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黒猫

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 小学生の頃、まだ寒さが残る2月のある日、僕は怪我をした黒猫に出会った。
 
 塾の帰り道、すり減って使いにくくなった消しゴムを新しく買うため、文具店を目指しているところだった。いつも通る道が工事中で通れなくなっていて、ぐるりと回り道をして馴染みのない道に入った。

「こんなところに公園があったんだな、知らなかった」

 道沿いにあるその公園は夕方だからだろうか、閑散として少し寂しい感じがした。とは言え、滑り台にブランコ、鉄棒にジャングルジム、バスケットゴールまで一通り遊べそうな遊具はある。今度昼間に来てみようかなと思いながら通り過ぎようとした時、猫の鳴き声が聞こえた。
 僕はきょろきょろと辺りを見回してみたが、姿は見えない。ひどく掠れて消え入りそうな鳴き声に、なんだか胸騒ぎがして声のした方に行ってみると、公園の一角に立つ、一本の桜の木の陰にその猫はいた。

「血が出てる……、怪我してるの?」

 前脚に引き裂かれたような傷が見える。その傷を庇うようにして丸くなり、よほど弱っているのか僕が近づいても警戒する素振りもない。
 このままここにいたら、きっとこの子は死んでしまう。そう思った僕は居ても立っても居られなくなって、首に巻いていたマフラーで猫をくるみ、ゆっくりと抱き上げた。
 抵抗することもなくあっさりと抱かれて、びっくりするほど軽くて痩せたその猫は、閉じていた目をゆっくりと開くと何かを訴えるように僕を見つめ、スンスンと鼻を鳴らして再び目を閉じた。

「大丈夫、絶対助けるからね」

 腕に感じる確かな温もりを落とさないように大切に抱えて、僕は夢中で駆け出していた。

 家に連れ帰り、驚く親に頼み込んで動物病院で診てもらった。幸い怪我はそう深くなかったが、炎症を起こしているのと、体もひどく衰弱しているという医師の診断を受けて、数日間は病院で様子を見てもらうことになった。
 
 翌朝、朝食も程々に学校が始まる前に猫の様子を見に行った。24時間診療の病院なので早朝にも関わらず、職員たちは手際よく仕事をこなしている。昨日、診察してくれた医師がいたので挨拶すると、すぐに案内してもらえた。

「よかった。気持ち良さそうに寝てる」

 ゲージの中で静かに眠っている猫の様子に、僕はほっと胸をなでおろした。しばらく見ていると気配を察したのか、両耳をぴぴっと震わせた猫がすっと目を開けた。

「あっ、ごめん。起こしちゃったな。傷は痛くない?」

 前脚に包帯を巻かれて痛々しい姿のその猫は、まるで僕の言葉に応えるように目を細めて見つめてきた。ゲージの隙間から指を入れて、そっと猫の前にさしだしてみるとスンスンと匂いを嗅ぐように鼻を動かし、ゴロゴロと喉を鳴らして僕の指先に顔をすり寄せてくる。

「大丈夫って言ってるの? 早く元気になってね」

 触れている指から柔らかく温かい感触と一緒に、猫の感情が伝わってくるような気がして、僕は心が弾んだ。
 
 それから病院で3日間過ごした猫は、僕の家にやってきた。喘息がある妹がいるため、全ての世話を僕が担当し、僕の部屋で世話をすることを条件に親が許してくれたのだ。
 病院から帰ってすぐに自室へと連れていき、ベットの上に準備したふかふかのクッションにそっとのせると、猫はゆっくりと毛づくろいを始めた。

「僕は奏汰かなたっていうんだ。よろしくね。君の名前を考えてみたんだけど、サクラっていうのはどうかな?」

 僕も一緒にベットに寝そべって、一心不乱に毛づくろいをしている猫に問いかけると、お腹の辺りを舐めていた舌を止めて大きな瞳でこちらを見つめてきた。そしてまだ包帯が巻かれている前脚を少し庇いながら立ち上がり、喉を鳴らして僕の頬に額を押し付けるようにすり寄せてくる。

「無理して立たなくていいんだよ。でもその反応は、名前が気に入ったってことでいいかな?」

 すり寄せてきた額を撫でてあげると、返事をするようにニャアとサクラは鳴いた。

 それからしばらくの間、サクラの傷の手当てが僕の日課になった。傷の周りだけ毛が刈られて見えている地肌は、化膿した部分が熱をもち、その周囲が赤く腫れていた。病院での処置が功を奏して悪化するのは免れたが、毎日の手当てが欠かせない状態だった。医師に教えられた通りに薬を塗り、包帯を巻き直す。
 その甲斐あってか、10日程で包帯は取れ、歩く時にも庇わずにサクラは歩けるようになった。弱っていたせいで艶が無かった毛並みにも黒真珠のような美しい光沢が戻り、みるみるうちに回復していった。

「もうすっかり元気だね。よかった」
 
 サクラの額を撫で、背中まで優しく手を伸ばす。そうすると目を細めてゴロゴロと喉を鳴らしながら背を反らせ、何とも幸せそうな表情をするサクラがたまらなく可愛くて、もふもふのお腹に頬を寄せた。
 
「サクラのお腹、気持ちいいな。これからもずっと一緒にいようね」

 艷やかな黒い毛並みは、ふわふわで柔らかい。頬ずりする僕の顔をペロリと舐めて、濡れた鼻先をツンっと押し付けてくる。

「うわっ、くすぐったい。サクラの鼻冷たっ」

 笑いながら顔を離すと、温かな琥珀色の瞳が見つめてくる。虹彩の周りがわずかに緑がかっていてとても綺麗だ。

「不思議な色だ。綺麗だねぇ」

 思わず見入っていると、ふと、その瞳に心の中を透かし見られているような気持になってドキリとした。なんだか落ち着かない。僕はまるで、この猫に恋をしてるみたいだと思った。

「猫に恋? クラスの女の子を好きになったことも無いのに……」

 その感情の置き場に困りながら、また額を撫でてあげると、サクラは満足気に目を細めた。

 サクラと過ごす時間は、僕にとって心満たされるものだった。
 僕は学校に行っている時間以外はずっと、サクラと一緒に過ごした。サクラも僕といる時は、ピタリと寄り添うように傍にいる。時々、外に出ていくことはあるが、夜までには必ず戻ってきて僕の腕の中で眠った。
 僕が叱られて泣いてしまった時は、慰めるように時々頬を舐め、落ち着くまで傍にいてくれた。本を読んでいると、その本の上に乗って邪魔をしてきたり、そうかと思えば宿題をする僕の膝の上で丸くなってうたた寝をしたりもする。そんなふうにサクラとの幸せな日々は一日、また一日と過ぎていった。

 そしてきっと、こんな毎日がこれからも続いていくと思っていたある日、朝目を覚ますと、いつもは僕が起きるまで腕の中で一緒に寝ているサクラの姿が見えなくなっていた。サクラが家に来てから一度もそんな事は無かったのに。 
 僕は慌てて家じゅうを探した。だけどサクラの姿はどこにも見えなくて、サクラが行きそうな場所や近所も必死に探した。もしかしてと思い、サクラを拾ったあの公園にも行ってみたが、やはりそこにもいなかった。

「どこに行っちゃったんだ……サクラ」

 探し歩いていつの間にか日は暮れ、僕は仕方なく家に戻った。もしかしたらいつもみたいに、夜にはひょっこり帰ってくるかもしれない。そう思って部屋の窓を開けておいた。
 しかし何日経ってもサクラは帰って来なかった。
 サクラがいない現実が受け止められなくて、僕はそれからも探すのを諦めなかった。だが、サクラがいた痕跡ばかりが残る自分の部屋に戻るたびに、その事実ががだんだんと現実味を帯び、僕の心を悲しく締め付け続けた。

 サクラがいない日々は過ぎて、気付けば季節は春になっていた。淡いピンク色の桜が咲き誇る、穏やかで温かな春。
 僕はある晩、不思議な夢を見た。

「奏汰、悲しい思いをさせてすまなかった。必ず会いに行くから、だから待っていてくれないか」

 夢の中でそう話しかけてきたのは、黒い猫……サクラだった。今までどこにいたの? 会いに行くってどういうこと? どこも怪我なんかしてない? 聞きたいことは山ほどあるのに、肝心の声が出ない。せめて触れて確かめたい。そう思って手を伸ばすと、その手に体をすり寄せていつものようにゴロゴロと喉を鳴らす。

「……約束だ」

 必死で頷く僕をじっと見つめて、決心したようにくるりと身をひるがえし、遠ざかっていくサクラを追いかけようとしたところで、夢は途切れ目が覚めた。心臓が激しく脈打って、夢と現実との狭間にいるような不思議な余韻に浸りながら、夢の中で触れたサクラの柔らかな毛の感触が残る手を見つめた。
 それは毎日触れていた、感触そのものだった。

「サクラ……っ」

 僕は溢れてくる涙をとめられなかった。
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