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四
中身が違う
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「何があった」
交番からやって来た藤田が、いきなり不機嫌な声で問う。
赤坂に戻ってすぐ、坊ちゃんが藤田を尾白屋に向かわすよう、交番に伝言をしていったのだ。朝に別れたばかりの藤田は、至極面倒そうな顔で、尾白屋に入ってきた。
だが、俺の方がもっと不機嫌なんだよ!
「いきなり斬りかかられたぞ!」
食ってかからずにはいられねえほど苛ついていた。
「奴は見張られていることを承知しているじゃねえか! それでいて斬りかかって来るたあ、どういうことだ。さっさとしょっ引きやがれ!」
「斬られたのか」
呑気に目を丸くしてんじゃねえよ!
「バカ野郎! こうやって無事に戻ってきているだろうが! 斬りかかって来やがったのを坊ちゃんの機転で受け止めたんだよ! おかげで背負子から飛び降りた坊ちゃんはこの通りだ」
まくしたてる俺を一瞥して、坊ちゃんがため息交じりの苦笑いを漏らした。
坊ちゃんの動かない脚の膝から脛にかけ、血が流れていた。それを俺はぶつぶつと小言を言いながら手当てしていく。小言でも言わなければ気が狂いそうだ。
「まったく、死ななくて済んだだけでも大儲けだ」
落ちた時に庇ったのだ。右の手首が少し腫れ、掌と肩にも擦り傷があった。
帰ってからすぐ、坊ちゃんの衣類を剥ぎ、怪我をしている箇所を体中くまなく探したが、今のところ見つけたのはそれだけだ。だがきっと、後から赤くなったり紫色に腫れたりする所が現れるに違いない。それでも坊ちゃんのことだ。誰にもばれないよう、うまく隠すのだろうと思うと、護り切れなかった自身が歯がゆい。
そんな俺の心痛など、坊ちゃんはわかっていないのだ。
藤田を見上げ、四谷で見てきた結果を報告する。
「あれで間違いないと思う。件の辻斬りの正体だ」
断言した。
「……なるほどな。では、菱屋の殺しに関してはどう感じた」
「そこまではわからない。あの男から特別な念を感じることはできなかったし、だいたいいきなり斬りかかってきたからね。もしかしたら、三四郎が帯刀していたせいかもしれない。落とし差しにした刀を見て、発作的に斬りかかっただけとも考えられる」
藤田が店の上がり框に腰を下ろす。
「あの三井がなあ。奴がそんな激情の持ち主だとは思えんが……」
藤田のつぶやきに対し、坊ちゃんが鼻を鳴らした。
「ふん。三井本人の意思ではないからな。乗っ取った『蟲』の元の主がそういう男だったんだろうね。あれはまるで狂犬のような人格だ」
「つまり、中身が違うということか? それを認めろと」
坊ちゃんの顔が険しくなった。
「藤田さん、云っとくけどね、三四郎でも危うかったんだよ。死線をくぐって生き延びてきたあんただったら勝てるかもしれないけどね、あのままだったら僕も三四郎も殺されていた」
「殺されていた」と言われたことに、胸がじくりと痛んだ。だが、悔しいがそれは事実だ。動乱の京や、北上する戊辰戦争を経験したわけではない俺には圧倒的に人斬りとしての経験が足りねえ。あのまま膠着していたら、次の一手で斬殺されていたことなんぞ、簡単に想像できちまう。
――坊ちゃんを守ることもできずに……。
「残念ながら今の仕事は斬ることではないからな」と藤田が言う。
「あれを人殺しだと確信したうえで捕縛するのが今の仕事だ」
「だから僕らも逃げて来たんだ。もう、あの時代とは違う。街中で人を斬るなんて時代は終わったんだ」
行き場のない悔しさを感じつつも、俺は刃こぼれしてしまった刀を刀袋に仕舞い、二階の自室へと片付けに行った。
で、次に降りて来た時、藤田の顔がまたもや苦虫を噛み潰したような表情になっていた。
「どうしたんですかい」
坊ちゃんの耳にそっと問いかける。
「いやね、薩摩藩の中で三井のことを知っている人がいたら紹介してほしいと頼んだんだよ」
「そりゃ、このご時世だ。無理でしょうよ」
一昨年に征韓論やら士分に対する禄高の改革やら……とにかく政策をめぐって新政府内で意見の食い違いが生じた上に、倒幕の中心となっていた薩摩、長州、土佐、肥後、これらの派閥争いも相まって、参議の大半が辞職するという騒ぎが起きている。なかでも薩摩出身の官僚や将兵らはかなり地元に戻ってしまったと、新聞紙面でも騒がれていたのだ。
「薩摩人なんぞ、下っ端の巡査くらいしか残っちゃいねえだろ」
まったく、忌々しい。これだけ江戸の街を荒らしておいて、このありさまかよ。帰って行った西郷隆盛らの顔に唾を吐きたい気分だ。
「薩摩藩出身の人間なら心当たりがないわけではないが、いったい何のために」
不服そうな藤田に、坊ちゃんが得意気な顔で言った。
「蟲の正体を暴いて見せよう」
「まだ蟲なんぞ……」
「蟲の話は信じなくてもいい。だが、僕のことは信じてみてくれ」
どこに何の確信があるのか、やたらと自信たっぷりの坊ちゃんに、とうとう藤田が折れた。
「わかった。俺の顔に泥を塗らないと約束できるのなら」
「もちろんさ」
目上に対する礼儀を知らない坊ちゃんと、子供相手に大人げない態度を崩さない警部補とのやり取りに、やれやれと首を振る。
どちらに転んでも、坊ちゃんはあの狂った蟲を飼っている人殺しの正体を暴こうとするのだろう。しかもそれに、薩摩人を巻き込むつもりなのだ。
(薩摩の人間になど会いたくもないな。)
未だに、上野で吹き飛ばされた主君の死に顔を忘れることができないというのに……
交番からやって来た藤田が、いきなり不機嫌な声で問う。
赤坂に戻ってすぐ、坊ちゃんが藤田を尾白屋に向かわすよう、交番に伝言をしていったのだ。朝に別れたばかりの藤田は、至極面倒そうな顔で、尾白屋に入ってきた。
だが、俺の方がもっと不機嫌なんだよ!
「いきなり斬りかかられたぞ!」
食ってかからずにはいられねえほど苛ついていた。
「奴は見張られていることを承知しているじゃねえか! それでいて斬りかかって来るたあ、どういうことだ。さっさとしょっ引きやがれ!」
「斬られたのか」
呑気に目を丸くしてんじゃねえよ!
「バカ野郎! こうやって無事に戻ってきているだろうが! 斬りかかって来やがったのを坊ちゃんの機転で受け止めたんだよ! おかげで背負子から飛び降りた坊ちゃんはこの通りだ」
まくしたてる俺を一瞥して、坊ちゃんがため息交じりの苦笑いを漏らした。
坊ちゃんの動かない脚の膝から脛にかけ、血が流れていた。それを俺はぶつぶつと小言を言いながら手当てしていく。小言でも言わなければ気が狂いそうだ。
「まったく、死ななくて済んだだけでも大儲けだ」
落ちた時に庇ったのだ。右の手首が少し腫れ、掌と肩にも擦り傷があった。
帰ってからすぐ、坊ちゃんの衣類を剥ぎ、怪我をしている箇所を体中くまなく探したが、今のところ見つけたのはそれだけだ。だがきっと、後から赤くなったり紫色に腫れたりする所が現れるに違いない。それでも坊ちゃんのことだ。誰にもばれないよう、うまく隠すのだろうと思うと、護り切れなかった自身が歯がゆい。
そんな俺の心痛など、坊ちゃんはわかっていないのだ。
藤田を見上げ、四谷で見てきた結果を報告する。
「あれで間違いないと思う。件の辻斬りの正体だ」
断言した。
「……なるほどな。では、菱屋の殺しに関してはどう感じた」
「そこまではわからない。あの男から特別な念を感じることはできなかったし、だいたいいきなり斬りかかってきたからね。もしかしたら、三四郎が帯刀していたせいかもしれない。落とし差しにした刀を見て、発作的に斬りかかっただけとも考えられる」
藤田が店の上がり框に腰を下ろす。
「あの三井がなあ。奴がそんな激情の持ち主だとは思えんが……」
藤田のつぶやきに対し、坊ちゃんが鼻を鳴らした。
「ふん。三井本人の意思ではないからな。乗っ取った『蟲』の元の主がそういう男だったんだろうね。あれはまるで狂犬のような人格だ」
「つまり、中身が違うということか? それを認めろと」
坊ちゃんの顔が険しくなった。
「藤田さん、云っとくけどね、三四郎でも危うかったんだよ。死線をくぐって生き延びてきたあんただったら勝てるかもしれないけどね、あのままだったら僕も三四郎も殺されていた」
「殺されていた」と言われたことに、胸がじくりと痛んだ。だが、悔しいがそれは事実だ。動乱の京や、北上する戊辰戦争を経験したわけではない俺には圧倒的に人斬りとしての経験が足りねえ。あのまま膠着していたら、次の一手で斬殺されていたことなんぞ、簡単に想像できちまう。
――坊ちゃんを守ることもできずに……。
「残念ながら今の仕事は斬ることではないからな」と藤田が言う。
「あれを人殺しだと確信したうえで捕縛するのが今の仕事だ」
「だから僕らも逃げて来たんだ。もう、あの時代とは違う。街中で人を斬るなんて時代は終わったんだ」
行き場のない悔しさを感じつつも、俺は刃こぼれしてしまった刀を刀袋に仕舞い、二階の自室へと片付けに行った。
で、次に降りて来た時、藤田の顔がまたもや苦虫を噛み潰したような表情になっていた。
「どうしたんですかい」
坊ちゃんの耳にそっと問いかける。
「いやね、薩摩藩の中で三井のことを知っている人がいたら紹介してほしいと頼んだんだよ」
「そりゃ、このご時世だ。無理でしょうよ」
一昨年に征韓論やら士分に対する禄高の改革やら……とにかく政策をめぐって新政府内で意見の食い違いが生じた上に、倒幕の中心となっていた薩摩、長州、土佐、肥後、これらの派閥争いも相まって、参議の大半が辞職するという騒ぎが起きている。なかでも薩摩出身の官僚や将兵らはかなり地元に戻ってしまったと、新聞紙面でも騒がれていたのだ。
「薩摩人なんぞ、下っ端の巡査くらいしか残っちゃいねえだろ」
まったく、忌々しい。これだけ江戸の街を荒らしておいて、このありさまかよ。帰って行った西郷隆盛らの顔に唾を吐きたい気分だ。
「薩摩藩出身の人間なら心当たりがないわけではないが、いったい何のために」
不服そうな藤田に、坊ちゃんが得意気な顔で言った。
「蟲の正体を暴いて見せよう」
「まだ蟲なんぞ……」
「蟲の話は信じなくてもいい。だが、僕のことは信じてみてくれ」
どこに何の確信があるのか、やたらと自信たっぷりの坊ちゃんに、とうとう藤田が折れた。
「わかった。俺の顔に泥を塗らないと約束できるのなら」
「もちろんさ」
目上に対する礼儀を知らない坊ちゃんと、子供相手に大人げない態度を崩さない警部補とのやり取りに、やれやれと首を振る。
どちらに転んでも、坊ちゃんはあの狂った蟲を飼っている人殺しの正体を暴こうとするのだろう。しかもそれに、薩摩人を巻き込むつもりなのだ。
(薩摩の人間になど会いたくもないな。)
未だに、上野で吹き飛ばされた主君の死に顔を忘れることができないというのに……
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