンバァァァァンのかっこよさはわからんか。モーフィングには夢が足りぬとわからぬか。
――まったく、俺がこのキャンピングカーに感じている唯一の欠点はそれだった。
融通が利きすぎる。ドアを開けたりシートを倒したりするときの、少年心を刺激する手ごたえが、地球に存在するどんな車両にも劣ってしまうのだ。スキルを使わなければいいという問題ではない。その気になれば出来るという事実自体がロマンを奪うのだ。
「てゆーかですね皆さん!
この風呂だってかなり魔法で嘘ついてますからね!?
こんなところに湯舟置いたら本当は床がずぶ濡れになるし、そもそもどこから給水・排水するんだって話だし、キッチンや冷蔵庫も他の電気系も間違いなく湿度でイカれるし、掃除とかメンテも超大変です!
そういうの全部魔法で誤魔化すのは、ギミック好きとして……ロボットを愛する者として……不本意……!」
「おっおう」
「まあ、それはそれとして早く入りたいですよね。はいお湯」
≪物質変換≫で瞬時にお湯を張ってあげると、三人はまた一斉に首を傾げた。
「その嘘はついていいのか?」
「ここにロマンは無いですから。俺的に」
『基準がわからんなぁ。興味深い。落ち着いたら詳しく聞こう』
「うっす。それまでに言語化しときま……」
『我に灼かれながら今後の予定を立てんでくれるか!? なあ!?』
割り込んできた黒龍は、もう涙声になっていた。
まだ健気に赤雷を吐き続けているらしいが、うちの猫は文字通り微動だにしていない。ほらどうした。もっと頑張れ。
『異世界人よ!
未来が暗いのは貴様も同じであろう!
貴様は終戦のための切り札。ならばその役割を終えた後、貴様の存在意義は……』
「いやぁ俺のスキルは戦後復興こそ本領だろうよ。
食い物とか橋とか家とか創れるし、この通り風呂だって」
『そのような栄誉はたちまち消え失せるぞ!』
黒龍は断言した。
『我は知っておるのだ。見てきたのだ。
賢者の与える恩恵に、人々は一時は感謝する。しかし、その恩恵をいずれ当然と感じるようになる!
賢者の偉業は忘れられるのだ! 百年後、二百年後のことではない。すぐだ。
必ず忘れられる功績など、立てたところで……』
「ンなこたぁわかってるよ」
『!?』
ヒラヒラ手を振りつつ言うと、黒龍は絶句したようだった。
生憎、現代の地球では、黒龍の言ったようなことは常識だ。
かの林檎の大賢者がスマートフォンを初めて世に送り出したのは2007年。そこから二十年も経っていないが、最初期のスマホを喜んで使う人はどこにもいない。
米空軍のトムキャットやイーグルファイターはとっくに退役しているし、世界初のインスタントラーメン――は今食べても美味いか。すげえな。
ともあれ、ごく一部の例外を除いて、『最新鋭』がいずれ陳腐化するのは当然だ。
ということは、『感謝』が『当然』に変わるのも必然。
だから――
「だから勉強するんだろ。あと研究」
『………!?』
「今の俺が必要とされなくなる頃、俺はその時代に必要な俺になってるよ。
もっとも……」
そこで言葉を切り、俺は手近なカーテンを開けてみる。
黒龍はついに力尽きたようで、赤雷の光は既に無かった。
代わりとばかりに戻ってきたのは、眼下に広がるクリスタルの原野。
地を覆い尽くし煌めく緑と、それを包み込む白き嶺。何度見ようと、どれだけ見ていようと、俺は絶景に圧倒され続ける。
陳腐化しない価値があるとすれば、きっと絶景を目にする衝撃だ。
あり得ないような、人間の価値観では到底測れないような、星のカタチ。それと出逢うための乗り物は、きっといつまでも意味を持ち続ける。ただ走って、ヒトを運ぶだけのモノが。
と――
「ただいまぁ」
ちゃぽん、という水音とともに、なんとも気の抜けた声がした。
シロさんだ。≪空間跳躍≫でたった今戻ったらしき白龍が、蕩けた顔で肩までお湯に浸かっている。
「―――!」
それを見て、俺は湯舟に飛びついた。
押し殺していた焦燥が溢れ出す。お帰りなさい、シロさん。大丈夫ですか。火傷とかしてませんか。
声に出すのももどかしく、彼女の顔から爪先まで見回す。一糸まとわぬ姿なので、確認がスムーズでとても助かる。
指先まで繊細で精緻な手足も、ほっそりと華奢で儚い胸も、雪のように真っ白だ。外傷、無し。少なくとも俺にはそう見える。
「シロさん、痛むところは!? あと、吐き気とかありませんか!?」
「……無いよ? 無いんだけど」
と、シロさんは何やら不満げに、
「エイジが一ミリも照れてくれなくて、シロさんちょっとムカついてる」
「緊急対応中ですから。そういう反応は封印されてます」
「そうなの?」
そうです。
そもそも、男は二十五歳にもなると女性の裸単体ではそこまで欲情しなくなります。シチュエーションが重要なのです。何言ってんだ俺は。
「……ありがとね」
くしゃっ、とシロさんが笑ってくれた。
いや、素敵な笑顔なのに悪いんですが、感謝より現状を報告してください。よく考えたら俺は龍の生態なんて知らない。命が危ないかどうかなんて、人間用のバイタルチェックでわかるわけがないのだ。そのままお湯に溶けて消えるんじゃないかと気が気じゃない。
「心配ないよ、エイジくん」
勇者さんが横からそう言ってくれる。
本当ですか。そして貴女、いつの間に服脱いで湯舟に肩まで浸かってるんですか。男の俺に見られていいんですか。
それらの疑問を口にするより、勇者さんが続きを言う方が早かった。
「この猫の中では、キミの望まないことは起こらない。
なら白龍公が亡くなることはないよ。
見たところ相当弱っていらっしゃるようだけど、しばらく休めば力を取り戻される。
――ですよね、白龍公?」
「そうそう」とシロさんが頷いている。続けて、
「いやー、黒龍ちゃんの赤雷防いでたら魔力ごっそり削られちゃってさ。素寒貧寸前。
ま、そのおかげでお花に近づいてもふっ飛ばさなくなってたんだけど。
つーわけで摘んで来たよ。ほら」
「おおっ!?」
彼女が頭に載せていた花冠に、俺はこのときようやく気づく。
白い、ダリアによく似た花。ミラージュダリアの毒を消す薬の材料だ。
――なるほど。クリスさんが「時間を稼ぎたい」と言っていたのはこれが理由か。
「うまくいったねークリスー。いえーい」
『いえーい』
『あああああああ』
笑い交わす二人のやり取りに、黒龍の声が重なった。力をすっかり使い切ったのか、魔力通話の声さえ掠れている。大昔の電話で喋ってるみたいだ。
窓から見る限り、あの巨体ももう見当たらない。どこかに墜落して、シロさんみたいな人間モードでどこかに転がっているんだろうか。
『……本当に大丈夫か。勇者よ』
弱々しく、黒龍が問うた。怯え、物陰に隠れるように。
『フィリアノール=L=ゼオハウスト。
貴女が幸せに生きるのに、もう戦乱は必要ないのか』
「――うん」
勇者の答えに迷いは無かった。
『……そうか』
黒龍が息をつく。ひどく深くて、切ない吐息。
『ならば、我は祝福しよう。
貴女を傷つけるであろう平和を、黒龍ペーネミュンデは赤き雷にて護ろうぞ。
……ちょっと眠って元気になったら』
それきり、黒龍の声は途絶えた。
そのとき頭に浮かんだ、花畑で眠る黒いドレスの少女の姿は――単なる俺の幻視だったのか、否か。
「エイジくん、ちょっといい?」
勇者さんが湯舟から手招いたのは、幻視を見たほんの数秒後だった。余韻も何もありゃしない。
何でしょう?
「せっかく空の上にいるんだからさ、露天風呂的な感じになったら最高なんだけど……できる?」
それは。
自分は世界を楽しんでいると黒龍に伝えるためのリクエストかもしれなかった。
黒龍への気持ちと、単純に露天風呂に入りたい欲望、比率としては1:9ほどか。
61
あなたにおすすめの小説
異世界転移「スキル無!」~授かったユニークスキルは「なし」ではなく触れたモノを「無」に帰す最強スキルだったようです~
夢・風魔
ファンタジー
林間学校の最中に召喚(誘拐?)された鈴村翔は「スキルが無い役立たずはいらない」と金髪縦ロール女に言われ、その場に取り残された。
しかしそのスキル鑑定は間違っていた。スキルが無いのではなく、転移特典で授かったのは『無』というスキルだったのだ。
とにかく生き残るために行動を起こした翔は、モンスターに襲われていた双子のエルフ姉妹を助ける。
エルフの里へと案内された翔は、林間学校で用意したキャンプ用品一式を使って彼らの食生活を改革することに。
スキル『無』で時々無双。双子の美少女エルフや木に宿る幼女精霊に囲まれ、翔の異世界生活冒険譚は始まった。
*小説家になろう・カクヨムでも投稿しております(完結済み
タブレット片手に異世界転移!〜元社畜、ダウンロード→インストールでチート強化しつつ温泉巡り始めます〜
夢・風魔
ファンタジー
一か月の平均残業時間130時間。残業代ゼロ。そんなブラック企業で働いていた葉月悠斗は、巨漢上司が眩暈を起こし倒れた所に居たため圧死した。
不真面目な天使のせいでデスルーラを繰り返すハメになった彼は、輪廻の女神によって1001回目にようやくまともな異世界転移を果たす。
その際、便利アイテムとしてタブレットを貰った。検索機能、収納機能を持ったタブレットで『ダウンロード』『インストール』で徐々に強化されていく悠斗。
彼を「勇者殿」と呼び慕うどうみても美少女な男装エルフと共に、彼は社畜時代に夢見た「温泉巡り」を異世界ですることにした。
異世界の温泉事情もあり、温泉地でいろいろな事件に巻き込まれつつも、彼は社畜時代には無かったポジティブ思考で事件を解決していく!?
*小説家になろうでも公開しております。
社畜おっさんは巻き込まれて異世界!? とにかく生きねばなりません!
カムイイムカ(神威異夢華)
ファンタジー
私の名前はユアサ マモル
14連勤を終えて家に帰ろうと思ったら少女とぶつかってしまった
とても人柄のいい奥さんに謝っていると一瞬で周りの景色が変わり
奥さんも少女もいなくなっていた
若者の間で、はやっている話を聞いていた私はすぐに気持ちを切り替えて生きていくことにしました
いや~自炊をしていてよかったです
ようこそ異世界へ!うっかりから始まる異世界転生物語
Eunoi
ファンタジー
本来12人が異世界転生だったはずが、神様のうっかりで異世界転生に巻き込まれた主人公。
チート能力をもらえるかと思いきや、予定外だったため、チート能力なし。
その代わりに公爵家子息として異世界転生するも、まさかの没落→島流し。
さぁ、どん底から這い上がろうか
そして、少年は流刑地より、王政が当たり前の国家の中で、民主主義国家を樹立することとなる。
少年は英雄への道を歩き始めるのだった。
※第4章に入る前に、各話の改定作業に入りますので、ご了承ください。
異世界で家をつくります~異世界転移したサラリーマン、念動力で街をつくってスローライフ~
ヘッドホン侍
ファンタジー
◆異世界転移したサラリーマンがサンドボックスゲームのような魔法を使って、家をつくったり街をつくったりしながら、マイペースなスローライフを送っていたらいつの間にか世界を救います◆
ーーブラック企業戦士のマコトは気が付くと異世界の森にいた。しかし、使える魔法といえば念動力のような魔法だけ。戦うことにはめっぽう向いてない。なんとか森でサバイバルしているうちに第一異世界人と出会う。それもちょうどモンスターに襲われているときに、女の子に助けられて。普通逆じゃないのー!と凹むマコトであったが、彼は知らない。守るにはめっぽう強い能力であったことを。
※「カクヨム」「小説家になろう」にも掲載しています。
【完結】テンプレな異世界を楽しんでね♪~元おっさんの異世界生活~
永倉伊織
ファンタジー
神の力によって異世界に転生した長倉真八(39歳)、転生した世界は彼のよく知る「異世界小説」のような世界だった。
転生した彼の身体は20歳の若者になったが、精神は何故か39歳のおっさんのままだった。
こうして元おっさんとして第2の人生を歩む事になった彼は異世界小説でよくある展開、いわゆるテンプレな出来事に巻き込まれながらも、出逢いや別れ、時には仲間とゆる~い冒険の旅に出たり
授かった能力を使いつつも普通に生きていこうとする、おっさんの物語である。
◇ ◇ ◇
本作は主人公が異世界で「生活」していく事がメインのお話しなので、派手な出来事は起こりません。
序盤は1話あたりの文字数が少なめですが
全体的には1話2000文字前後でサクッと読める内容を目指してます。
学校ごと異世界に召喚された俺、拾ったスキルが強すぎたので無双します
名無し
ファンタジー
毎日のようにいじめを受けていた主人公の如月優斗は、ある日自分の学校が異世界へ転移したことを知る。召喚主によれば、生徒たちの中から救世主を探しているそうで、スマホを通してスキルをタダで配るのだという。それがきっかけで神スキルを得た如月は、あっという間に最強の男へと進化していく。
外れスキル?だが最強だ ~不人気な土属性でも地球の知識で無双する~
海道一人
ファンタジー
俺は地球という異世界に転移し、六年後に元の世界へと戻ってきた。
地球は魔法が使えないかわりに科学という知識が発展していた。
俺が元の世界に戻ってきた時に身につけた特殊スキルはよりにもよって一番不人気の土属性だった。
だけど悔しくはない。
何故なら地球にいた六年間の間に身につけた知識がある。
そしてあらゆる物質を操れる土属性こそが最強だと知っているからだ。
ひょんなことから小さな村を襲ってきた山賊を土属性の力と地球の知識で討伐した俺はフィルド王国の調査隊長をしているアマーリアという女騎士と知り合うことになった。
アマーリアの協力もあってフィルド王国の首都ゴルドで暮らせるようになった俺は王国の陰で蠢く陰謀に巻き込まれていく。
フィルド王国を守るための俺の戦いが始まろうとしていた。
※この小説は小説家になろうとカクヨムにも投稿しています
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる