漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 絵梨花は食べるだけ食べると保育園の先生へのちょっかいを始めたが、一時間で場に飽きてきた。大人の会話に割り込んでくる絵梨花に、庸子は自分の携帯で動画を見せてしのいだ。
 八時半を過ぎると、それももたなくなってきたようだ。
「ねー、もう帰りたい」
「あら、もうひとつお話残ってるんじゃない?」
 絵梨花は食べるだけ食べると保育園の先生へのちょっかいを始めたが、一時間で場に飽きてきた。大人の会話に割り込んでくる絵梨花に、庸子は自分の携帯で動画を見せてしのいだ。
 八時半を過ぎると、それももたなくなってきたようだ。
「ねー、もう帰りたい」
「あら、もうひとつお話残ってるんじゃない?」
「もういい。おうちがいい」
 虎泰が話しかけても、酒の入った先生はいつもの先生ではない。相手にしなかった。
 庸子はそれ以上は粘らず、バッグに手をかけた。
「じゃあ、私たちはお暇するわ」
「絵梨花ちゃん、もう寝る時間だよな。俺も帰るよ。明日仕事だし」
 賢一が言うと、美砂も腰を浮かした。
「私もです。帰りますね」
「そうする?」
 三園は後輩の退席に気分を害する様子もなく、虎泰に目で確認した。
「もともとお二人で飲む予定だったんでしょう? ご一緒させていただいてありがとうございました」
 賢一が言うと、美砂も軽く頭を下げた。
 金の計算は大雑把に済ませ、絵梨花を含めた四人は席を立った。
 虎泰は立ち上がって庸子に挨拶をし、三園はいつものようにひらひらと手を振った。さらに厨房からは舞が三園とは違う手の振り方で見送った。
 外に出ると、またひと雨通り過ぎた後のようで、アスファルトに水が張っていた。
 空には低い雲が街の光に照らされながら流れていくのが見えた。
「賢一、ありがとうね。久しぶりに楽しかった」
「こんなんでよければいつでも」
「美砂ちゃんもね」
「いいえ、こちらこそ。私、職場以外の飲み会って初めだったから、嬉しかったです」
「本当?」
 酔った庸子がびっくりしたように言った。
「職場とアパートの往復だけの生活なんです」
 苦笑いのような表情を浮かべて美砂が言った。賢一は一人でうなずいた。彼も似たようなものだった。
 門前仲町駅までたどりつくと、四人とも大江戸線に乗るということがわかった。ただ、賢一と美砂は、庸子親子とは逆だった。
「近くで働いてるのがわかったから、今度は昼でも一緒にしよう。また連絡するよ」
 賢一は別れ際に庸子に言った。
 成り行きでああなってしまった今日の席が、彼女が望んでいたようなものだったとは思えなかったからだ。
「わかった。そうしよ」
 庸子は絵梨花を飽きあげて、地下鉄の窓越しに手を振った。賢一と美砂も手を振って見送った。
「どこに住んでるんですか?」
 内回りの電車が去ったあと、美砂が賢一を見て言った。
「平和島です。わかります?」
「私、蒲田です」
「なんだ。じゃあ、途中まで一緒に行きましょう」
 美砂は嫌がるでもなく、反対側のホームから賢一と同じ車両に乗った。
「あの、奥端さんとは高校が一緒だったんですか?」
 つり革につかまってすぐに美砂が聞いた。賢一たちがどういう関係なのか、わからないままだったようだ。
「そうです。俺は富山の滑川出身で、隣の魚津市の高校に通ってたんだけど、庸子も同じ高校だったんですよ」
「すごい偶然ですよね」
「そんなふうに思ってなかったけど。偶然と言えば偶然か」
 お互いが東京にいることはなんとなく聞いていたから、そういう言い方になった。
「大学はこっちだったんですよね?」
 美砂は両手でつり革を握りながら、首をかしげるようにした。知りたいことは素直に聞く性格なのだろうか。酔っているだけかもしれない。
「町田に母方の祖母が住んでたんです。そこに間借りするなら、首都圏の大学でもいいって言われていたから」
 祖母の家を利用するのであれば、仮に私立の理系でも学費は出すと両親は言っていた。親にそこまで甘える気にはなれず、賢一は都内の大学よりは入りやすかった横浜市立大学に進学した。
「俺の下にまだきょうだいが三人いるんで、遠慮はしました」
「へえ」
 美砂は町田市がよくわからなかったようなので、賢一は二人の顔の前で東京都の形を指でなぞった。それを真面目にやっているのだから、思っている以上に酔っ払っている。
 美砂は大げさにうなずきながら聞いていた。町田市と横浜市金沢区の位置関係は、美砂には絶対に理解できていないと、賢一は思った。
 並んで話すことに慣れるころに大門駅に着いた。美砂は店の時よりも口がなめらかなだった。
 賢一は乗り換えのタイミングを忘れていた美砂を促し、二人でいそいそと浅草線ホームに向かった。



「私は松江出身なんです」
 再び両手でつり革につかまりながら、美砂は聞かれる前に話し始めた。
「兄弟はいなくて、母親もいないから、しがらみはないはず、なんですけどね。出てきました」
「お母さんが?」
「ええ。物心つく前に亡くなったっていってるけど、いい加減な父親だから、本当かどうかわかんない」
 くくく、と笑いながら美砂が言った。賢一は笑えない。
「いつ東京に来たんです?」
「通ってた地元の短大に、今勤めてる法人が求人を出してたんです。すごいですよね。東京の保育園が松江にまで求人出してるんだから」
「確かに」
「給料は地元よりよかったし、なによりも区の家賃補助がすごかったんですよ。これなら都会で暮らせるなって」
 そう話す美砂の横顔を、ほどいた黒髪が覆っていた。きれいな顔立ちに施された化粧は薄く、服も質素だった。
 そんな彼女はとても都会志向だとは思えなかったから、賢一は素直にたずねた。
「都会に出たかったんですか?」
 美砂は賢一を横目で見ると、小さく微笑んだ。
「全然。実家と地元から逃げたかっただけ」
「ああ」
「なにか腑に落ちました?」
「いや、俺もそうだなって」
「うん、そんな気がしました」
 泉岳寺で今度は京急線に乗り換えた。同じホームの反対側なので、歩くことはない。ここまで来れば、二人にとっては慣れた帰り道だった。
 この日の九時のホームには、人がやたらといた。近づく電車が押し出してくる風は生ぬるく、人いきれを掃き出すものではなかった。
「こっちに出てきて、楽しかったですか?」
 ホームで美砂が賢一に聞いてきた。
「楽しくないことはなかったけど、必死でしたね。人に迷惑もかけたし」
 そんな言葉に、美砂は次を促すような目を賢一に送った。
 そのときけたたましい場内放送とともに京急の特急が入線した。電車の中で賢一はまた美砂と並んで立つと、続きを話し始めた。
「高校時代の友人が神奈川の大学にいたんです。庸子とも共通の友人」
 混み合った車内で、賢一はうなりを上げるモーターに負けない声で話した。
「同じ大学?」
「いや、藤沢にある大学の農学部だった。そいつ、昔から生き物が好きだったんですよね」
 地名を言ってもわからないだろうと思いながら、賢一は話を続けた。
「その友人が大学にいながら起業して、俺はそれを手伝ってました」
「すごいですね」
「褒められるようなことじゃないんです。行動力とか、志とか、そういうのがあったわけじゃなくて、成り行きに近かった」
 賢一は謙遜ではなくそう言った。
「最初は友人が動物の飼育用品や飼料を自分用に個人輸入して、それを大学の先輩や友人に分けるところから始まりました」
 賢一はちくりとした痛みを感じながら話していた。酔っているな、と改めて思った。
「俺も書類作りだとか梱包だとかを手伝った。うまくいけば面白くなりそうだと思いながら。半分サークルみたいな感覚でね」
「それ、うまくいったんですか?」
「全く。すぐに仕入れに回す金がなくなって、俺もそいつも他のアルバイトで稼いだ金を全部そっちにつぎ込む始末でした。でも、それは楽しかったですよ。結果を顧みずに一生懸命にやれているうちは」
「青春ですね」
 美砂の陳腐な言葉に、賢一は首を横に振った。それに答えるように、電車が揺れた。京急の運転はいつにも増して荒々しかった。
「青春では済まなかったですね。バイトの金が全部消えていくから、食費だとか交通費だとかは祖母に面倒を見てもらうことになってしまって。友人は商売に熱を入れすぎて、大学を中退してしまったし。俺にとっては、それが一番堪えたな」
「そうだったんですか」
「大学の卒論は自分たちの商売の失敗をベースに書いた。評価は良かったな」
 賢一は薄ら寒い笑い方をした。
 泉岳寺から平和島までは十分だ。到着を知らせる録音の車内放送の後、ダミ声の車掌の声が途切れ途切れに聞こえてきた。賢一は天井のスピーカーを見上げた。
「また会えませんか?」
 賢一は考えるより先に言っていた。我ながら滑舌のよい声だった。
「もう少し話しがしたくて」
 美砂は一瞬内面のうかがえない表情を浮かべ、それから小さく微笑んで携帯を取り出した。
「いいですよ。連絡ください」
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