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辰治の絵の勉強

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 エグモントは辰治に本格的に絵の勉強をさせる事にした。辰治は絵の才能があるとはいえ、絵の知識は皆無だ。そのためデッサンから教えられる講師を屋敷に招く事にした。

 講師は四十代くらいの神経質そうな男だった。まずは石膏像を使って木炭デッサンの勉強をさせた。

 エグモントは有り余る屋敷の部屋の一つに、辰治のアトリエをもうけ、絵の勉強に必要な物をすべて用意した。石膏像もその一つだ。マルスの頭部。ミロのヴィーナスの胸像。ラオコーンの胸部像。

 講師はまずマルス像で辰治に木炭デッサンの説明をした。デッサンスケールを使って構図を決め、マルス像を木炭で描いていく。白黒の濃淡を作るには、食パンがいいと講師が言うので、食パンを一斤辰治に渡すと、デッサンに使わないですべて食べてしまったので、練り消しゴムを使わせる事にする。

 エグモントは暇ができると、辰治のアトリエに行き、絵の出来を見に行った。辰治は飲み込みが早いようで、すぐにコツを掴んだようだ。

 木炭紙の画面いっぱいにマルス像が描かれ、石膏にはあらゆる光の陰影が描き込まれていた。

 辰治は夜間中学に行っている以外は、ずっと絵を描いていた。さすがに心配になって、疲れないのかと聞くと、絵を描くのは楽しいから平気だと答えた。

 辰治がデッサンの勉強を終えると、水彩画、油彩画に入った。水彩画はエグモントからすると油彩画の下絵の感覚だったが、水彩画だけでも十分絵画になるようだ。油彩画は油の臭いが嫌だと文句を言っていた辰治だったが、次第に油彩画の表現の広さにのめり込んでいくようだった。その頃には講師は辰治の絵の才能を絶賛してくれていた。

 絵の授業が進むにつれて、モデルを使った絵画をしてみてはどうかと講師にいわれた。プロのモデルは金がかかる。そのためエグモントがモデルになる事にした。

 モデルは決められた時間、動いてはいけない。だが、数千年の年月を生きる吸血鬼のエグモントは、ジッとしている事が得意だ。三十分でも一時間でも同じ姿勢でいられる。それにエグモントは自分が美しい事を理解していたのでモデルになる事はまんざらでもなかった。

 何点かの油絵の作品が完成した。講師はせっかくなので美術展に出品してみてはどうかと提案した。

 日本の美術界は画家がなんらかの絵画会に所属して、その会員でなければ受賞もしないし、注目もされない事をエグモントは知っていたので、軽い気持ちで美術展に応募させた。

 すると辰治の絵は、まさかの入選をはたしてしまった。講師は大喜びで、ぜひうちの会に入会するように進めた。

 エグモントは困ってしまった。自分の眷属である辰治が認められた事は主人として嬉しいかぎりだが、辰治は吸血鬼だ。このままずっと年を取らない。あまり表舞台で目立ってもらっては困るのだ。

 エグモントは辰治に聞いた。画家として成功したいかと。辰治は絵を描く事が好きなだけでそれ以外はどうでもいいと答えた。

 そこでエグモントは、講師からエグモントと辰治の記憶を消して辞めさせる事にした。

 それから辰治には一人で絵の勉強をさせる事にした。エグモントの屋敷の蔵書には沢山の画集があった。エジプト美術からギリシャローマ美術。ルネサンス、ゴシック、ロココ。

 エグモントは辰治に片っ端から画集を見せ、芸術の遍歴の講義をした。辰治にとってはつまらないらしく、よくい眠りをしていた。辰治は絵を描く事は好きだが、絵を見る事はあまり好きではないようだ。

 だがアルブレヒト・デューラーとカラバッジョの絵は面白いと言っていた。どちらも技巧派の画家だ。大いに絵画の影響を受けてほしい。しかしカラバッジョは粗暴な性格でも知られている。そういう所は影響されないでほしいと思った。

 エグモントは西洋絵画に詳しく、辰治に講義をする事もできるが、東洋絵画についてはうとかった。そちらは菊次郎の専門だったからだ。だが印象派の画家たちは日本画の影響が色濃く出ている。それについてはエグモントも面白いと思った。

 いい機会だと思い、エグモントも日本の画家の絵も見るようになった。だが日本画については生半可な知識では危険だ。それまですべて菊次郎に任せきっていたツケだ。エグモントはどうして菊次郎がずっと自分の側にいてくれると信じて疑わなかったのだろうか。

 エグモントは睡魔と必死に戦いながら画集を眺めている辰治を見た。辰治が今後もエグモントの側にずっといるという保証はどこにもないのだ。

 

 

 

 

 
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