漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 七月の頭、蒸した空気に支えられて、明るい曇天が広がっていた。
 平日とは違う層の人々が行き交う日本橋は、人の数に変わりないように見えた。
 賢一はどこに行くにも同じTシャツ姿で、コレド日本橋の前にいた。他に待ち合わせの場所を思いつかなかったからだ。
 旅の興奮を隠そうとしない外国人グループが、歩道の半分を占めながらやってくる。美砂がすぐ後ろにいることは、賢一にはすぐにわかった。
 美砂も賢一と大して変わらない、ラフなパンツスタイルだった。淡色のTシャツに、左腕だけ黒いアームカバーを着けていた。
「自分で提案しておいて何なんですけど、本当に日本橋散策でよかったんですか?」
 小さく手を振った賢一と合流すると、挨拶もそこそこに美砂が言った。
 こずえのあと、賢一は美砂と二度ほど電話をして、会う約束を取り付けた。賢一からすれば、美砂と会ってからの行動は、自分でも分析できない積極性を持っていた。
 大学からこの方、賢一は女性を誘うために労力を割くことをしてこなかった。女性を求める気分にならなかったということではない。
 他のことで精一杯だったからというのは、自身に対する弁明だ。
「歩くのは好きです。行きましょう」
 賢一が促すと、美砂は素直にうなずいて足を日本橋川に向けた。まずは日本橋と江戸橋を見て、茅場町の方に行くという。
 今の部署に異動したてのころは、賢一も仕事終わりに日本橋界隈まで足を伸ばして、散策することがあった。
 完璧に護岸された川、日本で最も忙しい街路のざわめき、ビルと首都高が絡まり合う造形。それらが組み合わさると、この場所にしかない風景ができあがる。
 その光景は、賢一には全くもって新鮮だった。目的もなく夜の日本橋を遠回りして歩いたものだった。
 今はもう、退勤後にわざわざ疲れるようなことはしなくなった。この風景に飽きることはなかったが、心落ち着く眺めとは違ったからだ。
 賢一の街との対話はそんなものだった。
 美砂は違った。彼女の着眼点は、現在の構造物にはないようだった。
 美砂は、ポツポツとした口調で、ここに堀留川がつながっていたとか、ここに楓川があったとか、賢一には思いもよらないようなことを言った。
「小苗さん、歴史に詳しいんですか? そういう運河って江戸時代のものですよね?」
「そうです。でも順番が逆です。私、水が通っていたんじゃないかなっていう場所を探しながら歩くのが好きなんです。歩いた後に古地図のガイドブックとかで答え合わせをして、そこから昔の土地のことを知っていく感じですかね」
「水路の跡を探せるんですか? 暗渠ならともかく、とても今の区画からじゃわからないでしょ」
 賢一は驚きではなく不思議さを感じて言った。
「道路が昔の掘川とばっちり重なってるわけじゃないですからね」
「想像力が必要かな」
「うーん、想像力と言うよりは、洞察力はあるかもしれないです。ものすごく限定されたものですけどね」
 そう言いながら、はたと美砂が立ち止まった。霊岸橋を新川に向けて渡っていたところだった。美砂は鉄の水門を背にして賢一の方を向いた。
「なんか、私のペースで歩いててすいません。こんなんで本当にいいんですか?」
 自分なりに楽しんでいるつもりだった賢一は、その念押しが意外だった。
「楽しいですよ。町歩きは好きです」
 賢一の表情を見て、美砂は言い訳するように言った。
「ごめんなさい。私、男の人とこうやって出かけたりするの初めてだから、どういうものかわからなくて」
「俺もデートなんて高校生の時以来なんで、世間一般の事は全然知らないです」
「そうなんですか?」
「楽しいですよ。こうやって歩くのは」
 賢一はもう一度言った。気を遣って言ったわけではなかったから、美砂には通じたようだった。
「なら、こっちに行きましょう。そうか、これってデートなんですね」
「え、そのつもりですけど。こっちこそ、ノープランですいません」
「じゃあ、なんか食べましょうよ。いつも一人で歩いてると、店って入りづらくて、結局コンビニかチェーン店になるんです」
「わかりますよ、それ」
 賢一は合わせて言った。淡々と二人で並んで歩いた時間が緊張をほぐしたのか、美砂は賢一に打ち解けた笑みを見せた。
 再び足を動かしながら、美砂は話し始めた。
「私、松江でもこんなことばっかりしてたんです」
「松江も水の街ですもんね。やっぱり埋め立てられたところが多いんですか?」
「どうかな。東京よりはマシかも。それはよくわからないです。時間があるとき、城の周り、殿町とか末次町とか、練り歩いてた」
 美砂がさらりと言う知らない土地の名に、賢一は旅情のようなものを覚えた。
「今も水は多いけど、地図にも載ってないような用水路の後をなぞって宍道湖まで出るのがパターンでした」
「水のあるところにいると、いろいろなことを思い起こしますね」
 宍道湖という単語から、賢一は魚津を連想して言った。美砂はうなずいた。
「私は歴史には特に興味はなかった。ただ、今とは全く違う生活があったことは確かで、そこに自分の想像を重ねながら歩くのが楽しかったんだと思います」
 美砂が言うことは、賢一に些細な納得を与えた。美砂には十代を一人で過ごした陰のようなものがあった。
「割と一人で過ごすことが多かったんですか?」
 賢一の問いかけに、美砂は微笑んでうなずくと、左腕のアームカバーをめくった。
「私、母がいないし、ほら、こんな大きなヤケド痕があるでしょ。高校に入る頃には引っ込み思案になって、ほとんど友だちもいなかったんです。短大時代もたいして変わらなかったな」
「つらかったですね」
「自分ではつらいなんて思ってなかったけど、東京に逃げてきたってことは、そうではなかったんでしょうね。いつも夕飯とか、明日の父の弁当のこととか考えてたし、腕の傷跡のことも気になってたしで、同級生とは優先事項とか、問題意識がまるで違ってたんだと思う。その違いは、今思えば苦しいかもしれないです」
 賢一は静かに相づちを打った。
 普段からなのか、今が特別なのか、美砂は自分のことに対して饒舌だった。
「その差を埋める努力もしなかったんですけどね。だから、城下町をふらふらしてた」
「そんな努力はしなくてもいいような気がします」
「多少はした方がいいでしょ」
「人にはそれぞれ事情があるし、その努力自体が、また苦しいんじゃないかな」
 真面目な顔でいう賢一に、美砂は小さく笑った。
「青貝さんが擁護する必要ないじゃないですか」
「擁護しているわけじゃないです。どこか自分のこととして聞いてるんですよ」
「それはどうだろう。自然に人とつながれる人には、わからないかも」
 独白のような言い方だった。
 賢一は言葉で返すのがふさわしくないような気がして、違う質問をした。
「その腕は、いつ?」
「ああ、小学四年の時、煮立った鍋の味噌汁で。父がいる時間で良かった。かなり深いヤケドだったんです。包帯ぐるぐるで、ずっと泣いてました」
「気の毒に。大変でしたね」
「正直、大変でした。普段はこの痕があることなんて意識してないけど、今もふとしたときに人の目が気になりますね」
 二人とも話に夢中になっていたようだ。気づかないうちに、新川、美砂曰くかつての霊岸島を歩き通していた。代わり映えのしない都会の風景のせいでもあった。
 高橋を渡ったところで気がつき、すぐに八丁堀にさしかかった。
「お父さんはどんな人なんです?」
 幼少期の美砂が目の前にちらついて離れず、賢一は街のことは後回しにして、そんな聞き方をした。
「陽気な人です。怒ったりすることは滅多にないけど、とにかくがさつですね。あの社会性の無さで、よく仕事が続いてるなって思う。水産加工の工場でもう三十年勤めてるんです」
「男親なんて、そんなものなんじゃなくて?」
「他の父親を知らないから、わからないです。母がいなくて、フォローするのが私しかいなかったせいで、余計にうっとうしく思うんですよ」
 美砂は淡々と言った後、振り返って賢一に聞いた。
「青貝さんのご両親は?」
「うちも父は地元の工場で働いてます。母は理容師で、チェーンのカット店で働いてますね。いつも余裕のない感じだった。俺の下に三人子どもがいるんだけど、一番下は予定外だったみたいで」
「お母さん、床屋さんなんですね。お兄ちゃんも大変だった?」
「そりゃ、もう。弟たちの反発の半分は、親じゃなくて俺にむかってきましたから。だから横浜の大学に逃げたようなもんです」
 賢一は肩をすくめて笑った。
「ちゃんとしたご家族なんですね。たまには帰ってるんですか?」
「ちゃんとしているのかどうか。盆と正月には顔見せてますよ」
「えらい。私はほとんど帰ってないです」
 今度は美砂が肩をすくめた。
 話ばかりしていたので、水路が張り巡らされていた往時に思いをはせるような、高尚な散策にはならなかった。それでも、結果的に美砂が予定していたコースは歩いたようだった。
 二人は京橋近くの交差点で立ち止まった。美砂が思い出したように、楓川と、八丁堀の結節点だったところだと言った。
「交通の要所か。船も多かったのかな。小苗さんは、埋められた堀が見えるんですか?」
 そう聞いたものの、見えるという言い方が合っているのかわからなかった。
 美砂は少し考えると、賢一の方を見た。
「見えると言うよりも思い浮かべます。そのとき、足の下にあると思うとうまくいかないんです。この並んだビルの上に川の水面があるって想像すると、しっくりきます。それで、なくなった川の場所が、なんとなくわかる」
「すごいです」
「この感じ、自分でもおかしいと思うんですよ。でも、そうできるのは堀と川だけ。江戸ができる前は、新橋から皇居前あたりまでは入り江だったらしいけど、私はそれがどうしてもイメージできなくて」
「どちらかというと、俺はそっちの方がイメージしやすいな」
 賢一が言った。城まで波が打ち寄せる光景は、すぐに思い浮かべることができた。
「青貝さん」
 美砂は賢一を呼び、立ち止まると、少し黙り込んだ。
 それから賢一を見た。
「青貝さんって、すごく話がしやすくて。私、つまらないことばかり話してませんか?」
「いいえ。小苗さんの話はすごく聞きやすいです。それに、いろいろ話してくれるのはうれしいですよ」
 美砂は、その返答を素直に受け取っていいのか悩むような、微妙な笑みを浮かべた。
 しかし、その表情は一瞬で通り過ぎ、また静かな目元に戻った。そして、唐突に言った。
「青貝さん、私、お腹空きました」
 賢一は予期していなかった言葉に数秒考えると、真顔で返した。
「なら、銀座、行ってみますか」
「銀座ですか。私、銀座なんて何も知らないですよ?」
 美砂も真顔で応じた。
「俺も知りません」
 賢一は真剣な面持ちで、スマートホンを掲げた。
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