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伊織と桜姫

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 伊織は歯がみしながら逃げていた。子供だと思ってなめていた桐生幸士郎にいっぱい食わされたのだ。

 幸士郎は松永結と手を組んで伊織を捕らえようとしていたのだ。伊織は、結が桐生家と関わりを持っている事は認識していた。だが天賀家と似たり寄ったりだと考えていた。

 桐生家の幸士郎が、優れた人形使いである結に求婚して、結は彼をけむたがっていると思っていたのだ。

 しかし結は自分の意思で幸士郎と手を組んで行動していた。しかも結は、心を閉じてしまったイブを操っていた。

 確かに伊織のあるじは伊織を使って結を捕らえようとしていた。幸士郎はむしずが走るようなヒーロー気取りで結を守ろうとしている。

 結がどちらに心を開くかなど、考えてみれば一目瞭然だった。それに幸士郎はなかなかの美少年だ。反対に天賀勝司は顔が悪い。顔が悪いだけならまだしも性格もごう慢で残忍だ。

 結が勝司に会えば間違いなく勝司を嫌悪するだろう。伊織は、結に幸士郎を信じさせるための道化になったにすぎなかった。

 伊織は一目見た桜姫を思い出した。十五歳の時、伊織は桜姫に出会った。素晴らしい戦人形だという事は一目でわかった。

 桜姫は他のどの戦人形よりも優れ、そして複雑な心を持っていた。人形師一心の戦人形と契約できる事は人形使いのほまれだった。

 伊織は自分が桜姫と契約できるなど考えてもいなかった。天賀家の次期跡取りの勝司が契約できなかったのだ。自分も無理だと決め込んでいたので、気楽に契約の儀式をした。

 桜姫と目が合った時、一陣の風が伊織の胸を通り過ぎていった。桜姫は伊織を契約者に選んだのだ。

 桜姫は伊織に自分の意思を伝えてきた。私は人を傷つけたくないと。伊織は恐れおののいた。桜姫と契約した以上、伊織は死ぬまで天賀家で働かなければいけない。

 人形使いの家には、光の桐生家、闇の天賀家という言葉があった。桐生家は生臭い仕事を嫌い、真っ当な仕事をしていた。だが天賀家は時の権力者の依頼を受け、血生臭い仕事も多分に受けていた。

 伊織は少しばかり人形使いの才能があった。そのため天賀家の当主には目の敵にされていた。伊織が桜姫と契約したら、天賀家の当主は、伊織に恐ろしい仕事をさせるだろう。

 そう考えた途端、伊織はその場から逃げ出した。これからの自分の身の上を不安がっている桜姫を置き去りにして。

 あの時、桜姫も一緒に連れて逃げればよかったと、何度も後悔した。だが結果的には桜姫は桐生家で幸せにしていたようだ。もしあの時伊織が桜姫と一緒に逃げれば、桜姫を取り戻そうと沢山の追手が伊織を追っただろう。伊織だけだから逃げおおせる事ができたのだ。

 
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