五文侍

史燕

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柳葉伊織とぜんざい

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 三尺ほどの影が、雪の坂を歩いていた。

 年の頃は五つをようやく越えたくらいだろうか。

 藍色の小袖に鼠皮のような袴を履き、白い襷で袖を絞り上げている。

 物々しい格好にはまだ着ていると言うよりは着られているといった印象が先立ち、佩くというより背負うに近い長太刀がよりいっそうその様子に拍車を掛けていた。

 川北藩士柳葉伊織、懐の免状には一応そのように書かれている。

 川北藩は山南藩の隣国で、似たり寄ったりの小藩だ。この坂を登り、峠に生える二本松を通り過ぎれば、伊織は生まれて初めて藩境をまたぐことになる。

「もっと、楽しいものだと思っていたんだけどな」

 旅の商人や参勤から戻った親族の話には、いつも目を輝かせていた。

 見たことのない景色、見たことのない食べ物。大船が所狭しと並ぶ湊に、同じ出で立ちでも言葉さえ違って聞こえる旅先の宿。

 たしかに伊織は、かつては旅に憧れていた。それも遠い過去ではなく、ほんの一ヶ月前までは。

 柳葉家に不幸が訪れたのは、この秋が冷夏で藩全体の実入りが悪く、藩士から半知借り上げが実施されたことに端を発する。例に漏れず、柳葉家も少しばかり内証が苦しくなった。しかしその少しばかりというのは、年の暮れの払いにほんの二朱程足りない程度であり、最悪事情を話せば待ってくれるくらいの話だった。

 伊織の父郡兵衛は若い頃から郡支配の帳方を務めており、労咳で妻を亡くした三年前から、抜かりなく蓄えをしてきたほどしっかりした人物だった。そもそも柳葉家は五百石の入部以来の家柄で、一手の備を預かる侍大将格。二代様への跡目争いにて不始末があり、お家存続のために三万石を削られた主家に合わせて一千石から半減されただけで、格式は何一つ恥ずかしいものはないのだ。

 ましてや、郡兵衛は武張ったところの無い代わりに経世済民に優れ、いずれは郡奉行へと嘱望されていた。

 その玉の緒が、先月末に突如凶刃に断ち切られるまでは。

 下手人は、同じ郡支配役の下役である高木又右衛門。しかもその高木は郡兵衛の同門で、先年は免許皆伝の祝儀を贈ったことを、伊織は覚えていた。

 事の起こりは、同じ半知借り上げで困窮した高木が、郡兵衛に五両の無心を申し出たことに始まる。五両自体は快く貸したのだ。柳葉家も余裕があるわけではないが、それでも五十石の高木よりはまだよかった。二朱の不足も、なんとか工面できないでもないと算段したのも一因だ。

 しかし、あろうことか高木は、その金を遣って刀を購入したのだ。しかも近年河内で評判のソボロ助広、値は二百両をくだらない。

 当然、郡兵衛は黙っていない。話を聞きつけた翌日に登城口で待ち構え、衆目の前で糺したのだ。そんな金があるとは聞いていない、よしんば足りずに無心するにしても、せめて正直に目的は知らせる義務がある。そうであれば金を返して貰うと。

 ところが、当の高木はそんなまともな性根ではなかった。

「はて、これは先日知人から譲り受けたものですが、柳葉殿から借金の覚えはとんとありませんな」と、白を切ったのだ。

 もちろん郡兵衛は抜かりなく証文は取ってある。「かくなる上は目付に届け出て宜しく裁許を賜らん」と憤慨したところを、その助広で抜き打ちしたのだ。唯一の救いは、郡兵衛が苦しむ間もなく黄泉路へと旅立ったことだろうか。

高木はそのまま家中を出奔した。残念ながら柳葉家には頼れる親類と言えるほどの血脈はなく、嫡男たる伊織が家督を継ぐほか無かった。しかし、ただの一刀のもとに当主が斬り伏せられたというのは、侍大将格として家名を保つには外聞が悪かった。もちろん、上役相役、果ては執政役まで、伊織には同情的だった。郡兵衛の勤めに誤りがあったわけでもない。

 しかしながら、父の代で減石されて財政が苦しいことに頭を悩ませていた藩主のみはそうではなかった。このまま柳葉高木両家を取り潰せば、五百五十石の減ではないかと。

 無論、家老中老大目付、同役の郡奉行は元より町奉行に、普請役、果ては本来であれば支出減を喜ぶはずの勘定奉行まで連署して思いとどまるように説諭した。もしかすると、ここまで家中が一体となったのは、大坂の役の出役と当地への転封以来、初めてのことかもしれない。なにせ、高木はともかく柳葉の取り潰しを座視すれば、次は自分の家かもしれないのだ。

 結局妥協案として「伊織が敵を討って帰参すれば家名存続を赦す」という幼子には酷な決定が為された。それ自体も不満が無いわけでもなかったが、敵討ちは天下の御法、武士の誉れ、侍大将の面目を保てるとあっては、やむをえなかった。執政役が進言した「せめて助太刀くらいは」という提案は、「家中から出すのは許さん」とにべもなく禁じられてしまったが。

 今でも伊織は覚えている。筆頭家老以下、家老職五家が全員揃って「済まない」と頭を下げながら、一人十両、都合五十両の支度金を差し出したのを。「これでせめて助太刀を雇ってくれ」そういうことなのだと伊織にもわかった。旅の備えの羽織、脚絆に三度傘は、同じく苦しいだろうに郡支配の面々がすでに用意してくれていた。それでも、先々の路銀を考えると、返り討ちと野垂れ死にとどちらの可能性が高いかわかったものではなかったが。

 柳葉家には、家祖が扱ったという三尺二寸五分の長太刀が家伝として伝えられてきた。伊織の身の丈よりも大きい。何でも初代は六尺五寸を超える大男で、本陣に迫る馬上の侍を一刀両断したらしい。とはいえ、本年五歳の伊織には抜くのがやっと、振り回すことなど望むべくもない。ひとまず間に合わせで揃えた五百文の玩具のような脇差しが、得物としてはまだ扱いやすい。そんな腕で、影流免許の高木に渡り合えるとは本人も思っていないが。

 そんな伊織がいよいよ出立するとなった日、一枚の書状が届いた。差出人は元凶たる高木又右衛門。「逃げも隠れもしない。山南藩城下外れ、廃村の百姓家で待つ」それだけが書かれていた。仮に、助太刀が何人いても構わない。全て返り討ちにしてくれよう。そんな傲慢さが透けて見える筆跡だった。なにより高木は、高木に限らず家中には周知の事実だが、伊織が死ねば敵討ちの権利者がいなくなることを、十分に承知していた。だからこそ、郡兵衛を斬って遁走したのだ。

 結局、助太刀の当てもないまま、伊織は仇敵の待つ隣国城下へと向かうほか無かった。幸か不幸か、互いの城下は歩けば一日。順調に足を進め、この峠を下り、橋を渡れば目的地だ。

「せめて、自分がこの太刀を扱えるなら」

 背にかかる重さはずしりと来るが、これを置いて家を出る気にはならなかった。父でさえ、試みに抜いた際には素振りさえ覚束なかったこの長太刀だが、出立までになんとか抜いて構えることは出来るようになった。正直に言えばまだふらつくが、脇差し一本の子供よりも長太刀を佩いた子供の方が、まだ助太刀を頼みやすい。

 軽く積もり始めた雪道に小さな足跡を付けながら、伊織は下り坂を駆け下った。

 指定された百姓家は城下の反対側で、すぐにわかった。わかったからと言って、すぐに踏み込む気持ちなど、伊織にはなかった。高木は憎い、敵は討ちたい、家は残したい。そんな想いとは裏腹に、伊織には圧倒的に、力が無かった。

 きびすを返して、大通りを進む。せめて、助太刀の一人は今日の内に見つけたい。だが、話に聞く花の都や天下の台所とは異なり、同じ山中の小藩。食い詰めた逃散農民ならともかく、腕に覚えのある一廉の侍など、早々見つかるわけが無かった。ひとまず、着到後に町奉行所に敵討ちの届け出をしただけ今日はよいことにしよう。そういう風に気を持ち直したときだった。

「そこの人。その、申し訳ありませんが五文お恵みくださいませんか」

 そんな声が掛けられたのは。

 声の方を向けば、如何にも牢人だと言わんばかりの黒い着流し姿の武士がいた。その割には月代や髭は整えられていて、小綺麗にも見える。腰に差した両刀は二尺八寸と一尺七寸ほど。しかもそれが、この太平となって久しい世にあって馴染むように自然に納まっている。 これは天佑かもしれない。伊織は思った。

「もちろん裕福とは言いませんが、五文くらいなら。ところで、某も実は空腹なのですが、いい店をご存じないですか?」

 言外に、「奢るから案内して欲しい」というのを初対面の相手にこんなにスラスラと言えたことに、伊織は自分でも驚いた。

「そうですな。それでは、五文で甘味が取れる。いい茶店にお連れ致そう」

 道中、牢人が平松宗左衛門と言う名前であること、駿河藩の牢人であること、たまに商家の手伝いなどをして生計を立てていることなどを話して貰った。

「その長太刀は、結構な業物に見えますな」

「ええ、敵を探して、伝家の同田貫を持ち出しました」

 伊織の言葉に、宗左衛門は「ほう」と一瞬眼光を鋭くさせた後、「肥後の名工の作とは素晴らしい刀ですな」と空気を和らげるように言った。先ほどの厳しい視線は、気のせいだったのかもしれないと伊織が思ったくらいだった。

「幸か不幸か、敵はこの城下に待ち構えていますので」

「それは、手練れですかな」

「はい、本国の道場では影流の皆伝として有名でした」

 この話をしてすぐに、伊織は失策を悟った。宗左衛門に助太刀を頼もうにも、五文ばかりで命がけなど望めない。仮に謝金の話をするにしても、相手が達人とあれば断られるに決まっている。

「それで、いつ頃その敵と対面申されるのか?」

「明朝、押しかけようかと思います」

 夜討ち朝駆けは兵法の常だ。寝込みを襲うくらいしか、非力な伊織には手立てがなかった。

「なるほど。たしかに今夜は雪が積もりかねない。夕刻から気を張っているかもしれない夜半よりは、それでも気の緩む払暁のほうがよいかもしれませんな」

 肯定の意を表する宗左衛門に「それで」と助太刀の話をいよいよと思った瞬間「着きましたぞ」と話の出鼻をくじかれてしまった。

「ここは五文でぜんざいを食わせてくれる店でござる。ぜんざいは善哉に通じ申す。明朝の武運を願うにはちょうど良いかと」

 ここで別れたいという意思表示なのだと伊織は思った。せっかく捕まえることが出来そうだったというのに、と自身の不分別を悔いた。

「ところで、宿はどうされるおつもりかな?」

「その、残念ながらまだ決めかねており申して」

「それならちょうどよい。拙者が厄介になっている商家にはまだ空き部屋があり申した。食べ終えたら案内仕ろう。なに、頼み込めば一晩くらいなんとでもしてくださる」

 それはつまり、明日は宿がなくてもよい身の上だから気にするなという意味ではないか。

 五歳児が剣の達人に勝てるとは微塵も思わないが、さりとてこうも明け透けに言われてしまっては、腹が立つ以前に言葉が出てこなかった。

「ささ、参りましたぞ」

 絶句している間に、頼んだぜんざいが運ばれてきた。

 一口大に切りそろえられた真っ白な焼き餅が、香ばしい匂いを隠そうともしていない。よく煮詰められた小豆と餡がぐるりと餅を取り囲み、見ただけで口の中に甘さが広がってきそうなものだ。

「番茶も、ここに置いておくからね」

 店の老婆が親切にもそう言い置いて奥に引っ込んだ。

 ぎゅう、と音を立てる腹の虫に堪りかねて、別の虫を追い出すようにして伊織が椀を口に運んだ。

「うう、うまい」

 見た目通り、いや見た目以上だった。一口含んだだけでふわりと広がる小豆の上品な甘さに、少しだけ効いた塩気が箸を促す。餅も固すぎず、柔らかすぎず、噛みきるのにちょうど良い。これで団子では無いというのだから、世の中は不思議なものである。

「ほらほら、そんなに慌てなさらずとも、ぜんざいは逃げ申さぬぞ」

 そう言いながら宗左衛門が差し出した番茶に、再度驚かされた。ほんのりと、梅の香がするのだ。

「気づかれましたかな。この茶には、番茶と言いながら塩漬けにした梅の花が入れられておるのです。拙者も初めて食した時には驚かされました。これが五文でよいのかと」

 たしかにこれで五文は安い。餅一つ五文、ぜんざいにして十文。茶はまあそれぞれだが、仮に五文としても十五文。それが一番質の悪い店の相場だ。この店がそんな最低の茶店ではないことくらい、如何に世間知らずの童とはいえ、伊織にもわかる。

「拙者、生憎と給料日を一日勘違いしておりましてな。其処元とお会い出来て良かった」

「なるほど」

 死ぬ前にこれほどの甘味に出会えただけでも、五文奢った価値はあったのかもしれないと伊織は思った。

 腹ごしらえを終えて、宗左衛門から伊織は自室へと案内されることとなった。道を三つほど曲がって大通りから外れた辺りに、その家はあった。

「商家と聞いておりましたからそれなりの大きさは想像しておりましたが、これほどの大店おおたなとは」

 伊織は店構えを見て、感嘆してしまった。なにせ他の町屋が四軒は入りそうな正面に、二階には回り縁まで備えられている。裏手には白壁の土蔵が店に勝るとも劣らない大きさで鎮座していた。

「この信濃屋さんは金貸しと質屋を兼ねておられるから、蔵は特にしっかりされている。まあ、拙者はその質草の目利きをする代わりに厄介になっているわけでござるが」

 物乞いらしからぬ整った身なりにようやく合点がいった。

「幸兵衛殿、幸兵衛殿。お手隙かな?」

 宗左衛門は無遠慮に店に上がりながら、奥に向かって声をかけた。

すると「はいはい、どうされましたか?」と四十過ぎの人の好さそうな男が顔を出した。

「間借りしている身で申し訳ござらんが、この御仁を一晩厄介にさせていただきたい。なに、手間を取らせ申さぬ。拙者が面倒一切を仕る」

「まあ、この方が物取りとは思えませんから、構いませんが」

 すんなりと宿が決まった。本当にこれでいいのか伊織の方が返って心配なほどだ。

「よもや、人さらいや隠し子だってんじゃないですよね?」

「御店主、もしそうならここには連れてきませぬ」

「それはたしかにもっともですが」

「先ほど、五文でぜんざいを奢っていただきましたからな」

「ははあ、左様でございますか」

 五文というくだりで、途端に幸兵衛の雰囲気が柔らかくなった気がした。

「それでは、明日はそばでかまいませんね?」

 幸兵衛がなぜか、伊織を見ながら宗左衛門に訊ねた。

「もちろんにござる。できれば天ざるを所望したい」

 なぜか宗左衛門も、伊織を見ながら答えた。

 その夜は予想通り雪が降った。激しくは無いが、しんしんと積もっていく雪だ。

 伊織は油の費えを遠慮して、早々に布団に入っていた。幸兵衛の好意か、むしろこれしかなかったのかは知らないが、自宅のせんべい布団とは異なり、ぬくぬくとたっぷりと綿の入った布団だ。自分でした贅沢ではないが、夕刻のぜんざいとこの布団だけでも、泉下の父へのいい土産話になるのではないかと、薄れゆく意識の中でそんなことが思い浮かんだ。

 まだ日が昇る前に、伊織は目を覚ました。別にそれは敵討ちのために意気込んだからではなく、父が死んで以降、朝方までゆっくり寝られなくなったが故の習性だった。

 布団を丁寧にたたみ、部屋の隅に重ねる。正直に言えば、このまままた布団を敷き直して横になってしまえればどんなによいか。そんな雑念に首を振って必死に振り払い、小袖に袖を通し、袴を履く。足下に脚絆を巻いたら、襷掛けにして背筋を引き締め、長太刀を背に佩いた。草履を見て足下は雪駄にするべきだったかと後悔がよぎるが、逆に踏ん張りがきかないかと思い直して戸を開けた。最後に頭に白い布の鉢金を巻く。見切りに自信など無いが、もしかしたら額を割られるのを避けられるかもしれないからだ。

 一日の始まりを告げるように昇りつつある朝日が、山の向こうから天を赤く焦がしていた。昨夜の雪は幸いにしてそこまで積もらず、うっすらと道を白く染め抜いていた。

「お世話になりました」

 幸兵衛たちを起こさないよう、静かに声を出してゆっくりと戸を閉めた。

 死ぬには良い日だ。ふと、そんなことを思った。

 優しい人たちに囲まれたままだと、その決心も鈍りそうになる。残念ながら助太刀は見つけられなかったが、だからこそ早い内に動かねば、ついに敵を知ったまま生きながらえてしまう。それは、この長太刀を振るって戦場を駆けた先祖に申し訳が立たないのだ。

「たとえ敵わぬなりともせめて一太刀」

 結局は、そこに行き着くのだ。

 不意打ちとは言え、相手に全面的に非があるとはいえ、抜き合わせも出来ずに死した父郡兵衛。それを士道不覚悟と言われるのは理不尽に思えるが、そうであれば自分が抜き合わせて、せめて手傷は負わせねば面目が立たない。面目が立たねば、家名も立たない。故にこそ、支度金で新しい太刀を購うのではなく、この長太刀と共に向かわねばならない。雪ぐは父の汚名と屈辱、背負うは柳葉の武名と家運そのもの。

 死に至るかもしれぬ道へ、伊織は足を踏み出した。

「どうしてここにいるのですか」

 いよいよ例の百姓家に向かう城下の外れに、その男は立っていた。

 いつもと同じ黒い着流しに、伊織のような襷掛けもせず、朝の散歩だと言われれば信じてしまいそうな出で立ちだ。

「助太刀を申し出ようと思いましてな」

 その男、平松宗左衛門は昨日「ぜんざいを食べよう」と言ったのと同じ調子で、とんでもないことを言い出した。

「それは助かりますが、どうして」

「義を見て為さざるは勇無きなり、と言えれば格好がつくのでござるがなあ」

 これは参ったとばかりに後頭部を掻きながら、宗左衛門はばつが悪そうに言った。

「五文、頂きましたからな」

「そんな、たったそれだけで」

「『それだけ』が大事なのでござるよ」

 優しい口調でありながら、有無を言わさぬ力があった。

「勘違い召されるな。たかが五文に命を懸けるのではござらん。窮状にあっても五文を差し出す心根に命を懸けるのでござる」

 そう言われてしまえば、是非もなかった。

 冷たい風が身を苛む道を急ぎ、抜き放った長太刀を手に百姓家の縁側にあった襖を蹴破りながら伊織は叫んだ。

「高木又右衛門、父の敵」

 高木も大人しく寝入っている筈があるわけもなく、室内の中央で助広を抜いて待ち構えていた。

「ほう、臆さずに来たか。助太刀も一人とは感心感心」

 家中から遁走しておいて臆病はどちらだと怒鳴りたくなったが、それは相手の思う壺だと伊織にもわかった。

代わりに「平松宗左衛門、恩によって助太刀いたす」と宗左衛門が声を上げた。

「なるほど居合いか。童わっぱにしては考えたな」

 もちろん、伊織は宗左衛門が居合いを遣うなど知る由もない。この場で刀を抜かないということで初めて知ったのだ。

 高木が「うりゃぁ」という気合いと共に太刀を袈裟懸けに振り抜いた。

 避けた勢いに任せて二人は屋外へと間合いを図る。

「所詮その長太刀も飾りよのう」

 伊織を嘲笑いながら高木は刀を上段に構えた。挑発だとわかっていても、図星を点かれたのは心に来る。

「飾りとは、その助広こそ言うのではないかな」

 宗左衛門の声がしたと思えば、いつの間にか振り抜かれた太刀を避けて、高木は大きく仰け反っていた。宗左衛門はその勢いをそのままに、一回転して今度は膝下を横薙ぎに薙ぐ。

思わず飛び下がった高木は無様に両手足を地に着けて四つん這いになるも、すかさず立ち上がって宗左衛門に逆撃を仕掛ける。もはや頭に血が上って伊織など眼中になかった。

 袈裟懸けに振るわれた助広を峰で去なし、宗左衛門は返す刀で高木の背筋を狙う。それをわざと前に転んでから立ち上がることで躱した高木が、今度は飛び込むようにして太刀を唐竹割りに振り下ろした。それを横飛びに避けて宗左衛門が高木の肘を斬り上げる。

 伊織は自身の手にする長太刀を見た。あの二人のようにはとても振るえないことを悟った。最初からわかりきっていたことでもある。居合いのように片手で振ることは愚か、両手でさえ斬り上げることは難しい。

 長太刀を振り上げて、上段に構える。足下がふらつく。雪の残りか心なしか滑って踏ん張りがきかない。それでも、これを上から下に、地面に引かれる重さに逆らわずに振り下ろすだけならできそうだ。腕は重い。今すぐこんな太刀なんて放り投げてしまいたい。それでも伊織は、必死に歯を食いしばって、同田貫を大上段に構えたまま、じりじりと二人の方へとにじり寄っていった。

 高木は飛んで、跳ねてとまるで猿のように攻めかかっていた。その勢いに、宗左衛門は刀を納める暇さえなかった。降りかかる白刃を峰で流し、腹で払い、鍔で受けながら機を窺う。

 互いに疲れが出てきたのか、少しずつ太刀筋に鋭さがなくなってきている。右に避け、左に躱し、前に飛ぶ。両者ともに一進一退の攻防であるが、宗左衛門自身は思った以上に息が上がり、余裕が無くなっているのを感じていた。影流などと言っているがそんな行儀の良さなど欠片も無い。ただ斬ればよいという乱雑さが、逆に見切りを難しくしていた。

 もう何度目かもわからない、高木の一閃。それを峰で払った拍子に、疲労の溜まったために足を滑らせ、宗左衛門は大きく尻餅をついた。

「抜かった」

思わず大きな声を上げる宗左衛門に向けて、舌なめずりしながら助広を振り上げた高木。

そこに「ええいっ」と甲高い気合いが響いた。

「なにっ」と高木が振り向いた瞬間、拝み撃ちに振り下ろされた長大な同田貫が、その額を大きく割った。

 刀に引き寄せられて、うつ伏せに倒れそうな身体を必死に大地を踏みしめて支えながら、柳葉伊織が肩で息をしていた。

 すかさず宗左衛門は脇差しの鯉口を切り、高木の右肘と両膝を薙ぐ。

「これで刀は握れまい」

 宗左衛門は倒れ伏す高木を一瞥して伊織に駆け寄った。

「平松殿、手が、手が痺れて動きませぬ」

「左様、あの同田貫をよくぞ見事に振り抜かれた」

 宗左衛門は知っていた。如何に重厚な太刀であっても、刃筋を立てて振り抜かなければただの鉄の棒に等しい。それでも十分な武器ではあるが、伊織はまだ太刀に振り回されそうな小躯でありながら、綺麗に額から先へ刃を通していた。まだ辛うじて即死してはいないが、見事に自らの手で敵を討ったと言える。

「誠、天晴れな侍にござる」

「有りがたいお言葉。なれど、首を取る力は残っており申さず」

 精根尽きたという表情で言う伊織に、さもありなんと宗左衛門も首肯する。

「然らば、某が介添え致そう」

 宗左衛門は、伊織の手に重ねる形で長太刀を握り、ゆっくりと高木の方へと近づいていった。

「そう、呼吸は深く、ゆっくりと息を吸って、吐く。それで少しは気も静まり申す」

 歩きながらも、宗左衛門は伊織の緊張を少しでも解すために声を掛ける。

「さあ、某と一緒に上段に上げて、大丈夫、ちゃんと支え仕る」

「左様、このまま、先ほどのように一息に」

 宗左衛門が手を放した瞬間、乾坤に遍く広がる天然自然の理のままに、伊織は同田貫を振り下ろした。

 高木に、いや地面に吸い込まれるようにして振り下ろされた剣閃は、高木の首筋の血で雪路を濡らした。

「父上、伊織はやり遂げました」

 感慨に落涙する伊織に背を向ける程に、宗左衛門は彼を一人前の侍として扱っていた。

 山々を照らす暁光は、一人の男の門出を祝うように眩しかった。

「さて、血を流したら急いで行き申すぞ」

 町奉行所に届けて湯浴みに向かいながら、宗左衛門が急かすようにして伊織に言った。

「行く、とはどこへ?」

「そば屋でござる。幸兵衛殿は無類のそば好き。長く待たせればその間にそば湯しか残り申さぬ」

 幸兵衛が待つ蕎麦屋では、すでに三人前の天ざるが注文済みであったことを付記しておく。

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