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伊織と花雪

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 伊織は何とか寝ぐらにしている黒岩哲太の人形工房までたどり着いた。無事に逃げ帰る事ができてホッとするとともに、自身の戦人形である花雪の顔が浮かんだ。

 花雪は伊織の操りから抜け出し、自らの意思でクマに戦いを挑んだのだ。伊織を逃すために。

 伊織は花雪の気持ちに感謝し、彼女を置き去りにして逃げる事を選んだ。伊織にはやり遂げなければいけない事があるのだ。それまで捕まるわけにはいかないのだ。
 
 伊織はぼんやりと初めて花雪と出会った時の事を思い出していた。

 天賀家の指示に従い、人形師黒岩哲太の工房を訪れると、中から大柄な男が出て来た。伊織も長身な方だが、哲太の方がさらに大きかった。

 哲太は酒臭い顔を伊織に近づけて言った。

「天賀家から話しは聞いている。好きな戦人形を選べ」

 伊織はうなずいて工房の中に入った。壁に作られた棚には、沢山の戦人形が置かれていた。だがどの人形も、どこかおかしかった。

 まるで宇宙人のような不思議な姿の人形や、SF映画のスターウォーリアーズに出てくるロボットのような人形まであった。

 これは人形師選びを失敗したかなと考えていると、愛らしい少女人形があった。伊織はホッとして少女人形たちを眺めると、手が変だった。本来ならば白魚のような美しい手があるところに、刃物がついていた。

 伊織が顔をしかめて少女人形を見ていると、一体の少女人形に目が止まった。真っ黒な髪をおかっぱにした美しい少女人形だった。

 花。

 伊織は思わずつぶやいた。花、伊織の最愛の娘。花は小さい頃から、妻の雪絵が髪を切ってやっていた。だが雪絵はそんなに器用な方ではないので、花はいつもまゆげの上からパッツンと前髪を切られていた。

 伊織は娘の髪型を見て、吹き出して言った。

「何だ花。まるでコケシみたいじゃないか?」
「こけし、ぱぱこけしってなに?」

 幼い花は舌ったらずな可愛い声で伊織に質問した。伊織は花のおかっぱ頭をぐりぐり撫でながら答えた。

「コケシっていうのはなぁ。木の人形の事だよ?」
「はなちゃん、こけし。わぁい、はなちゃんこけし」

 コケシを見た事のない花は大喜びした。それを見た妻の雪絵が顔をしかめて言った。

「もう、パパったら。花がコケシを見たら怒るわよ?」
「あはは」

 伊織は花を抱き上げて機嫌良く笑った。もし花がコケシを見て、花ちゃんこんなんじゃない、と怒ったら。花の方がコケシより百倍可愛いよ、と言ってやるつもりだった。

 だがその時は永遠におとずれる事はなかった。伊織の命より大切な雪絵と花は死んでしまった。

 伊織は過去から意識を戻し、おかっぱの少女人形に声をかけた。

「よぉ、ぺっぴんさん。名前はなんて言うんだ?」
「名前なんてねぇよ」

 おかっぱの少女人形の代わりに哲太が答える。伊織は、じゃあとつぶやいてから言った。

「お前の名前は花雪だ」

 伊織が花雪と目を合わせると、ふわりと春風のような風が胸を突き抜けた。どうやら花雪は名前を気に入ってくれたようだ。

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