漂う結び目

izumi_mutsu

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漂う結び目

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 賢一は仕事終わりに庸子、絵梨花と馬喰横山駅で待ち合わせをした。賢一を見つけると、庸子は明るく手を振った。
「待った?」
「ううん、今来たとこ」
 長いことご無沙汰だったそんなやりとりに、背徳的なくすぐったさを感じた。そんな思いは一瞬で過ぎ、賢一は絵梨花にも挨拶をした。
 乗り込んだ車内で、庸子は弁当屋ではできなかった話をした。
 庸子は地元の私大に通っている時、夏休みで海上保安大学から帰省していた年上の男性と知り合いになった。卒業してすぐにその男性と結婚し、夫の赴任先である横浜の宿舎に入った。横浜に住んでいる間は育休を挟みながら仕事もしていた。
 夫が第七管区に異動となったのと、庸子が今の職場に転職したのは同時期だった。
 どうしてもやってみたい仕事だった。だから、育児負担を覚悟で単身赴任を選んだ。宿舎を出るにあたって、職場に近く、横浜市より子育て支援が充実している都区部に引っ越しをした。
 そんな来し方を、庸子はすらすらと賢一に話して聞かせた。
 庸子の話はさわりだけだったが、地下鉄はもう門前仲町駅に着いていた。
 地上に出たところで、庸子は絵梨花に小さなドーナツをくわえさせた。保育園のおやつでは夜までもたないと、庸子は賢一に言った。
 雨上がりのアスファルトは薄明るい空の光をぬめるように反射し、暗い水面を思わせた。
 なんということはない規模の歓楽街に艶めかしさのようなものを見てしまうのは、かつての花街の気配が薄く残っているからだろうか。
 隅田川以東にはほとんど土地勘のない賢一でも、初見でそんな空気は感じ取った。
 午後の七時近く、もう酔客の声が路地に漏れてきている。湿った空気は、そばを流れる大横川の淀んだ臭いも運んでいるようだ。
 絵梨花には初めての雰囲気だったようだ。かわいらしく壁面を飾り付けた保育園とは、全く違う世界だった。
 蒸し暑い夜で、絵梨花は半袖一枚だった。賢一は薄いジャケットを腕にかけて、袖をまくっていた。
 賢一はたどりついた店の白木のドアに目をやって店名を確認した。カードの字体から和風な店を想像していたが、店の構えは軽い雰囲気のバーを思わせた。
 のれんはなく、ドア横に「こずえ」と書いた看板がぶら下げてあった。
「予約しちゃったけど、子連れ向きじゃなかったかな」
「弁当屋にチラシがあった店でしょ? いいじゃん」
 ドアを開けると男性の「いらっしゃいませ」という声が、先客が声高に話す声に混ざってやってきた。
 店主らしい黒ベストの五十がらみの男性が、賢一が名乗る前から席を腕で示した。カウンター席向こうの厨房から、舞が珍しくにっこりと微笑んで見せた。
 いくつかあるテーブルは一つを除いて埋まっているようだった。その一つには予約札が立ててある。
「来たな!」
 予約席隣のテーブルで、椅子の背もたれに腕をかけて振り返ったのは三園だった。
 それを見て、賢一は自分がひどく邪悪な顔をしてしまったのではないかと思った。
「なんです、いったい」
「それはこっちの台詞だね。予約を入れたら、青貝様からもご予約いただいてますって。俺を差し置いてどういうこと?」
 賢一は再び厨房の舞に目をやった。また笑みで返してくる。青貝賢一が自分だと何で知っていたのだろう。
 賢一と三園のやりとりと並行して、庸子が高い声を上げた。三園のテーブルにいたのが虎泰と黒髪の保育士だったからだ。
 つまり、数日前の弁当屋と同じメンツだった。「美砂ちゃん、トラ先生!」
「絵梨花ちゃん、また会ったね」
 そう言った虎泰は、わざわざ立ち上がって庸子にも挨拶をした。六人の会話に、隣のテーブルの客がちらちらと振り向いていた。
 自然と二つのテーブルをつないで六人の会食となった。どう考えても、そうせざるを得ない。
 全員が席に着いたところで、美砂ちゃんと言われていた女性が、虎泰の耳元に何やらささやいた。
 その所作が気になって賢一が目をやると、虎泰が話した。
「法人の内規で園児や保護者と個人的な関わりは禁じられてるって話です。そうは言っても、これは偶然だもんなあ」
「形だけの内規なんてどうだっていいだろ」
 三園がバカっぽい口調で言ってのけた。
「奥端さん、大丈夫ですか?」
 美砂が庸子に静かな声で確認した。賢一は庸子の今の姓を思い出した。
「私は全然大丈夫。絵梨花も美砂ちゃんたち一緒でいいよね」
 絵梨花は控えめにうなずいた。エプロン姿でない保育園の先生と一緒なのは、不自然ではあるだろう。
 だが、思わぬ組み合わせの食事会が微妙な空気にならずに済んだのは、絵梨花がいたおかげだった。幼い子どもがいるだけで、会話の間が和んだ。はじめは硬い表情だった絵梨花は、一杯目のビールが終わらないうちに、虎泰の膝や美砂の隣などを行き来するようになった。
 保育園の二人は北川虎泰と小苗美砂だと名乗った。二人とも同じ法人のそれぞれ違う保育園から、今年の春に異動してきたとのことだった。
 三園は、本当は虎泰とサシで飲むつもりだったと、賢一に小声で言った。この店を選んだのは、賢一と同じように単純な好奇心からのようだった。
 美砂がついてきたのは虎泰からの提案だと言った。
「人間関係がさっぱり広がらないってぼやいていたから、なんとなく誘ってみたんですよ。三園も嫌がらないと思ったから。そしたら、あっさりと行くって言うから」
 二人の会話を聞きつけた虎泰が言った。
「そりゃ大歓迎だよ」
 三園は声を大きくして言った。彼の思惑とは違う席になってしまい、即座にモードを切り替えたようだった。
 美砂の今ひとつ緊張が抜けない表情からは、軽い気持ちで返答したのに、本当に連れてこられてしまったといういきさつが透けて見えた。
 虎泰の柔らかい態度は、横車を押す性格の裏返しだ。賢一はしばらくしてから、そう見立てていた。元コンサルタントなら、ありがちなのかもしれない。
 三園は賢一に指を向けた。
「青貝は去年からうちの部署だから、こいつもまだ新参者だよ」
「へえ、そうなの?」
 反応したのは庸子だった。
「私が知っているのは、賢一が横浜の大学に行ったところまでだ」
「青貝は優秀ですよ。でも、必死すぎるきらいがあるかな。必要もないのに、どこか切迫してる」
 三園は賢一には意外な評価をさらりと言った。
「仕事の仕方とか、資格の取り方とか。常に追われてるな」
「俺がですか?」
「賢一は昔からまじめじゃん」
 疲れているのか、テーブルにもたれるように座った庸子が、当たり前のことのように言った。



「庸子は今何の仕事してるの?」
 賢一は仕返しのつもりで庸子に話を振った。
「デザイン事務所に勤めてる。本当に零細だけどね」
「そのお仕事、もう長いんですか?」
 美砂が箸で枝豆コロッケを割りながら言った。
「まだ一年ちょっと。絵梨花を園に入れたときとほぼ同時だったから」
「デザインなんて勉強してたか?」
 賢一は不思議そうに言った。庸子は地元の大学の観光学科に行ったはずだった。
「私の努力を知らないだろ、賢一は」
 賢一の言葉に、庸子は心外だというふうに返した。
「地元の大学に通いながら、通信で専門学校もやってたんだよ。エネルギー有り余ってたな、あのころは」
「知らなかった。それがやりたい仕事だったんだ」
「育休明けたあと、しばらく文房具の問屋で働いてたんだけど、このままじゃダメだって急に思っちゃって」
 それを口にしたとき、賢一は庸子の表情にまた疲れがちらつくのを見た。
「あ、僕も一緒ですよ。ある日、啓示が降りるんですよね」
 虎泰が、含みなどかけらもない、あっけらかんとした口調で庸子に言った。
「僕、大学を出たあと、普通の会社に六年いたんですよ」
「普通ではないわな。大手町の某一流企業」
 箸を口に運びながら三園が言葉を挟んだ。
「大手町はどうでもいいだろ。合ってなかったんでしょうね。このままじゃダメだって、五年目くらいで思って、その年に保育士試験を受けたんです」
「じゃあ、私たち気づいちゃった組ですね」
 庸子が芝居がかった身振りで言うと、虎泰はグラスを持ち上げて見せた。
「そういうの、いいですよね」
 ぼそっと美砂が言った。酒が入っているせいか、遠慮がちという感じではなかった。
「私は考えもなしに東京まで来て働いているだけなんで、そういう気づきがあった人がうらやましい」
「美砂ちゃん、そういうふうに思っちゃう? 大丈夫、この賢一も流されてるだけだから」
 庸子は斜め向かいの賢一を指さして言った。
「おいおい」
「おいおいじゃない。あんたはもう一皮むける必要があるんだよ」
 ひどい物言いに賢一が返す前に、庸子は急いで続けた。
「いや、ごめん。私もえらそうなこと言えないんだよね。今勤めてる会社の給料じゃ、絵梨花と暮らしていけないもん。結局は旦那頼りなのよ」
 庸子の顔に浮かんでいた疲れは、いつの間にか酔いに変わっていた。
「僕も独り身だからこんな生活できてるんですよ。今のままじゃ、とても家庭は持てないな」
 虎泰が言った。
「そういう自己卑下が俺は理解できないんだよね。やりたいことができてるなら、それが一番だろ」
 誰に対してなのか、三園は空になったグラスを眺めてそう言った。
 それから面倒くさそうにマスターを手で呼び、ふと庸子にたずねた。
「ご主人はどんなご職業なんですか?」
「海上保安官。今は山口に赴任してます」
「おおう、ステキなご職業ですね」
 三園はそう言うと、得体の知れない笑い方をした。
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