五文侍

史燕

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信濃屋幸兵衛と蕎麦

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 信濃屋幸兵衛と言えば、山南藩の城下では知らぬ者のない金貸しだ。年は四十を幾ばくか超えているが、妻はない気楽な独り身だ。信濃から転封した殿様について来たとされる祖父の代から続く商いは、仕事柄人に好まれるとは言えないが、さして高利でもなく、さりとて無理な催促をするでもなくで、幸兵衛の世話になった者の数は数え切れない。

 払いが滞ればさすがにどちらも罰が悪いが、それでも「まあ、利子は頂きますが、来月でいいでしょう」と言って鍋釜の一つにも目もくれず、元金の取りっぱぐれが懸念されるくらいに人は良かった。口さがのない人は、「あれで金貸しでさえなきゃねえ」と言って憚らない。

 当の本人はケロリとして「お代は欲しいですが死人は要りませんからねえ」と茶を啜っていたという。

 そんな幸兵衛が、自身を尾ける影に気づいたのは、日が傾いた頃。そろそろ夕餉に蕎麦でも食べようかと店を出た時分だった。

 決して人に恨まれるような商いはしてこなかった自負はあれど、逆恨みかもしれず、物取りかもしれずで、背後を窺いながら極力人の多い道を歩く。

 幸兵衛に武芸の心得はない。そも、稼業に似合わず人と争うことが苦手だった。兄弟が居れば坊主にでもなっていただろう。残念ながら、他に兄弟のない一人子では因果な稼業を引き継ぐほかなかった。幸兵衛が金貸しを辞めれば、途端に首を括るお店が片手の指では足りなかったからだ。

「もしも借財で首が回らないのなら、証文の一つや二つ破いても構わないのですけど」

 幸兵衛は思ったが、物取りではそうもいかない。

「せめて最後の晩餐には、好物のざる蕎麦を、腹がはち切れるくらい食ろうてから死にたいものです」

 贔屓の蕎麦屋まであと辻を二つ。そう思いながら、一つめの辻に差し掛かったときだった。

「もし、そこのお大尽様。五文お恵みくださいませんか」

 そのように声をかけられたのは。

 声の主は、まだ三十になるかならないか。よれよれの黒い着流しに、月代はいつ剃ったのか、かろうじて髷がわかる程度。見るからに貧乏牢人でございますという風体だ。家伝の品なのか、元は名のある武芸者なのか、黒漆で見事に拵えられた腰の物も、旅塵にまみれ哀愁を誘う。大方、先年お取り潰しになった駿河大納言か加藤肥後守の家中にいたのだろう。やるせない話だ。

 元より、幸兵衛にとって五文などはしたもはしただ。物乞いに毎回布施するほど奇特ではないが、声をかけられて腰にすがる相手を足蹴にするほど情が薄くもない。常ならここで鐚銭五枚を気前よく握らせて「さらば達者で」と夜風に紛れる。

 だが、今は非常時だった。さらに言えば、最後の晩餐かもしれない。

 不惑を過ぎて、最後の相手が女性ではなく貧乏牢人のとは、我ながら情けなくはある。しかしながら、これもまた多生の縁。あの世や来世に金は持ち越せず、精々の費えは三途の川の渡賃くらい。

 ここで一つこの牢人の苦労話を聞いて今際の際の功徳にでもしよう。

 幸兵衛は、決心すると早かった。

「お武家さま、五文と言えば固くてとても噛めやしない古餅がやっとでしょう。気の利いた茶店で出涸らしの番茶でもあればめっけもの。ところであたくし実は蕎麦が大の好物でしてね。ぜひともお武家さまにも一口食べて頂きたい。もちろんお代はお気になさらず。なに、二八なんてしみったれた話はいたしません。エビ、キス、ハゼに茄子の天ぷらつきで締めて五十文の天ざる。あたしゃ、これでも安いと言っちゃいるんですが聞きもしやせん。で、いかがでしょう?」

 ここまで一息に言い切った。なにせ幸兵衛は文字通り必死だ。目の前の物乞い牢人がどれほどかはともかく、二本差しの目の前で襲うほどの間抜けはいまい。少なくともこの牢人と居るうちはひとまず無事。せめて蕎麦くらいは口にしてから旅立ちたい。

 もっとも「お誘いしていてなんですが、あたくしすっかり天ざるの口になってしまいまして、異存が無ければすぐにでも向かいたいのですが」と続けた言葉こそ本音ではあったが。

「そこまでお誘いならむしろ断るほうがかえって無粋。ぜひとも馳走いただこう」

 牢人にとっては渡りに船どころか渡賃さえタダという具合だ。これ幸いと断る由もなし。

「それがし、平松宗左衛門と申す。駿河藩牢人にござる」

 名乗りは、幸兵衛の予想の通りだった。

「これはこれは、駿河大納言さまのご家中とは露しらず、ご無礼いたしました。わたくしは信濃屋幸兵衛と申します。ひとつよしなに」

 今晩よしなにするのは幸兵衛の側なのだが、そこはそれ、なにごとも形が大切な世。大身か軽輩かはともかく、腐っても武士。下手な盛場の用心棒より安心だ。

 一つめと異なり、二つめの辻を超えた幸兵衛は意気軒昂だった。

「邪魔するよ」

 勝手知ったるなんとやらよろしく、贔屓の暖簾をするりと潜る。

「おや、幸兵衛さん。昨日の今日でまたありがたいことで」

「大将の腕がいいからさ。今日はもう一人ご一緒だぞ。なんたってお武家さまだからな」

 そう言って幸兵衛に水を向けられると、それまで黙って立っていた宗左衛門は「御免仕る」と一度頭を下げて、また二人が話すに任せた。

「へえ、そいつはまた剛毅なことで」

「というわけで天ざる二枚だ」

「おや、いつもはざるだけで腹いっぱいの旦那が珍しい。奮発しますな」

「いいじゃないか、たまにゃ。掛け払いにしようってんじゃないんだし」

「まあ、幸兵衛の旦那はいつも現金ぴったりで間違いはありませんからね」

 店主が蕎麦の準備にかかると、揃って横並びに席に腰掛け蕎麦が茹で上がるのを待った。

「たしかに、いい店でござるな」

「そうでございましょう。あたくしはここのそばをこんなに小さい頃から好きで好きで」

 幸兵衛が手のひらを椅子より低い位置に出し、身振り手振りで話すのを見て、宗左衛門は初めて、クスリと口角をあげた。

 幸兵衛の話がひと段落し、水で互いに喉を湿らせたとき「誰かに尾けられてござったな」と、おもむろに宗左衛門が言った。

「さすがにお分かりになりましたか。ええ、思い当たる節はありませんが、これを最後の晩餐と思い、一人飯も難ですから、平松さまをお誘いした次第でして。気分を損ねたかと存じますが、せめてこの蕎麦だけは食べて頂けませんか」

 手をついて謝る幸兵衛に「頭は下げずともよい。顔をあげてくれ」と宗左衛門は言った。

「五文が五十文になったのだ。否やはない」

 宗左衛門はそう言い終えると、ちょうど運ばれてきた蕎麦に手をつけて啜り始めた。幸兵衛も大人しく自分の蕎麦に箸をつける。

 ただ、ひと言

「うむ、うまい」

宗左衛門がそう漏らしたことで、幸兵衛は救われた気持ちになった。

 蕎麦屋を出て十間余り、幸兵衛は今度は人気のない道を進んでいた。

 折悪しく新月の闇夜。背後の足音は二人分。

「そろそろよいでしょう」

 宗左衛門が言った。

 ちょうど、川を渡れば隣国へと通じる橋と幸兵衛の店への別れ道だった。

「ええ、ここまでありがとうございました。冥土の土産になります」

 幸兵衛は言った。本心から言った。

 少なくとも、この牢人は最後の願いを聞き届けてくれたのだから。

「それでは御免蒙る」

 宗左衛門は幸兵衛に背を向けた。遠く町屋の掛行燈がぼうっと夜道に浮かぶ。幸兵衛もさらば達者で、そう言わねばならない。自分は達者でなくなるが、だからこそあの牢人にはその分達者でいて貰わねばならない。自分を追う足音は、もうすぐそこまで迫っている。

 すると、突如として宗左衛門は橋ではなく元来た道へ駆け出した。そして、静寂を切り裂くような、キンッという甲高い音が夜陰に響いた。なんの音か、幸兵衛には見当がつかない。

「終わり申した」

 戻ってきた宗左衛門がそう言ったときも、なんのことかわからなかったくらいだ。

「終わった、とは」

「なに、気になさるほどもござらぬよ。少しばかり、野良犬を斬り申しただけのこと」

 汗一つ流す様子のない宗左衛門が斬った野良犬が、件の追跡者であることがようやく幸兵衛にもわかった。であるならば、厄介なことになる前に一にも二にもこの場を離れたい。

「他に犬がおらぬか気になり申す。差し支えなければ一晩宿をお借りしても?」

 宗左衛門の提案に、幸兵衛に異存はなかった。

 翌朝、例の男達の骸について、番所の役人が集まって検分していた。仏の正体は、幸兵衛と同じく城下で高利貸しをする高砂屋の長男と雇われた男だった。

 遠目でそれを確認すると幸兵衛と宗左衛門は黙ってその場から遠ざかった。それよりしばらく、下手に出国しようとすると番所で吟味されるようになったことから、そのままほとぼりが冷めるまで宗左衛門は幸兵衛宅に逗留することになった。

 幸兵衛が人づてに聞いたところによると、刀傷であることはすぐにわかったものの、鮮やかな手並みである上に恨みを買う心当たりが多すぎて、山南藩家中にまで容疑者が広がりかかったところから、下手人不明のまま数日のうちに詮議は打ち切りになったらしい。

 高砂屋にしてみれば、商売敵の幸兵衛がいなくなれば、さらに暴利で金貸しが出来るのみならず、幸兵衛の顧客まで高砂屋から借入れなければならなくなると踏んでのことだったようだが、失敗したどころか家の跡継ぎを喪う羽目になってしまった。これより後、高砂屋の当主は失意のうちに元気がなくなり、商いも縮小していったという。

 ひとまず、これ以上の下手人捜しは無いと決まって、幸兵衛はほっと胸をなで下ろした。

「平松殿、これで番方の詮議は打ち切りとの話です。もう心配はございませぬ。お世話になりました。しかし、たまさか行きあった平松様がどうしてあのような始末を?」

 幸兵衛が聞いてきた話を持ち帰りそう言うと、宗左衛門はポツリと漏らした。

「それがしは、五文でも恩は忘れ申さぬ。ましてやその十倍でござるからな」

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